表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第三話 「月面の静寂」

 月に行くのは、初めてではなかった。


 野村真一はこれで三度目だ。

 それでも、月への降下を乗り切るたびに、どこかで「生きていた」とほっとする自分がいる。

  宇宙飛行士でも何でもない研究者が、あのGがかかる着陸を平然と受け入れるのは難しい。


「着陸まで六分」

 シャトルのパイロットが言った。

 野村はシートベルトを確認した。

 隣でエレンが静かに呼吸しているのがわかる。

 緊張しているのか平静なのかは、わからない。


「月は初めてか?」と野村は訊いた。

「二度目よ」とエレンが短く答えた。

「どうだった、最初は」

「気が遠くなるほど、静かだった」

 野村はその言葉を、少し転がした。

 気が遠くなるほど静か、か。

 音のない世界が、彼女にはどう見えるのだろう。


 着陸のショックが来た。

 機体が震える。

 そして静止。

「月面基地、アルテミス到着です」

 エアロック通過。

 シャトル内の空気が月面施設の管理気圧に合わせられる。

 そのわずかな圧力変化が、耳に来る。

 野村は顎を動かして耳抜きをした。


 施設内に入ると、匂いが変わった。

 再循環された乾いた空気。

 金属と、植物育成区画から微かに漂う緑の匂いが混じる。

 月面基地は、二〇二七年の第二期増設工事を経て、常時二十名近い研究者・技術者が生活できる施設になった。

 温度は常時二十一度。

 湿度四十五パーセント。

 そうしないと人間が壊れる。


「野村博士」

 出迎えの声がした。

 女性。

 若い。

「西田です。ATLASチームの西田さくら。先日メールを」

「知ってる。案内をお願い」と野村は言った。

 西田が動き出す。

 靴音が響く廊下。

 月面施設の廊下は、地球より天井が低く感じる。

 実際は同じくらいの高さだが、外が「無」であることを体が知っているせいか、どこか圧迫感がある。


 ATLAS第二観測棟は、施設の最深部にあった。

 月面下に潜り込むように設置された観測室は、地球の電磁ノイズが届かない代わりに、太陽風の影響も受ける。

 その補正処理が難しく、長らく精度が低かったが、野村チームが開発したアルゴリズムで大幅に改善された。

 今では地球のATLASより高精度のデータが取れる場合もある。


「これが最新の観測状況です」

 観測室のドアが開く音。

 室内に人が何人かいる気配。

 キーボードのタイプ音、モニターの微かなファン音、空調の低いうなり。

 野村には、そこにいる人間の緊張が音でわかった。

「みんな集まってたのか」と野村は言った。

「先週から、ほぼ全員ここにいます」と西田が言った。

「誰も帰りたがらなくて」

 そういうことだ、と野村は思った。

 これは、一度聴いたら離れられない音だ。


「見てください」と西田が言った。

「源泉の方向がほぼ絞れました」

 エレンが画面を覗き込む気配。

「……QSO J0906+6930ね」とエレンが言った。

「そうです。クエーサーです。赤方偏移から計算すると、地球から約百二億光年」

「信号の発信源として、このクエーサーがなぜ?」と野村は訊いた。

「クエーサーというのは」とエレンが隣で説明するように言った。

「銀河の中心にある超大質量ブラックホールが、ものすごい量の物質を飲み込むときに発する、非常に強烈なエネルギー放射の総称。宇宙で最も明るい天体のひとつで、地球からでも観測できる。ただし——」

「ただし?」

「このQSOは、一般的なクエーサーとは重力波の放射パターンが違うの。普通のクエーサーの重力波はランダムで、周期性を持たない。だからこそ、今回のパターンは異常なの」


「はい」と西田が続けた。

「さらに——これはまだ解析途中なんですが——信号の中に、複数の『層』があります。表面のパターンと、内部の構造が違う」

「知ってる」と野村は言った。

「三層だ」

「三層……どうしてわかったんですか?」

「聴こえるから」


 沈黙。

「そのうちの一層が」と西田は続けた。

 少し声が揺れていた。

「どうしても、説明がつかなくて。データとして存在しているのに、理論的に生成できるメカニズムが見当たらない。まるで——まるで、データの中に情報が埋め込まれているみたいな」

「情報?」

「暗号みたいに、というか……」西田が口ごもった。

「すみません、感覚的な表現で」

「いや」と野村は言った。

「俺も同じことを考えていた」


 その日の夜、野村は観測室に一人で残った。

 月面の夜は、地球の夜とは違う。

 月には大気がないから、昼夜は太陽の角度だけで決まる。

 施設内は常に同じ照明だ。

 それでも人間の体は二十四時間サイクルを求めるから、夜のシフトが来ると施設全体が静かになる。

 野村はヘッドフォンをつけた。

 ここで聴く「鼓動」は、地球で聴くより鮮明だ。

 地球のノイズが乗らないぶん、信号が純粋に届く。

 低い周期の波。

 高い周期の波。

 そしてその間に、何かが隠れている。


 静かに聴く。

 こうして耳を澄ますと、宇宙が近くなる感覚がある。

 視覚のない野村にとって、宇宙は最初から「見るもの」ではなかった。

 宇宙は「聴くもの」だった。

 光の写真より、重力波のデータの方が、宇宙を体感できる気がした。

 そのとき、ドアが開く音がした。


「眠れないの?」

 エレンの声だった。

「あなたもか」

「少し話したいことがあるの」

 彼女が近くに来る。

 椅子を引く音。

 隣に座った気配。

「多世界解釈の話をしてもいい?」とエレンは言った。

「聞く」


「量子力学では、観測が行われるたびに宇宙が分岐するという考え方がある。ひとつの粒子の状態を観測するたびに、『こうなった世界』と『こうならなかった世界』が両方存在し続ける。それが永遠に積み重なって、無数の世界が並行して存在している」

「知ってる」

「その無数の世界は、それぞれが完全な宇宙。そして——ここが重要なんだけど——もし宇宙全体が『観測されている』としたら?」

 野村は少し止まった。


「観測されている、というのは」

「この重力波のパターンが、宇宙の状態を決定するための信号だとしたら。量子力学的に言えば、観測によって状態が決まる。宇宙全体の状態を決定するための、巨大な観測信号が、百億年前から届き続けているとしたら」

「……それは、誰が観測しているということだ」

「わからない」とエレンが言った。

「でも逆に考えることもできるわ。私たちが今ここでこの信号を受け取り、解析しようとしていることが、その『観測』の一部なのかもしれない」

「俺たちが宇宙の観測者であると同時に、宇宙に観測されている」

「そう」

 沈黙。


 月面の静寂は、本当に静かだった。

 地球にいると、どんな静かな夜でも何かの音がある。

 風、虫、遠くの車。

 ここには何もない。

 建物の空調だけが低くうなっている。

「あなたはなぜ、目が見えなくなっても宇宙の研究を続けたの?」

 エレンが唐突に訊いた。


 野村はしばらく考えた。

 答えたくない、ということはなかった。

 ただ、うまく言葉にしたことがなかった。

「見えなくなって、宇宙が面白くなった」と野村は言った。

「面白く?」

「見えていたころは、宇宙は遠い場所だった。写真の中にある。望遠鏡の中にある。でも見えなくなってから、宇宙が体に入ってくるようになった。重力波のデータを音で感じるのも、そのせいだ。宇宙は遠くにあるものじゃなくて、今ここを貫いているものだと、体でわかった」

「今ここを、貫いている」

「今この瞬間も、何千という重力波が地球を、俺たちを、貫いている。ほとんどは弱すぎて感知できないが、確かに通り過ぎている。宇宙の出来事が、今ここの空間を揺らしている」

 エレンは黙っていた。

 しばらくして、「わかる気がする」と小さく言った。

「あなたには珍しい言い方だ」

「そう?」

「いつも、わかると言う前に証明を要求する」

「……今夜は、証明を休んでいる」

 その声は、いつもより少し柔らかかった。

 野村は何も言わなかった。

 ヘッドフォンの向こうで、宇宙の鼓動が続いていた。


 翌日の夕方、新しい来訪者が月面基地に到着した。

「堺長官が来た」と西田が告げた。

「それと——軍の人間も一緒に」

 野村は観測室でその言葉を聞いて、少し眉を上げた。

 会議室に行くと、久しぶりに聞く堺の声があった。

「久しぶりだな、真一」

「来ると思ってた。この状況で来ないはずがない」と野村は言った。

「ただ、なぜ軍と一緒に」

「座ってくれ」

 堺の声が、少し重い。

 長官として話す声だ。

「今から話すことは、まだ外に出せない。わかってほしい」

「聞く」

「NSAとDARPAが、この信号に注目している。アメリカ政府が——つまり軍が——この信号の軍事的応用可能性を検討したいと言ってきている」


 野村は黙った。

「重力波をエネルギー源として利用できないか、という話だ。理論的には、この規模の重力波パターンをコントロールできれば、莫大なエネルギーが取り出せる。核融合どころじゃない桁の話だ」

「それは、この信号が何かを理解しないうちに手をつけるということだ」と野村は言った。

 静かな声だったが、エレンにはその静けさが何を意味するか、この二週間でわかるようになっていた。

「わかってる」と堺が言った。

「だから俺が来た。研究を続けるためには予算がいる。施設がいる。宇宙船が必要になるかもしれない。政治的な保護が必要だ。そのためには、軍と完全に敵対するのは得策じゃない」

「だが、連中の目的に利用されることも許容しない」

「もちろんだ」

 野村は椅子の背にもたれた。

「宇宙船の話が出た。具体的に動いているのか」

 堺が少し間を置いた。

「動き始めている。ここしばらくの話だが——日米共同で、重力波を動力源とする推進システムの研究が進んでいた。あの信号が届く前から、理論段階で。だがこれだけの規模の重力波が観測されれば、動力として利用できるかどうかの実証実験が急速に現実味を帯びる」

「鳳凰」と野村は言った。

「知っていたか」

「JAXA内で噂は聞いていた。まさかこれほど早く本格化するとは思わなかったが」

「源泉まで行けると思う?」とエレンが言った。

 初めて口を開いた彼女の言葉に、会議室の空気が変わった。

「行くと仮定した場合、片道の所要時間は?ワープ技術が理論通りに機能するとして」

「理論値では、一回のワープで数光年を跳べる。百億光年の距離を埋めるには、数千回のワープが必要になる。現時点の試算では——」

 堺が書類をめくる音。

「乗組員の体感時間で約二年。ただし、相対論的な時間の歪みがあるから地球では何年が過ぎるかは——」

「計算できるわ」とエレンが言った。

「航路が決まれば」

「あなたも行くつもりか、リード博士」

「行かなければ意味がないわ」

 エレンの声は、迷いがなかった。


 野村は何も言わなかった。

 行く、行かない、という議論をするつもりはなかった。

 行くことは、最初から決まっていた気がした。

 百億光年の彼方で、宇宙が鼓動している。

 それに応えずに、どうする。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ