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第二話 「ノイズの中の声」

 エレン・リードという女性を、野村は会う前から知っていた。


 論文で知っていた。

 量子力学の「多世界解釈」——ひとつの出来事が起きるたびに宇宙が無数に枝分かれし、すべての可能性が別々の現実として存在するという理論——の専門家として、彼女の名前は宇宙物理学の世界では知らない者がいない。

 だが論文の文体は冷たかった。

 無駄がなく、感情がなく、読んでいると自分が数式の一部になったような気がした。

 嫌いではない。むしろ、野村は好きな種類の文章だった。

 ただ、話しやすそうな人間かどうかは、また別の話だ。

「野村博士」

 羽田空港に近い会議室で、声を聞いた瞬間、野村は少し驚いた。


 思っていたより、低い。

 ハスキーというわけではないが、落ち着きがある。

 アメリカ英語のイントネーション。

 ただし、ところどころに別の何かが混じっている。

 育ちが一か所ではない声だ。


「エレン・リード博士」と野村は英語で返した。

「来てくれてありがとう」

「飛行機の中でデータを見ていた。眠れなかった」

 挨拶を飛ばして本題に入る。

 野村は少し笑った。

「俺も昨夜は眠れなかった。座りましょう」


 テーブルを挟んで向かい合う。

 野村には彼女の顔が見えないが、椅子の軋む音、息の方向、手がテーブルを叩く小さな音から、大まかな配置が掴める。

 彼女は正面。

 背筋が伸びている。

 緊張ではなく、集中の姿勢だ。


「まずひとつ訊いていい?」とエレンが言った。

「どうぞ」

「あなたのソノグラム解析は、どこまで再現性がある? 感覚的なものなら、科学的議論の土台にならないわ」

 直球だ、と野村は思った。

 悪くない。


「再現性はある。過去の観測データ百二十七件に対して、俺がソノグラムで『異常あり』と判断したものは全件、後の精密解析で確認された。逆に『異常なし』と判断して見逃したのは三件。精度にして九七・六パーセント」

「……それは論文に出ていない数字」

「出してない。査読が通らないと思ったから」

「なぜ」

「再現性はあっても、なぜ俺に聴けるのか、メカニズムが説明できない」

 沈黙。


「正直ね」とエレンが言った。

「嘘をついても仕方ない」

 また少しの間があった。

 そして、彼女がバッグから何かを取り出す音。

 タブレット端末らしい。

「データを一緒に見たい——聴きたい、か。あなたのやり方で」

「構わない。昨夜の最新データを持ってきた」


 野村はノートパソコンを開いた。

 ソノグラム変換ソフトを起動し、ATLASから送られてきた最新の観測データを読み込む。

 変換処理が走る。

 数秒後、ヘッドフォンに音が流れてきた。


「聴こえるか?」と野村はヘッドフォンをエレンに渡しながら言った。

「これがそのまま宇宙から来ている重力波のパターンを、人間の可聴域に変換したものだ。音量は小さくしてある」

 エレンがヘッドフォンをつける気配。

 しばらくの沈黙。

「……」

「どう聞こえる?」

「波、に聞こえる。打ち寄せる波。でも——」エレンが少し止まった。

「でも、砂浜の波とは違うわ。もっと、奥がある」

「そう」

「規則性は……あるような、ないような。複雑すぎて耳では判断できない」

「俺には聞こえる」と野村は言った。

「三つの周期が重なっている。表面の波が短周期、その下に中周期、さらに深いところに長周期がある。三層構造だ」


 エレンがヘッドフォンを外した。

「証明できる?」

「今から」

 野村はキーボードを操作した。

 ソノグラムの出力波形を三つの周波数帯に分離する処理を走らせる。

 数分後、画面に——エレンには見えるが野村には見えない——三本の波形が並んだ。


「出た」とエレンが言った。

 声が変わっていた。

「あなたの言った通り。三つの周期が……短周期が約三時間、中周期が約五十時間、長周期は——まだ出し切れていないが、おそらく数百時間のオーダー」

「そう。そしてその三つは、互いに干渉し合っている。ランダムではない。数学的な比率で重なっている」

「どういう比率?」

 野村は少し間を置いた。

「音楽でいうと、和音に近い」

 静寂。

「……今、何と?」

「和音。複数の音が、ある整数比の周波数関係にあるとき、人間には『調和している』と感じられる。この三つの周期の比は、整数比に近い。偶然にしては、整いすぎている」


 テーブルを叩く音。

 エレンが立ち上がったようだった。

「それを最初から言って」と彼女は言った。

 声が硬い。

「それはきわめて重大な発見よ。自然現象で、宇宙的スケールの重力波がそんな整数比を持つことはありえない。それは——」

「人工的な可能性がある、と言いたいのはわかる」と野村は静かに言った。

「俺も最初そう思った。だが人工物を作れる知性が百億光年の彼方にいたとして、それがまだ存在しているとは考えにくい。百億光年というのは、光の速度で百億年かかる距離だ。その信号が今ここに届いているということは、百億年前に発せられた」

「宇宙の年齢は百三十八億年」

「そう。宇宙が生まれて三十億年ちょっとしか経っていないころに、誰かが——あるいは何かが——この信号を出した」


 沈黙が続いた。

 エレンが再び座る音。

 深く息を吸う音。

「もうひとつ訊いていい?」と彼女は言った。

 今度は声が低く、慎重だった。

「どうぞ」

「あなたは——これを聴いたとき、どう感じた?」

 科学者に感情を訊くのは、珍しい。

 野村はしばらく考えてから答えた。

「呼ばれた、と思った」

 エレンは何も言わなかった。


 だが、何かが変わった。

 二人の間の空気が、わずかに変わった。

 否定でも肯定でもない。

 ただ、同じ問いの前に立った者同士の、静かな了解のようなもの。

 窓の外で、飛行機が離陸していく音がした。


 翌週から、共同解析が本格的に始まった。

 NSRIの会議室が実質的な「ベースキャンプ」になった。

 エレンは滞在を延長し、毎朝八時に現れて夜の十時まで帰らなかった。

 野村も似たようなスケジュールだったから、二人は必然的に長い時間を並んで過ごすことになった。

 衝突は、すぐに起きた。

「この波形の解釈が間違っている」とエレンは三日目に言った。

 朝のミーティング。

 若い研究員たちがいる前で、彼女は容赦なかった。

「昨日の野村博士の分析によれば、短周期の波が中周期に対して『同期している』とあるが、これは相関係数が〇・七二に過ぎないわ。統計的に有意だが、同期と呼ぶには弱い」


「感覚として同期している」と野村は言った。

「数字は後から追いつく」

「科学は感覚ではないわ」

「感覚が先に来て、数字が検証する。俺はずっとそうやってきた」

「そのやり方は属人的すぎる。あなたがいなければ機能しない方法論に、どれほどの信頼性がある?」

 部屋が少し緊張した。

 若い研究員が固まっているのが、野村には音でわかる。


「エレン博士」と野村は言った。

「俺が感覚で見つけたものを、あなたが数式で検証する。それが機能するのは、互いの方法論を尊重した場合だけだ」

「私はあなたを尊重していない、と言いたいの?」

「尊重しているかどうかは知らない。ただ、俺のやり方を否定することが仕事を前に進めるとは思えない」


 沈黙。

 エレンが立ち上がる音。

 一瞬、野村は会議室を出ていくかと思った。だが音は止まった。

「……相関係数のしきい値を〇・七に下げましょう」とエレンは言った。

「その上で、同期の定義を明確化する。それならデータとして使えるわ」

「それでいい」

 タイプする音。

 データが更新される。

 研究員たちがほっとした気配が、野村には伝わった。

 衝突は、そうやって毎日起きた。

 そして毎日、二人はぎりぎりのところで折り合った。

 不思議なことに、衝突するたびに解析は前に進んだ。

 エレンの厳密さが野村の直感を鍛え、野村の直感がエレンの思考に方向を与えた。


 転機が来たのは、解析を始めて二週間後の深夜だった。

 午前一時過ぎ。

 研究員たちは帰っていて、ラボには野村とエレンだけが残っていた。

 野村はヘッドフォンで最新データを聴いていた。

 エレンはコンピュータの画面を見ながら、フーリエ解析の計算を回していた。


「野村」と、エレンが呼んだ。

 苗字だけ。

 いつの間にか、そういう距離感になっていた。

「何だ」

「ちょっと来て」

 珍しい言い方だった。

 彼女の声が、微妙に揺れていた。


 野村はヘッドフォンを外してエレンのそばに行った。

「何が見えてる」と野村は言った。

 彼女の前の画面が見えない代わりに、彼は訊く。

「三つの周期の最大公倍数を取ったら……」エレンの声が慎重だ。

「一つのサイクルが出た。長いサイクルが」

「どのくらい長い」

「……百三十八億年に、近い」


 野村は動かなかった。

「宇宙の年齢と同じか」

「同じ、ではない。近い。誤差の範囲内と言われれば——言えなくもないわ。でも」

「でも?」

「この三つの周期の比が、すでに整数に近い値を持っている。それぞれの最大公倍数が宇宙の年齢に近い値になることは、偶然としては——」

「確率は」

「今計算した」エレンが少し止まった。

「一〇の二十七乗分の一」

 野村は椅子に座った。

「宇宙の始まりから刻んでいる時計だ」と彼は言った。

「誰かが、ビッグバンのときに仕掛けた時計が、今も刻んでいる」

「そういう解釈はできる」とエレンは言った。

「だが証明するには——」

「源泉に行くしかない」

 沈黙。


「百億光年彼方に、どうやって?」

「わからない。でも」野村はヘッドフォンをまた耳に当てた。

「行かなければいけない気がする。これは——答えるべき呼びかけだ」

 エレンは何も言わなかった。

 深夜のラボで、二人はしばらくそのままでいた。

 宇宙の鼓動は、止まらなかった。

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