第十話「時間の歪み」
最初に気づいたのは、エレンだった。
百十二回目のワープを終えた翌朝、彼女は食堂に来るなり野村に言った。
「計算が合わないの」
「何の計算が」
「時間。船内時計と、地球との通信遅延の比較をずっと取っているけど——ずれが大きくなっている。理論値より速く、船内時間が遅れている」
野村はコーヒーカップを置いた。
「どのくらい」
「累積で十一日。船内では三ヶ月半が経過しているが、地球では——もう四ヶ月と三週間が過ぎている」
「相対論的時間収縮だ」と野村は言った。
「理論上は計算に入れていたが、実際のワープ中の時空歪みが、予測モデルより大きい」
「問題はそこじゃないわ」とエレンが言った。
「問題は——これから先、クエーサーに近づくほど、この歪みは大きくなる。到達時には、理論計算では船内一年に対して地球二年近い差が生じる可能性がある」
野村は黙った。
「つまり」と彼は言った。
「俺たちが帰ったとき、地球では俺たちが思っているより、はるかに長い時間が過ぎている」
「そういうことよ」
食堂に沈黙が落ちた。
アマラが入ってきたが、二人の空気を感じ取って、黙って奥の席に座った。
「ハルキは今、何歳だ」と野村は言った。
計算ではなく、確認のように。
「あなたの息子? 出発時に十六歳だったなら——」
エレンが少し止まった。
「帰還時には、十八か、十九になっている可能性がある」
「高校を卒業している」
「おそらく」
野村はそれを、ゆっくりと頭の中で受け取った。
息子の声を聞かせてもらったのは、二ヶ月前——船内時間で。あのときハルキは文化祭でジーグを弾いていた。
あの声は、今の声ではないかもしれない。
少年だった声が、今ごろ変わっている可能性がある。
「琴子に伝えるか」と野村は言った。
「あなたが判断すべきことよ」
「……伝える。知っておいた方がいい」
エレンが立ち上がる前に、野村は言った。
「エレン」
「なに」
「あなたは怖いか。時間がずれていることが」
エレンが少し止まった。
「怖い、とは違うわ」と彼女は言った。
「不思議な感覚だわ。地球の時間が先に行っている。私が宇宙にいる間、世界は私を置いて進んでいる。それは——」
「どんな感覚だ」
「夢の中にいるよう。夢を見ている間、現実は続いている。気づいたら朝が来ている。それに似ている」
「俺には、その感覚がずっとあった」と野村は言った。
「盲目だから?」
「そう。見えないということは、世界が自分の外で進んでいることを、常に感じていることだ。自分が感知できない部分で、何かが起きている。それが日常だった。だから時間がずれていることは——俺には、さほど怖くない」
エレンが何も言わなかった。
野村は続けた。
「ただ」
「ただ?」
「息子の声が変わることは、少しだけ、寂しい」
エレンは返事をしなかった。
でも、立ち去らなかった。
しばらく、二人は食堂に残っていた。
通信には、片道七時間近いタイムラグがあった。
野村が録音したメッセージを送り、返信が来るまでに半日近くかかる。
往復で一日。
会話は成立しない。
ただ、声を届け合うことだけができた。
「琴子へ」と野村は録音した。
「時間のズレについて、話しておかなければならないことがある」
できるだけ平静に、事実だけを伝えた。
船内と地球の時間差が当初の予測より大きいこと。
帰還時には、さらに差が広がっている可能性があること。
それでも、俺たちは進み続けるということ。
「ハルキに伝えてほしい。誕生日を一緒に過ごせなくてすまない、と。でも——俺はここで、とんでもないものを聴いている。いつか話す。必ず話す。帰ってから」
送信ボタンを押してから、野村はしばらく動けなかった。
七時間後、返事が来た。
琴子の声だった。
「わかった。ハルキにも話す。怒らないと思う、あの子は。あなたのことをちゃんとわかってるから」
一拍あって。
「でも私は少し怒ってるから、帰ってきたらちゃんと謝ってね」
その言い方が、琴子らしかった。
野村は一人で笑った。
それから、ハルキの声が入っていた。
「お父さん。時間がずれても関係ない。俺は待ってるから。あと、シャコンヌ練習してる。帰ってきたら聴かせるよ。全部通して弾けるようになるから」
シャコンヌ。
十五分の曲。
全部通して、か。
野村はそれを三度聴いた。
クエーサーへの接近が、目に見える形——野村には音に聞こえる形——で変化し始めたのは、百三十回目のワープを過ぎたころだった。
信号の強度が、急激に上がり始めた。
それまでは「近づいているな」という感覚だったものが、「圧されている」という感覚に変わった。
ヘッドフォンをつけると、宇宙の鼓動が体の中に入ってくる。
胸腔に、腹に、骨に、響く。
音量の問題ではない。
信号の密度が変わっていた。
まるで、空気の圧力が変わるように、情報の圧力が変わっていた。
「野村博士」と西田が観測区画から呼んだ。
「来てもらえますか。クエーサーの画像が取れました」
野村は観測区画に向かった。
エレンはすでにいた。
「見えているか」と野村は訊いた。
「見えているわ」とエレンが言った。
その声は、普段より静かだった。
「窓越しに、直接ではないが——望遠センサーの映像が出ている」
「どんな見た目だ」
「中心に、極めて明るい点がある。そこから——ジェットが出ている。プラズマのジェットが、両極方向に延びている。青白い。周囲が歪んでいる。光が——周囲の空間ごと引き寄せられている感じがする」
「重力レンズ効果だ」と野村は言った。
「クエーサーの質量が極端に大きいから、周囲の光が曲げられて見える」
「そう。ただ——」エレンが少し止まった。
「ただ、それだけじゃない。ジェットの根元——ブラックホールのごく近傍——から、光が揺れて見える。揺れているというより、明滅しているの。まるで——」
「まるで?」
「息をしているみたいだ」と彼女は言った。
野村はヘッドフォンをつけた。
その瞬間、息が止まった。
音が違う。
圧される、という感覚が消えていた。
代わりに——広がる、という感覚があった。
四層の波が、それぞれの輪郭を持ちながら、同時に溶け合おうとしている。
調和しながら緊張し、緊張しながら調和している。
それは、音楽でいうなら——クライマックス前の、長い長い保持音のようだった。
全部の声が最高音で止まって、解決を待っている。
「聴こえる」と野村は言った。
「どんな音?」
「止まっている音だ。動いているのに、止まっている。解決を待っている音だ」
エレンが静かに言った。
「それは——私が見ているものと、同じかもしれない」
二人は少しの間、それぞれの感覚でクエーサーを感じていた。
百億光年の彼方にある、宇宙で最も激しい天体。
それが今、窓の外に——センサーの先に——ある。
その夜、野村は琴子に送るメッセージを長く考えて、結局短くまとめた。
「今日、クエーサーが見えた。俺には見えないが、エレンが教えてくれた。息をしているみたいだと彼女は言った。俺には、解決を待っている音に聴こえた。どちらも正しいと思う」
少し間を置いて、続けた。
「愛している。それだけ、今日は伝えたかった」
送信した。
七時間後、返事はまだ来ない。
野村は眠った。
宇宙の鼓動を聴きながら、眠った。




