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第十三話「問いかけ」

 クエーサーまで、一億光年を切った日。


 野村は朝から眠れなかった。

 眠れない、ということ自体は珍しくない。

 だが今朝の眠れなさは、不安でも興奮でもなかった。

 何かが変化していた。

 外側ではなく、自分の内側が。


 目——見えない目——を開けて天井を感じていると、宇宙の信号が肌から入ってくる感覚があった。

 神経インターフェースをつけていなくても。

 体が、信号に感応するようになっていた。


 医療担当のトーリ・ハンセンに話すと、彼女は「ありえない」と言ったが、バイタルを測定して黙った。

 野村の皮膚の電気抵抗が、信号の周期に合わせて変動していた。

「体が、アンテナになっている」とトーリは言った。

 信じがたそうに。

「そう」と野村は答えた。

「他の乗組員も確認する」

「してくれ」


 一時間後、トーリが戻ってきた。

「全員、程度の差はあるが同じ変化が出ている。一番強いのは野村博士。次にエレン博士」

「なぜ俺たちが強いんだ」

「わからない。ただ——信号に最も長く、最も深く接触していた二人だから、かもしれない」

 野村はそれを受け取った。


 体が宇宙の信号に反応する。

 それが怖いかと言えば、怖くない。

 むしろ——ずっとそうであるべきだったような、自然な感覚があった。

 人間は宇宙の中に生きている。

 その宇宙が信号を出しているなら、体が感応するのは当然だ、という気がした。


 ただ。

 その感覚が「正常」に思えてきている、ということ自体が、異常なのかもしれない。


 クエーサーへの最終接近は、二段階で行われた。

 第一段階。

 残り一千万光年の位置で、鳳凰は停止した。

「ここで一度、全システムのチェックをする」とミンチェが言った。

「ここから先は未知の領域だ。クエーサーの重力場の影響が、計算通りに出ているかどうかを確認してから進む」


 野村は異論を唱えなかった。

 慎重さは正しい。

 だが、ここで止まっていると、信号の「引力」を感じた。

 引力、という表現は正確ではない。

 物理的に引かれているわけではない。

 ただ——信号が、前から来ている。

 前から来て、来いと言っている。

 行けと言っている。

 行かなければならないと、体が知っている。


 二日間のチェックを経て、第二段階へ進んだ。

 残り百万光年。

 その距離に入った瞬間、鳳凰の外観センサーが異常な映像を捉えた。


「野村博士、見てください」とARIAが言った。

「見えない。エレン」

 エレンが来た。

 センサーの映像を確認する。

 しばらくの沈黙。


「……何、これ」と彼女が言った。

「どう見える」

「クエーサーの周囲に——構造がある。光の構造。同心円状の——光の輪が、何重にも重なっている。まるで——水面に落ちた石の、波紋みたい。でも光で。でも光の波紋が——静止している」

「静止?」

「動いていない。波紋が、広がっていない。固定されている。まるで時間が——」

「止まっている」

「……止まっているように見える。ARIAは?」


「光の同心円構造は確認しています」とARIAが答えた。

「これは、重力レンズ効果の極限的な形です。クエーサーの質量が、その周囲の時空を著しく歪めているため、光が円形の軌道を取り、その軌道が安定している。結果として——光の輪が、静止して見える」

「時間は止まっているのか」と野村は訊いた。

「止まっている、とは言えません。ただ——クエーサーの非常に近い位置では、時間の流れが外部より著しく遅くなっています。私たちから見ると、そこでは時間がほぼ静止しているように見える」

「ほぼ静止している時間の中に、今から俺たちは入っていく」

「そういうことになります」

 野村は深呼吸した。


「信号が、変わった」と彼は言った。

「どう変わった?」

「静かになった」

「静かに?」

「近づくほど大きくなると思っていた。でも——静かになった。まるで、大きな波が最後に引く前に一瞬静かになるように。嵐の前の凪みたいに。あの光の輪の中では——宇宙の鼓動が、ゆっくり、ゆっくりになって、最後は聴こえなくなるのかもしれない」

「それは怖いか」

「いや」と野村は言った。

「静かなのは——慣れている」


 最終ワープは、全員が航行指令室にいた。

 誰も余分なことを話さなかった。

 ミンチェが淡々とシステムを確認し、ARIAが数値を読み上げ、アマラがエンジンのパラメータを調整した。

 野村はヘッドフォンをつけていた。


 ARIAが言った通りだった。

 近づくほど、信号が静かになっていく。

 四層の波が、まだある。

 だが前より遠く感じる。宇宙の鼓動が——心臓が、だんだん遅くなっていくような感覚。


「カウントダウン開始」とミンチェが言った。

「全員、シートベルト確認。今回のワープは、これまでとは時空の歪みが比較にならない。何が起きるかわからない。ただ——俺はあなたたち全員を、必ず帰す」

 誰も答えなかった。

 だが、誰かが「ありがとう」とつぶやいたのが、野村には聴こえた。


「十秒」

 野村は目を閉じた。

 琴子の声を思った。

 ハルキのピアノを思った。

 シャコンヌの最初の音を思った。


「三。二。一。ワープ」

 音が、消えた。

 今回は一・七秒ではなかった。

 もっと長かった。

 何秒——何十秒——かかったのかわからない。

 時間の感覚が消えた。

 音の感覚が消えた。

 自分が体を持っているという感覚が、薄くなった。


 ただ、残ったのは——

 光だった。


 野村は光を見たことがない。

 だが、体の中で、何かが光った。

 目ではない。

 体の内側から、光が来た。

 暖かい。

 白い。

 そして、広い。


 それが数秒か数分か続いて——

 戻ってきた。

 音が戻る。

 空調の音。

 シートのきしむ音。

 誰かの呼吸。


「ワープ完了」とARIAが言った。

 その声が、わずかに——ほんのわずかに——震えていた。

「現在地——確認中——」


 長い間があった。

「ARIA」とミンチェが言った。

「現在地は」

「……クエーサー、QSO J0906+6930より、○・○○三光年」

 〇・〇〇三光年。

「〇・〇〇三光年」と誰かが繰り返した。


 約二百八十億キロメートル。

 太陽から海王星までの距離の約六十倍。

 宇宙のスケールでいえば、ほぼ「隣」だった。


「外部映像は」とエレンが言った。

「出します」


 航行指令室の正面スクリーンに映像が映し出された。

 野村には見えない。

 だが。

 室内の、誰も声を出さなかった。

 完全な沈黙。

 十数秒。


 それがどんな映像かを、野村は音で知ろうとした。

 聴こえたのは、息を忘れた人間たちの静寂だった。


「エレン」と野村は言った。

「……」

「エレン」

「……見えているわ」と彼女はようやく言った。

「見えているけど——言葉が出ない」

「言ってくれ。聴きたい」


 エレンが、ゆっくりと呼吸を整えた。


「中心に、何もない場所がある。光が、そこに向かって落ちている。星も、ガスも、光も、全部そこに向かって落ちている。でも、そこには何もない。あるのは——暗さ。絶対的な暗さ。あらゆる光を飲み込んで、何も返さない。それが——ブラックホール」

「知ってる」

「でも」とエレンは続けた。

「そのブラックホールの周囲に——時間が見える気がする。光の輪が、何重にも重なっているのは見ていた。でも今は——その輪の一つひとつが、違う時間を映している気がする。古い光、新しい光、これから来る光——全部が重なって、今ここで同時に見えている。過去と現在と未来が、同じ場所に——」


「エレン」と野村は言った。

「なに」

「俺にも聴こえる」

「聴こえる?」

「今ここで——全部の層の信号が、同時に来ている。それまで四つだった層が——今は区別できない。全部が混ざって、一つになっている。一つの音だが——その中に、全部が含まれている。矛盾しているが、そうとしか言えない」


 エレンが少し止まった。

「矛盾していない」と彼女は言った。

「量子論的には、重ね合わせの状態よ。複数の状態が同時に存在している。それが今、この場所でのリアリティ」

「なら——この場所は、決まっていない場所だ。まだ決まっていない。何にでもなれる。何にでもなりうる」

「そう。ここは——始まりの場所に近い。ビッグバンの、特異点に近い。時間が始まる前の、あらゆる可能性の場所に近い」

「それは——」と野村は言った。

「怖いか?」


 エレンは少し間を置いた。

「いや」と彼女は言った。

「不思議と——怖くない。来るべき場所に来た、という感じ」

 野村は、それを聴いて、ヘッドフォンの中の音に集中した。


 一つに混ざった信号。

 全てを含む、一つの音。

 その中に、「問いかけ」がある。


 明確な言語ではない。

 人間の言葉でもない。

 だが、構造がある。

 問いの構造が。答えを求める形が。


 野村はゆっくりと、深呼吸した。

 来た。

 俺たちを呼んだものが、今ここにある。

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