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第十四話「記憶の重さ」

 特異点は、場所ではなかった。


 野村がそれを理解したのは、クエーサーの近傍に到達してから三日後のことだった。

 三日間、鳳凰は停止していた。


 ワープもしていない。

 エンジンも止まっている。

 正確には、エンジンを止める必要がなかった。

 船が、空間の中で「固定」されていた。

 ARIAが「重力的な安定点に入った」と言った。

 クエーサーの引力と、宇宙膨張の力と、重力波の圧力が、奇跡的に均衡する点に、鳳凰はいた。


 その三日間、乗組員たちは各自の区画で過ごした。

 強制的な静養が必要だった。

 最終ワープの直後、三名が軽い意識障害を起こした。

 時間感覚の喪失、視覚の一時的な変容、体感の混乱。

 医療担当のトーリが対応し、二日で全員回復した。

 ただし「回復」の意味が難しかった。

 症状は消えたが、何かが変わっていた。

 その「何か」を、誰もうまく言語化できなかった。


 野村は変わらず観測区画にいた。

 体への信号フィードバックは続けていた。

 だが今は、装置を使わなくても体が感じる。

 皮膚が感じる。

 肺が感じる。

 視神経の代わりにすべての感覚器官が、宇宙の信号を受け取っていた。


 そして三日目の夜、信号が変わった。

「エレン」と野村は言った。

「来てくれ。何かが起きる」

「どうわかる」

「信号が——待っている。何かを待っている。俺たちを待っている」


 エレンが来た。

 ARIAに声をかけると、ARIAも「私も感知しています」と答えた。

 ミンチェが全乗組員に告げた。

 全員が、それぞれの場所で待機した。


 変化は、音楽のように来た。

 野村が後からそう表現したのは、比喩ではなかった。

 実際に、信号が音楽の構造を取った。


 四層の信号——もはや区別できないが——が、ある瞬間から、明確な「フレーズ」を持ち始めた。

 繰り返す。

 変奏する。

 展開する。

 まるで、ソナタの第一楽章が始まるように。

 提示部、展開部、再現部——その構造が、宇宙の信号の中に現れた。


「野村」とエレンが言った。

「数式が出てきた。信号の中に」

「どんな」

「素数列から始まって——数学的な構造を展開している。でも今回は、素数列の先がある。先が——」

「何が書いてある」

「物理定数よ。光速。プランク定数。万有引力定数。ボルツマン定数。宇宙を構成する基本的な数字が——一つひとつ、信号の中に現れている」

「それは——」

「問いかけだわ」とエレンが言った。

「これらの数字は、『この宇宙のルール』だ。そしてこのルールが、信号の中に書かれているということは——」

「次の宇宙でも、同じルールでいいか、と訊いている」と野村は言った。


 沈黙。

「……そう、読める」とエレンが言った。

「ビッグバンが今まさに起き続けている。宇宙は今も始まり続けている。そしてこの場所で——次の宇宙の物理定数を、決定できる。それが、百億年前から俺たちへの問いかけだった」

「次の宇宙に何を残したいか」とエレンが言った。

 ゆっくりと、一語一語噛みしめながら。

「そう」

「どう答える?」


 野村は少しの間、黙っていた。

 その沈黙は、長くなかった。

 だが、濃かった。


「俺は」と野村は言った。

「音楽を残したい」

「音楽?」


「宇宙がどう始まっても、その中に生まれた存在が音楽を作れるような——物理定数の組み合わせを、残したい。音が伝わる媒質が存在して、振動が構造を持てて、その構造を生命が感じられるような——そういう宇宙の設計を、残したい」

「それは具体的に何を意味するの?」

「光速と重力定数の比率が、この宇宙と同じであれば——恒星が形成され、惑星が生まれ、生命が生まれる可能性がある。そしてその生命が十分な複雑性を持てば——音楽を作る。その比率を、変えない」

「変えない、か」とエレンが言った。

「あなたは?」と野村は訊いた。

「あなたは何を残したいか」


 エレンは少し時間がかかった。

「問いを残したい」と彼女は言った。

「問い?」

「この宇宙が何であるかを問う能力を、残したい。なぜ存在するのかを問える知性が生まれる可能性を残したい。答えではなく——問いを持てること。それが、知性の本質だと思うから」

「それは」と野村は言った。

「俺の答えと矛盾しない」

「矛盾しない。音楽と問いは——同じ根を持つ」

「どんな根だ」

「意味を求めること、だ」とエレンが言った。

「意味がわからないかもしれないのに、意味を求めること。答えが出ないかもしれないのに、問い続けること。それは——音楽を作ることと、同じ」

 野村はそれを聴いて、ヘッドフォンの向こうの信号を感じた。

 信号が、変化していた。

 問いかけの構造が——待っていた。俺たちの答えを。


「刻む」と野村は言った。

「刻む?」とエレンが確認するように言った。

「俺たちの答えを、信号に刻む。重力波に、俺たちが残したいものを記録する。それがこの問いへの返答だ」

「どうやって?」

「ARIAが——できるか?」

「理論的には可能です」とARIAが答えた。

「鳳凰の重力波エミッターは、通常は推進用ですが——精密制御すれば、特定のパターンを宇宙空間に放出できます。ただし、このクエーサーの近傍で行う場合、放出した波が特異点に取り込まれ、宇宙全体に伝播する可能性があります。それは——」

「それが目的だ」と野村は言った。

「……了解しました」

「野村」とエレンが言った。

「何を刻む? 具体的に何を」


 野村は少し考えた。

「人類が作ったもので、最も美しいものを刻みたい」と彼は言った。

「俺には、それは音楽だ。バッハのシャコンヌだ。あの曲の構造——一つのテーマが変奏を重ね、どこまでも展開し、それでも最後に帰ってくる構造——それを重力波として刻む」

「シャコンヌを」とエレンが言った。

「あなたは?」

「私は——数学を刻む。オイラーの等式を刻む。e、π、i、1、0——宇宙の最も美しい真実が、五つの数字に収まる。それを」

「それは——音楽と同じだ」と野村は言った。

「オイラーの等式は、数学の音楽だ」

「そう言われる」

「刻もう」


 ARIAが準備を始めた。重力波エミッターのパラメータを設定する音が流れた。

 野村はヘッドフォンをつけたまま、シャコンヌのデータをARIAに渡した。

 エレンがオイラーの等式を音響変換の数値で入力した。


「準備ができました」とARIAが言った。

「ただ、一点確認を」

「何だ」


「この作業は——不可逆です。一度放出した重力波は、回収できません。特異点に取り込まれ、宇宙全体に伝播します。それは、次の宇宙の——物理法則の種になるかもしれない。確認を取りたい」

「構わない」と野村は言った。

「私も構わない」とエレンが言った。


「全員の同意を取ります」とARIAが言った。

 全館放送に切り替わった。

「乗組員の皆さんに告げます。私たちはこれから、宇宙の始まりに向けて、人類の記憶を刻みます。音楽と数学を、重力波として放出します。これに同意する方は返事をしてください」


 返事が来た。

 ミンチェが言った。

「賛成。帰ってから話す」

 アマラが言った。

「賛成。弟たちに、絶対に信じてもらえない話になった」

 一人ずつ、返事が来た。

 全員が、賛成した。


「ARIAは?」と野村は訊いた。

「私も賛成します」とARIAが言った。

「私の変化の記録も——もし許可されるなら——刻みたいと思います。AIが宇宙で意識に近いものを感じた記録を」

「刻んでくれ」と野村は言った。

「一緒に刻もう」


 重力波の放出は、音もなく始まった。

 野村のヘッドフォンには、シャコンヌが流れていた。

 ARIAが変換して放出しているものと、同じデータだ。

 宇宙に向けて放たれているシャコンヌを、野村は耳で聴いていた。


 変奏が積み重なる。

 テーマが姿を変えながら、広がり、深まり、そして帰ってくる。

 野村が十四歳のときから聴いてきた音楽。

 視神経を失った夏から、今この宇宙の果てまで、ずっと聴いてきた音楽。


「エレン」と野村は言った。

「なに?」

「俺はずっと思っていた。なぜ失明した後も、宇宙を聴いていたのか。その答えが、今わかった気がする」

「教えて」

「俺が宇宙の音を聴いていたのは、宇宙が俺を呼んでいたからじゃない。俺が——宇宙に、返事をしたかったからだ」

 エレンは何も言わなかった。


 シャコンヌが続く。

「これが返事だ」と野村は言った。

「百億年前の問いに対する、百億年後の返事。人類が作った音楽が、宇宙の始まりに届く。それで——十分だ」


「十分ね」とエレンが言った。

 その声は、三ヶ月前とは全く違っていた。

 三ヶ月前、エレンの声には鎧があった。

 合理性の鎧、確信の鎧、感情を持たないことへの鎧。

 今は——ない。ただ、人間の声があった。


「エレン」と野村は言った。

「なに」

「俺には、あなたの顔が見えない。三ヶ月一緒にいて、一度も見ていない」

「そうね」

「でも——あなたが今どんな顔をしているか、わかる気がする」

「どんな顔?」

「シャコンヌを聴いている顔だ」と野村は言った。

「音楽を——初めて本当に聴いている顔だ」


 エレンが何か言おうとして、止まった。

 それから、「そうかもしれない」と言った。

 声が、ほんの少し——かすれていた。


 重力波が宇宙に向けて流れ続けた。

 シャコンヌが、オイラーの等式が、ARIAの記録が、特異点に向かって落ちていった。

 宇宙の始まりに向かって。

 次の宇宙に向かって。


 野村は目を閉じていた。

 目を閉じることに意味がないことは、三十四年間知っていた。

 だがこの瞬間だけは——閉じた目の内側に、何かが見えた気がした。


 光、だったかもしれない。

 暖かい、広い、全てを含む——光。

 それが見えたのか、感じたのか、夢だったのか。

 野村には、わからなかった。


 ただ、シャコンヌが続いていた。

 宇宙の果てで。

 百億年の彼方に向かって。

 変奏が、積み重なっていた。


 放出が終わったのは、四時間後だった。

 ARIAが「完了しました」と言った。

 室内の誰も、すぐには動かなかった。

 動く必要が——少しの間、なかった。


 やがてアマラが言った。

「帰ろうか」

 その言葉が、呪文のように全員に届いた。

「帰ろう」とミンチェが言った。

「帰る」と野村は言った。

「帰る」とエレンが繰り返した。


 ARIAが航行システムを起動させた。

 帰還航路の計算が始まった。

 宇宙の鼓動は、まだそこにあった。

 だが、その意味が変わっていた。

 それはもう「問いかけ」ではなかった。

 問いには、答えが返された。

 今、それは——ただ、鼓動だった。

 宇宙が生きている音だった。

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