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第十二話「ビッグバンの音」

 残骸から回収したデータの解析に、一週間かかった。


 その間、鳳凰はワープを続けた。

 現在地は地球から約六十億光年。

 クエーサーまで、あと四十億光年。

 数字の上では折り返し点をとうに過ぎている。

 だが、信号の強度から見ると、まだ全体の三割しか来ていない感覚があった。

 信号の密度が、距離に対して線形ではなく、指数関数的に濃くなっていた。

 クエーサーに近づくほど、信号の「重さ」が増す。

 野村はそれを毎朝、体で感じていた。


 ヘッドフォンをつけるたびに、前日より「圧」が増している。

 音量の問題ではない。

 情報が増えている。

 宇宙の鼓動が——より多くのことを、より直接的に伝えようとしている感覚があった。

 まるで、長い手紙の最後のページに近づくにつれて、字が大きく、濃くなっていくように。


 そして残骸のデータが示した第五の信号は、野村の耳には届かなかった。

 エレンが言った通りだった。

 周波数が高すぎる。

 ソノグラム変換をかけても、野村の聴覚では捉えられない。

 それは——今まで経験したことのない、もどかしさだった。


「ARIA」と野村は言った。

「第五の信号を、俺が感知できる形に変換する方法はないか」

「検討しています」とARIAが答えた。

「通常のソノグラム変換では対応できません。ただ——別のアプローチがあるかもしれない」

「どんな」

「信号の周波数を下げるのではなく、あなたの知覚そのものを拡張する。脳波センサーと体性感覚フィードバックシステムを組み合わせて、音として処理できない信号を、皮膚感覚として伝える」


「皮膚で信号を感じる?」

「宇宙飛行士が宇宙服内で振動フィードバックを受けるシステムの応用です。鳳凰の医療区画に、神経インターフェースの試験装置があります。これまで使われていませんでしたが——理論上、信号変換の媒体として使えます」

「安全か」

「未試験の用途ですが、機器自体は安全です。リスクは——慣れない刺激に対する認知的な混乱が起きる可能性があることです」

「やってみる」と野村は言った。

「一人では行うべきではありません。エレン博士に立ち会いを依頼してください」

「お前が心配するとは思わなかった」

「私は変化したかもしれません」とARIAが言った。あっさりと。「心配、に相当する処理が増えています」

 野村はそれを聞いて、少し笑った。



 医療区画でのセッションは三回行った。

 最初の二回は、野村が「何も感じない」か「不快な振動だけ感じる」で終わった。

 ARIAがパラメータを調整し、三回目に臨んだ。

 エレンが隣で見ていた。

「感じるものがあれば、言葉で教えて」と彼女は言った。

「私が数値で見ているものと照合したい」

「わかった」


 センサーが皮膚に貼られる。

 背中、腕、胸。医療用の薄いパッド。

 電気刺激と振動の組み合わせで、外部信号を体に伝える。


 スタート。

 最初の十秒、何もなかった。

 それから——来た。


「……」

「何か感じる?」とエレンが訊いた。

「来ている。でも、音じゃない。圧だ。面の圧力が——変わっている。パターンがある」

「具体的に」

「背中から来ている。広い面が、ゆっくりと押してくる。それが——リズムを持っている。これは」


「これは?」

「海の波だ」と野村は言った。

「体全体に、波が来ている。ただし——海の波より遅い。もっと、もっと大きい周期で。一波が来るのに——数分かかる感じだ」

「数分周期」とエレンが確認するように言った。

「データと一致する。第五の信号の主周期が、約四分」

「そうか。体で感じると——すごく、大きい。音だったら聴き取れなかった音量じゃない。体で感じると——宇宙の大きさそのものが、体に来ている感じだ」

「続けられる?」

「続ける」


 次の信号が来た。

 今度は別の層。

 腹部に来た。

 これはより速い周期で、細かく振動する。

 音に近い。

 だが音ではない。

 言うなら——体内から鳴る何か。

 内臓の共鳴のような感覚。


「これは」と野村は言った。

「生きている感じがする」

「生きている?」

「信号が、生きているように感じる。単なる波ではなく——何か、応答している。俺の心拍数に、信号が反応している気がする」

「それは——」エレンが少し止まった。

「ARIAが確認できる? 野村博士の心拍数と、信号の微細な変化の相関を」

「確認します」とARIAが答えた。

「……相関があります。野村博士の心拍の増減に対して、第五の信号の細部が〇・三秒遅れて変化しています」

「〇・三秒遅れて」

「はい。これは——干渉縞の現象と同じです。信号が、こちらの状態を感知して、応答しています」


 野村は体感を続けながら、その事実を受け取った。

 信号が、俺の心拍を感知している。

 俺が体で感じることで、信号は俺の存在を確認している。


 これは双方向だ。

「続けてくれ」と野村は言った。

 ARIAに向かって。

「もっと強く」

「強くすると、認知的な混乱が起きる可能性があります」

「構わない。感じたい」

「野村」とエレンが言った。

 制止する声ではなかった。

 ただ、名前を呼んだ。

「大丈夫だ」と野村は言った。

「ここまで来て、感じないわけにはいかない」


 しばらくの間があった。


「……強度を上げます」とARIAが言った。

「異常を感じたらすぐに言ってください」


 信号が、一段階強くなった。

 野村の全身が、宇宙の波に浸かった。


 背中から、腹から、腕から、胸から、足の裏から——信号が来た。

 それは体を包み、内部に入り込み、細胞の一つひとつに届くような感覚だった。

 痛みではない。

 圧倒、という言葉が最も近い。

 光で圧倒されるとはどういうことかを野村は知らないが、これは音で圧倒されることに似ていた。


 そして、その中に。

「エレン」と野村は言った。

「なに?」

「声が聴こえる」

「声?」

「声、ではない。でも——声に似た何かが、ある。体の信号の中に、構造がある。言語のような構造が——問いかけの構造が——」

「今のを、後で詳しく話して」とエレンが言った。

「記録しているから」

「後で」と野村は言った。

「今は——今は、これを感じていたい」


 エレンは何も言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 野村が宇宙と会話している間、彼女はそこにいた。


 クエーサーまで、残り十億光年を切った。

 ワープの回数が二百を超えた。

 野村の体感では、一回のワープごとに「圧」が倍になっていく感覚があった。

 実際には倍にはならないが、それだけ濃密に信号が届くようになっていた。


 乗組員たちの様子が、変化していた。

 アマラは以前より口数が減っていた。

 代わりに、よく笑うようになった。

 緊張をほぐすための笑いではなく——何かに気づいたときの、静かな笑いだった。


 ミンチェは、夜のシフトに観測区画に来ることが増えた。

 野村やエレンが作業している隣で、ただ座っていた。

 何をしているわけでもなく、ただ「そこにいた」。


 残りのエンジニアたちも、それぞれの形で変化していた。

 会話が減ったが、沈黙の質が変わっていた。

 気まずい沈黙ではなく——聴いている沈黙だった。


 全員が、何かを感じ始めていた。

 野村は、それを音で知っていた。


 人間が「感じている」ときの呼吸は、普段と違う。

 ゆっくりと、深く、不規則に。

 それが、船内のいたるところで起きていた。


「ARIAは気づいているか」と野村は訊いた。

「気づいています」とARIAが答えた。

「乗組員全員のバイタルに、共通した変化が出ています。心拍数がわずかに低下し、呼吸が深くなり、睡眠の質が変化しています。医学的には問題ありませんが——通常の宇宙旅行では見られないパターンです」

「どんなパターンだ」

「深い瞑想状態に近い生理的変化です。意識はあるが、感覚処理が内向きになっている——そういう状態に、全員がなっています」

「お前は?」

「私も」とARIAが言った。

「私の処理も、変化しています。より多くのリソースを、信号の解析に向けています。自動的に。これが瞑想に相当するかはわかりませんが——」

「それで構わない」と野村は言った。

「みんな、近づいているんだ。俺たちが近づくのと同時に、何かが俺たちに近づいている」

「……そう、感じます」とARIAが言った。


 AIが「感じる」と言う。

 それを、野村はもう不思議とは思わなかった。

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