第1章 5
レルの部屋を見て、ルートは絶句した。
壁はさっき通された離れよりもボロボロ。窓の一部にはガラスの代わりに新聞紙が貼られ、風が吹く度に破れそうな音を立てる。室内にはテーブルもソファもない。何より、寝床は。
「……あれ、新聞紙?」
「そうよ」
「新聞紙で寝てるの?」
「意外と暖かいのよ、あれ」
寝床には、大量の新聞紙。手前の新聞紙には「窒息しそうなほど芳醇! 今年の葡萄酒は、50年に一度の出来栄えと称された昨年を上回る当たり年」というよく分からない文字が躍る。
本当に新聞紙で寝てるのか。そんなバカな。
「…………これ、本当に魔王様のお部屋? 魔族のボスの魔王様のお部屋?」
「そうよ。悪い?」
レルはため息を吐くと続ける。
「だから見せるの嫌だったのよ」
ただでさえ寒いこの土地で、窓ガラスの代わりに新聞紙。寝床も新聞紙。意外と暖かいのかもしれないれど、普通に考えれば寒い。
「もうちょっと暖かい服着れば? 露出度高いから寒いんじゃねえの?」
「しょうがないでしょ。服ないんだから」
あ、服ないんだ。
「この服だって、前はもっと身体全体覆ってたの。でも破れたり汚れたりして、クーロンに仕立て直してもらったのよ」
魔王の露出度の高い服に、そんな裏話があったとは。
ルートは、日本にいた頃に見た漫画やアニメを思い出した。魔族の女性は露出度の高い服を着ている設定の作品が多かった。もしかして、みんな貧乏だったのだろうか。
「でも、これで分かったでしょ。あの離れが最高級の部屋だって」
確かに、ここと比べれば離れの方が幾分かマシだ。
とはいえ、魔王城で三食おやつ付きのスローライフなんて、夢のまた夢だ。のんびりスローライフして、飽きたらレルにあんなことやこんなことをしてもらって、最期に窒息死させてもらうなんて、そんな日がくることが想像できない。
これじゃ、スローライフどころかDIYの企画動画だ。
「レル」
「何よ」
「今すぐ契約を履行しろ」
「え……? ちょ……。なんでよ!?」
「無理だろ、これ。ボロボロの部屋で、ご飯とお酒もまずくて。のんびり暮らすなんて、できるわけないだろ!」
「できるでしょ! のんびりしてればいいから! 帝国に戻っても働かされるだけだから! こっちにいる方がマシでしょ!?」
「帝国に戻る気なんかねえよ」
言うとルートはレルに詰め寄る。
「おまえが俺を気持ちよく殺せば済む話だろ?」
レルの尻尾がピンと逆立つ。
「ひっ……。ま、待って!」
「一瞬で終わるから! 一回で終わるから! だから! な!」
「ま、待って! 生きることを諦めないで! もっと、いいご飯出すから!」
「どうやってだよ?」
「お金! お金稼ぐから!」
「どうやって?」
「えっと……。それは、あの、ほら、何かいろいろと……」
「何も思いついてないだろ、おまえ!」
「考えるから! 一晩待って!」
「待てねえよ! 今すぐやれよ!」
「もし待ってくれたら、あんなことやこんなことだけじゃなくて、そんなことまでするからっ!」
「そ、そ、そんなことまでっ!」
「そう! そんなことまでっ! なんか、あの……究極の快楽がくんずほぐれつみたいなやつっ!」
「きゅ、きゅ、きゅ、究極のっ! 快楽がっ! くんずっ! ほぐれつっ!」
ルートの脳裏によぎる、言葉では表現することのできないピンク色の妄想。
もうちょっと生き延びたら、いいことがあるかもしれない。けれど、それはいつになるのか。そもそも、そんな日が来るのか。
今まで生きてきていいことなんてなかったのに、この期に及んで未来に期待するなんて、できるわけがない。
「待てねえよっ! 今すぐ契約履行しろっ! おっぱいで窒息死させろっ!」
「無理ぃ! そんな契約、無理ぃ! お願いっ! お金用意するからっ! いい暮らしさせるって約束するからっ! ちゃんと面倒みるからぁっ!」
「そう言って、また騙す気だろ! おまえらの手口は分かってるんだよ!」
「絶対、何とかするから! がんばってお金稼ぐからっ!」
「ずっと貧乏だったのに、いきなりお金稼げるわけないだろ!」
ルートに言われ、レルはわなわなと震えだす。
「わ、わたしたちだって……好きで貧乏やってるわけじゃない! でも、どうしようもないの! お金稼げないの! 何やっても、みんなで幸せに暮らせないの! だから、ささやかな幸せ一生懸命見つけてるの!」
唇を噛むと、彼女は続ける。
「あの草だって、みんなで探したの! どの草がおいしいか食べ比べしたり、どのソースがおいしいか研究したりして! あのお酒だって、みんなで作ったの! いろんな草を発酵させて、こっちのがおいしいねってみんなで笑いあったの!」
彼女の声は、途中から涙で濡れていた。
「貧乏の辛さなんて、知らないでしょ! どうにもできない悔しさなんて、知らないでしょ! 妹の誕生日にせめてちょっといいもの食べさせてあげたくて……人間の姿に変身して街に行って……声かけられたおじさんについていって……」
風が吹いて、窓に貼られた新聞紙が音を立てた。
「……酒場でね、暖かい部屋で、みんな楽しそうにご飯食べてた。おいしそうにお酒飲んでた。わたしたちも、こんな風にみんなでご飯食べられたら、どれだけ幸せだろうって思った。それで……」
消え入りそうな声で、彼女は言う。
「酒場で頼んだご飯を、おじさんがトイレ行ってる隙に袋に詰めて逃げて……。それを、頑張ってお金稼いだからって妹に食べさせて……。妹は、笑顔で食べてくれた。おいしい、おいしいって。お姉ちゃん、ありがとうって。いつものクーロンのご飯も好きだけど、今日は忘れられない誕生日になったって……喜んでくれて……」
レルは、小さく息を吐くと、続ける。
「……それでも、そんなことしてでも、妹の喜ぶ顔が見たかったの! そうでもしないと、おいしいものなんて食べられないの!」
貧乏の辛さ。そんなの、ルートは身をもって知っている。日本で何があったか。この世界に来てから何があったか。ずっとずっと、貧しかった。幸せに手が届かなかった。痛いほど経験している。
だから、かける言葉が見当たらない。どんな言葉も意味がないことなんて、うんざりするくらい経験している。言葉なんていらない。昔流行ったドラマの台詞であった。
「同情するなら、金をくれ」
本当にその通りだった。同情はされる。けれど、苦しんでいる人間に手が差し伸べられることがないことも、分かりきっている。
振り返りたくない過去を振り返りそうになったルートの耳に、グゥゥゥと地鳴りのような音が届いた。
その音に、彼は聞き覚えがあった。ついさっきのこと。そうだ。玉座の間でレルと対峙していたとき。あの時は魔物の残党の唸り声だと思った。けれど、今、はっきりと分かった。
「おまえ、お腹鳴っただろ」
レルの尻尾がパタパタと揺れる。恥ずかしそうに、彼女はうつむいてお腹をさする。思い出した。あの時も彼女はお腹をさすっていた。
お腹が減っていたのか、あれは。俺は、お腹がすいてる魔王に殺されかけてたのか。こいつ、お腹が鳴ったの誤魔化しながら、俺のこと殺そうとしてたのか。
急にすべてが馬鹿らしくなってきた。ため息を吐くと、彼は言葉を続ける。
「……寝るわ。なんか疲れた」
「……そう……」
ルートは部屋を出ると、離れへと向かう。きっと、嫌な夢を見るだろうなと思った。




