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第6章 1

 魔王城に戻る頃には、夜が更けていた。


 力ない足取りで、ルートは離れまで歩く。明らかに様子がおかしいのを心配して、その後ろをレルが見守るように歩く。


 あの後どうなったのか、ルートの記憶は曖昧だった。何かがおかしいと感じたレルに連れられ、国の外まで歩き、そこからヤム国に行ったときと同じように魔法で帰ってきたはずだった。


 記憶が曖昧というよりも、現実感が欠落しているといった方が近いのかもしれない。目の前で起きていることに、現実感がともなわない。


 自分と世界との間に薄い膜が張られているような感覚がする。自分の存在が薄まっていって、消えてしまうような感覚。このまま消えることができれば、どれほど幸せだろうと思う。


 ぼんやりしたまま部屋に入り、傾いたソファに寝転がる。


 このまま、すべてが終わればいいのにと思う。


「大丈夫? 疲れてるなら、ちゃんと寝たほうがいいんじゃない?」


 聞き慣れた声が、耳に届く。


 違うんだ。そうじゃない。


 もう、終わりなんだ。


 全部、終わりなんだ。


「……レル」


 ソファから身体を起こし、よろめきながら立ち上がる。


 あぁ。俺は、こいつを裏切ったんだ。


 だから、せめて、ちゃんと伝えなければならない。


 それが、最低限の、誠意。


「……俺を、殺してくれ」


 予想外の言葉に、レルは眉根を寄せて答えた。


「……どういうこと?」

「もう、いいんだ」

「何があったの?」

「同じなんだ。前の世界にいたときと。この世界に来ても同じなんだ。結局、俺は、何もできなかった」

「まだ何も始まってないじゃない」

「違うんだ。始めることすらできなかったんだ。この世界のこともよく知らない。この世界でも経験があるわけでもない。前の世界でも、ちゃんとした経験を積めなかった。何者にもなれなかった。使われることしかできなくて、自分の意思でやりたいことをやることなんてできなかった。どれだけ望んでも手が届かなかった」


 自分で言っていて、馬鹿らしくなるとルートは思う。スタートラインにすら立てなかった。スタートした後のために努力をし続けたのに、スタートラインにすら立てなかったのなら、何の意味もない。すべて、無駄だった。


「……今日、商業協会にいた人に声をかけて、前の世界の知識を話してみた。そしたら、馬鹿にされたよ。マントの作り方知ってるのかって。作り方すら知らずに生産管理とか説明してたんだよ、俺は。バカみたいだろ。前の世界の知識なんて、この世界でも何の役にも立たなかった」

「そんなの、これから知っていけばいいんじゃないの? わたしだってあんまり知らないよ。マントだって作れない。商業協会の話も理解できてるなんて言えないし。でも、これから知っていくことならできると思ってるわよ」

「それだけじゃないんだ。今日、俺が働かされてた葡萄酒農場の貴族に会ったんだ。ヤム国に来てたみたいで。あいつ、俺のこと覚えてすらいなかった。俺の顔を見ても誰だか分からなかった。道端に銅貨投げ捨てていったよ。恵んでくれたんだってさ」


 チャリン、チャリン。銅貨が投げ捨てられた音が、耳の奥でこだまする。


「……俺さ、あいつに鞭で打たれたんだよ。何回も。熱出すくらい、打たれたんだよ。あいつの周りにいるヤツらに何回も蹴られたんだよ。ゲロ吐くくらい、蹴られたんだよ。俺だけじゃなくて、他のヤツらもやられたけど。でも、あいつらは俺らの顔なんて覚えてないんだ。人間だと思ってないから。代わりはいくらでもいる消耗品だと思ってるから」

「そんなの、そいつらがおかしいんじゃない!」

「おかしくないんだよ、ここでは。別の商人が言ってたよ。小麦農場で働かせてるヤツらが病気になったらクビにして、他の健康なヤツら雇えばいいって。俺はこの世界に来ても消耗品なんだよ。だから、あいつらは俺らの顔なんて覚えていない」


 いや、違う。日本でもそうだ。現場で一緒になった上位会社の社員がいた。スキルアップに繋がりそうな仕事は回してもらえなかった。誰でもできる仕事とか雑務とか、そんなのばかり回された。


 その現場が終わり、何年か経って別の現場で再会したけれど、あいつも俺のことを覚えていなかった。挨拶に行って、昔、同じ現場にいたと告げたら、どこのチームにいたのか聞かれた。誰のチームにいたのか聞かれた。そこでどんな仕事をしていたのかを聞かれた。


 俺に直接指示を出したヤツでも、俺のことなんて覚えていなかった。


 同じなんだ。日本にいても、ここに来ても。俺は、誰かから覚えてもらえるような価値のある人間ではないんだ。今までも。これからも。


「……俺は、社会に復讐したいって思った。死ぬまでの不死身の時間を使って、社会に復讐してやろうって。今まで何をやっても上手くいかなかったのをずっと自分のせいだって言い聞かせてきたけど、それだけじゃないはずだって。ちょっとでも社会が、構造が違えば、俺だって幸せになるチャンスがあったはずだって、そう思ってた。だから、最後に復讐してやろうって思ってた。けれど」


 ルートは小さく息を吐くと、言葉を続けた。


「俺が復讐しようと思った相手は、俺のことなんて覚えてないんだよ。その程度の存在なんだよ。どうでもいい人間なんだよ。復讐相手にすら、相手にされてないんだよ。社会に相手されてないんだよ。搾取されるためだけにいるんだよ。代わりのきく消耗品だから、個体として認識されることなんてないんだよ。復讐相手に存在を認められない人間がやる復讐なんて、何の意味もないんだよ」


 分かっていた、はずだった。誰も自分に興味がないことなんて、分かっていたはずだった。見下す対象にすら入っていない。蔑む対象にすら入っていない。同じ人間だと思われていない。日本にいた頃からそうだったのに、どうして忘れていたのか。


「だから、俺の復讐は、もう終わりだ。悪かったよ、期待に応えられなくて。お金稼ぐなんて偉そうなこと言っておいて、何もできなかった。俺みたいな人間ができるわけがなかった。共犯だなんて言っておいて、何の役にも立たなかった。俺でも何かできるかもしれないって、思い上がってた。だから……」


 風が吹いて、窓ガラスがカタカタと音を立てた。


「……共犯は、もう、終わりにしよう」

「……葡萄酒農場の人に痛い目見させるのだけが復讐じゃないでしょ」

「……俺は、この社会に一矢報いたいって思ってた。俺から搾取していったこの社会に一矢報いたいって思ってた。けれど、やっぱり俺は空っぽなんだ。何もなかったんだ。社会から相手にされてない人間が、社会に復讐なんて、できるわけがなかった。もう、何が復讐なのか分からない。何をすれば復讐になるのかすら分からない」

「……やめてよ……空っぽなんて……」


 レルの表情が歪む。


「……ごめん。迷惑かけた。俺のせいで、レルの立場がマズくなることも分かってるつもりだ。けれど、これ以上、生きている意味も、もうないんだ。だから」


 ルートはレルを見据えると、告げた。


 最期の願いだ。


 いや。


 最初からずっとレルに言い続けてきた願いだ。


「俺を、殺してくれ」


 レルの唇が、震える。


「……そんなこと、言わないでよ……」

「もう、いいんだ」

「……よくないよ……」

「俺は、おまえの役に立てなかった。力になれなかった」

「……違うでしょ。利用しあう関係でしょ?」

「ああ。俺は、おまえから利用されるだけの価値がなかった。俺の目的がなくなった以上、俺がおまえを利用することも、もうない」

「……そんなの勝手に決めないでよ……。利用されるだけの価値がないとか……! 勝手に決めないでよ! わたしが決めるの!」

「誰が決めても、変わらないよ」


 押し込めきれなくなった気持ちが、レルからこぼれた。誰にも言うつもりのなかった、言葉だった。


「……夢……見させてよ……」


 震える唇で、言葉を紡ぐ。 


「……奪ったり奪われたりしなくても、魔族が、魔物たちが、みんなで仲良く暮らせる日がくるって……。みんなでお腹いっぱいご飯食べて、笑いあえる明日がくるって……。魔力が弱い人も、魔法が得意じゃない人も、みんな笑顔で暮らせる日がくるって……」

「ごめん、俺には、もう」

「謝らないでよ! ……謝らないでよ……」


 唇を噛むと、レルは続ける。


「……今日、屋台回ってたときに、後ろから子どもにぶつかられたの。大丈夫? って声かけたら、お母さんが来て、謝られた。この子、元気がありあまってるからって。そしたらね、その子が言うの。お父さんがいなくなったから、僕がお母さん守るんだって。それで、お母さん見たら、泣きそうな顔してて……。言われたの。魔族に襲われて、命を落としたって……」


 ルートは、昼間の広場での光景を思い出した。あのときの、呆然としていたレルを。


「……その子がね、大きくなったら悪い魔王やっつけるんだって言ってた。お父さんの仇だって。お父さん奪った魔王やっつけるんだって……。わたしは、恨まれても、憎まれてもいい。だって、わたし、魔王だから。嫌われて当たり前だから。……でも……」


 たかぶる感情を押さえつけながら、彼女は続ける。


「……何も言えなかったの、わたし……。その子にも……お母さんにも……。謝ることすらできなかったの……。……嫌なの……。子どもから家族奪うなんて……。……あの子が魔族に憎しみ抱いたまま大きくなって……魔族と殺し合って……今度はあの子の子どもが魔族に憎しみ抱いて……憎しみあって……奪いあって……殺しあって……。何なのよ、それ…………」


 独り言のように、彼女は言う。


「……夢……見させてよ……。憎しみあったり、殺しあったりしなくても、魔族だってみんな幸せになれるんだって……。そんな未来が待ってるんだって……。わたし一人じゃ、できそうにないから……」


 レルの声は、涙に濡れていた。


「……わたしは、ルートに、死んで欲しくない。ルートに、生きていて欲しい。……夢……見させてよ……」


 うつむくと、レルは離れから出ていく。


 沈黙の支配する部屋に、ルートは力なくうずくまった。

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