第5章 6
「ちょっといいですか? すみません、話が聞こえちゃったんで」
ルートは愛想笑いを浮かべながら、話をしている二人の男に声をかけた。
二人とも小ぎれいな服装。一人は小太りの中年。もう一人は痩せ気味の白髪の男性。お年寄りと言うほどではないが、中年よりは年齢が上という印象で、初老という言葉がぴったりくる。
「はぁ……」
若干、不審なまなざしを向けられている気もするが、気にしていられない。
「今年は寒くなるのが早いって、本当ですか?」
「そうらしいですが」
小太りの中年男性が答える。まずは、この人に話を合わせてみよう。
「小麦の収穫が予定どおりいかなかったっていうのは、何かあったんですか?」
「農場で流行り病があったらしくてね。働かせてるヤツらが倒れたって聞いたね」
「それで人手が足りなくなったってことですか」
言いながら思う。これなら話を引き出せるかもしれない。きっと、この世界には、うがいや手洗いなんて発想はないはずだ。葡萄酒農場でも軍隊でも、そんなことは言われなかった。
ルートは言葉を続ける。
「……衛生管理に関わることが多かったんで、人手不足にならないように、衛生管理の方法とかお手伝いできると思うんですよ」
「衛生管理?」
不思議そうな表情で、中年男性は聞き返す。
「ええ。病気になると人手が足りなくなりますし。食事の前に手を洗うだけでも効果あるんですけどね」
「何の話をしているんだい?」
「えっと……。働いてる人が病気にならないような工夫ですね」
「ちょっとよく分からないんだけどね、病気になること自体に問題があるような言い方するね」
「それはそうですよ。身体は大事ですし、人手も足りなくなりますし」
「面白いこと言うね。病気になった人間をクビにして健康な人間を雇えばいいだけだろう? それに、食事の前に水で手を洗うなんて、水がもったいないじゃないか」
その言葉に、思わず絶句する。
違うんだ、この世界では。底辺の人間なんて、消耗品なんだ。水よりも価値がないんだ。
いや、違わない。日本だって同じだ。底辺の人間なんて、消耗品だ。俺も実際、そういう扱いをずっと受けていた。日本にいた頃の自分の価値なんて、自分が一番よく分かっている。
だから、派遣切りにあう。契約社員でクビを切られる。正社員になってからも、誰でもできる単純作業しかやらせてもらえない。いつでも交換できる、代わりのきく、ただの消耗品だ。日本にいた頃の俺も、きっと、水よりも価値がない。
ルートは小さく首を振る。ダメだ、今、考えることじゃない。今、考えていいことじゃない。思い出したくない記憶を、頭から追い出す。沈みそうな心を引きずり上げる。
過去を振り返っている場合じゃない。わざわざ商業協会まで来たのは、お金を稼ぐ方法を探すためだ。今は、できることをやるしかない。
今度は、白髪の男性の方に話しかける。
「……そういえば、先ほどマントのお話をされていたと思うんですけど、実は、冬用のマントが去年破れちゃいまして。見てのとおり、薄手のマントしかないんですよね。お話だと、マントを作ってらっしゃるとか」
白髪の男性が答える。
「ええ。うちは服を作ってるんで」
「どのくらいの数のマントを作る予定なんですか?」
「今からだと、本格的に寒くなるまでに10着できるかどうかだね」
「10着ですか。もうちょっと数を増やす計画なんて、お持ちじゃないですかね」
「数を増やす?」
「ええ。実は、生産管理とか生産計画なんかにも関わる機会が多かったんですよ。だから、もしかしたらお手伝いできるかもって思いまして」
ルートの言葉に、白髪の男性は眉根を寄せる。
「お手伝いって言われてもねぇ」
「例えば、マントを作る工程を仕事内容ごとに細分化して、それぞれの仕事ごとに期限を設定した表を作ると、全体の進捗管理なんかがしやすくなるんですけどね」
日本にいた頃に毎日見ていた、WBS。社会人なら大半の人にはおなじみだろうけれど、この世界の人にはどうだろう。興味を持ってもらえるだろうか。
「それだと、マントだけは管理できるかもしれないけどね。うちもマントだけやってるわけじゃないからね」
「確かに、言われてみればそうですね」
「しかも、マントでも普通のマントもあれば、注文を受けて色を変えたり、ボタンを変えたり、飾りをつけたりとかいろいろあるからね。マントごとにそんな計画作ってたら、そっちのがめんどくさいんじゃないのかい」
「そうかもしれませんが」
「そのまえに、あんた、マント作ったことあるのかい? 作り方知ってるのかい? マント一着作るのに何日かかるか分かってしゃべってるのかい?」
ルートは言葉に詰まった。確かに、マントの作り方なんて知らない。作るのにどのくらいかかるのかも知らない。生産計画という言葉に飛びついてしまった。
WBS、ガントチャート、進捗管理、グループウェア。日本にいた頃、さんざん関わったから、自分の方が計画や管理に詳しいという思い上がりが、間違いなくあった。この世界の文明レベルを低いとみなし、自分の方が優秀だなどとうぬぼれていた。
ところが、現実はどうだ。自分なんて、何一つ知らない。知らないからヤム国まで来たのに、その前提すら忘れてしまっている。異世界に来たら活躍できるなんていう傲慢な考えが、自分の心の中に根を張っていた。異世界に来てから活躍できたことなんて、一度もないのに。
「いやあ、失礼しました。ちょっと出過ぎた真似しちゃいましたね。ははは……」
乾いた笑いしか出ない。
「あんた、何にも知らないし、何の経験もないだろう? それで、よくお手伝いとか言えるよな」
あきれた口調で、白髪の男性になじられた。中年の男性も同調する。
「たまにいますよね、こういう人。自己評価が高いというか勘違いしてるというか、自分が何もできないことに気付いてないんじゃないですかね」
二人組が去っていく背中を、何も言えずに見送る。俺の知識なんて、使えない。経験なんて、もちろんまったくない。経験が重視されるのは、きっと、どこの世界でも同じだ。
嫌でも思い出す。就職活動がうまくいかなかった日々。学生時代も、卒業してからも、派遣切りにあってからも、契約社員で契約を切られた後も。
未経験可の求人にしか応募できない。それでも経験者が応募してきたら、その人が優先される。当たり前だ。
年齢だけを重ねていく。経験を増やすことができないまま、時間だけが過ぎていく。
書類で落ちるたびに、ネットから応募して落ちるたびに、面接で落ちるたびに、自分という人間を否定されたような気がしてしまう。
何社受けただろう。何社落ちただろう。3桁で収まらない気がする。それでも、誰からも相手にされない。どの企業からも受け入れてもらえない。
ポテンシャル重視と書いてある求人に落ちれば、ポテンシャルがなかったと言われているような気がしてしまう。人物重視と書いてある求人に落ちれば、人間性がダメだったと言われているような気がしてしまう。
年齢が上がると、書類はますます通りにくくなる。何の経験もない。資格を取ったところで経験がない以上、机上の空論にしかならない。現場を知らない、頭でっかちな人間なんて、嫌がられる。さっきの自分みたいに。
自分を採用しなかった会社が正解だと思えてしまう。自分という人間に何の価値もないと判断した会社が正解だと感じてしまう。きっと、水以下の価値だったから。
ようやく採用されて正社員になれたところで、何の経験になったのだろう。今の自分のキャリアで応募できる求人はあるのだろうか。
あるわけがない。年齢のわりに経験が少なすぎる。そんな人間、どこだっていらない。転職することなんてできず、今の会社にしがみつくしかない。
何の経験も積めず、余裕のある生活も送れず、時間だけが過ぎていく。
何もできない。仕事で、できることは増えない。
何もできない。プライベートでも、どこにも行けない。
ああ、同じだ。
日本にいた頃と同じだ。
結局、何もできない。
お金を稼ごうなんて息巻いておきながら、何もできない。
身体から力が抜けていく感覚を覚える。
たったこれだけの失敗で、と自分に言い聞かせる。
けれど、たったこれだけの失敗のせいで、自分の無力さを思い知らされる。何度やっても同じ結果にしかならないことは、考えるまでもなく、分かる。
場違いなんだ。ここで商業の話をしている商人たちは、人生が上手くいっている人たちだ。大手企業に就職して、自分の何倍もの給料をもらって、家庭を持って、子どもがいて、そういう、自分が手に入れられなかった幸せをつかんだ人たちなんだ。
俺みたいに、手取り20万に満たないのにサービス残業してまで仕事にしがみついて、何一つ手に入れられなかった人間とは違う。
見下され、蔑まれ、バカにされることしかできない。
これ以上、この場所にいると、息が詰まる。そろそろレルが戻ってくるかもしれない。溺れる前に、諦めて外に出た方がいい。
建物から出ると、日射しが強く感じる。さっきまでは、そんな感じはしなかったのに。
門を出て広場に向かって歩き出したとき、一台の馬車が目の前に止まった。
「邪魔だろ! どけよ!」
馬車から降りてきた男に、唐突に怒鳴りつけられた。
ルートはイラっとした。邪魔ではねえだろ。
「まあ、待て」
馬車のドアが開き、中から男の声がする。
ゆっくりと。馬車の中から人影が現れ、道路へと降り立つ。
あくせく働く庶民とは違い、ゆったりした動作。
一目で分かる、高級そうな服。
その男の蔑むような視線を見て、ルートは、息を飲んだ。
「貧しい格好をしているな。浮浪者か。今の俺は気分がいいからな。恵んでやろう」
男はそう告げると、ルートの目の前に硬貨を投げ落とす。
跪いて、はやく拾えと言わんばかりに。
石畳に跳ねた硬貨が、チャリン、チャリンという音を響かせる。
「それでパンでも買うといい。おまえの何十日分の稼ぎかは知らないがな。残飯漁りよりはマシだろう?」
男が乗り込むと、馬車は走り去った。
道に落ちた、銅貨3枚。
チャリン、チャリン。
その硬貨を、ルートは呆然と見つめた。
その音が、今の俺の価値なんだろう。
いや、きっと、銅貨3枚以下の価値しか、俺にはないんだろう。
水はコップ一杯いくらなんだろうか。銅貨3枚とどちらが価値があるのだろうか。
街の喧噪が耳に届いているはずなのに、音が意味をなさない。
チャリン、チャリンという音が、まだ耳の中で響いてる。
拾う気がしない。
俺が誰なのかなんて、あいつは気付きもしない。
俺の顔なんて、あいつは覚えていない。
さんざん、おまえに鞭で叩かれたんだぜ。
おまえに命令されて、葡萄酒作ってたんだぜ。
給料なんてもらったこともなくて、最低限のご飯が出るだけで、狭い部屋で雑魚寝してんたんだぜ。
農場からここまで葡萄酒運ばされたんだぜ。
宿場に泊まったときも、俺たち奴隷は外で寝ることしか許されなかったんだぜ。
おまえが贅沢な暮らしをするためだけに、俺たちは搾り取られ続けていたんだぜ。
それなのに、おまえは俺の顔すら覚えていない。
俺が勝手に恨んでも、おまえからしたら恨まれる価値すらない、奴隷の一人。
商人貴族様からしたら、顔を覚える価値すらない、奴隷の一人。
それが、俺。
きっと、あいつだけじゃない。
誰もが、そうだ。
視界に入っていても認識されない、背景の一部でしかない。
怒りすら、相手には届かない。
俺が復讐したい社会って、何だ。
俺の復讐相手は、誰なんだ。
復讐したいヤツらにすら相手にされないのなら、俺の復讐は。
「ちょっと! どうしたの?」
どのくらい立ちすくんでいたんだろう。
聞き覚えのある声に、のろのろと顔を上げる。
心配そうに俺を見上げる、レルの姿があった。
「大丈夫? なんか顔色おかしいけど」
「……ああ」
返事をするのも、億劫だった。
ごめんな、レル。
共犯関係は、終わりだ。




