第1章 2
「は……い……?」
水を打ったように静まり返った玉座の間に、魔王の声が響く。うわぁとでも言いたげなまま固まった、魔王の表情。一言で表せば、ドン引き。
しかし、それに気付かないのか、ルートは繰り返した。
「魔王のおっぱいでちっ……」
「いやいや、聞こえてる! 二回も言わなくていいから!」
その言葉に、ルートは胸をなでおろした。
「それなら……頼む」
魔王の尻尾がパタパタと揺れる。固まった魔王の表情が崩れ、わなわなと震える唇から叫び声があふれる。
「だ、誰がやるかぁっ!」
「え……なんで……?」
「なんでって……当たり前でしょおっ!」
今度はルートが叫ぶ番だった。
「話が違う! 何でも選ばせてくれるって言ったのに!」
「限度があるでしょっ!」
「一回でいいから! 一回しかできないけど! どうせ死ぬなら気持ちよく死にたいからっ!」
ルートは立ち上がると、魔王へと歩を進める。無意識に、一歩後ろへと下がる魔王。自分の口調が素に戻っていることに気付いてすらいない。
「頼むよぉ。今まで本当にいいことなかったんだよぉ。最期くらい気持ちよく死なせてくれよぉ」
ルートの懇願に、魔王の顔色が変わっていく。
「寄るなっ! 気持ち悪い!」
言葉とともに、魔王の右手から炎が巻き起こった。魔力で作られた地獄の業火は、ルートの身体を包み込む。
「あっ……! がっ……! ぐあぁぁっ……!」
悲鳴が玉座の間に響き渡る。しかし、魔王は魔法を緩めない。身体の外側も、内側も。ルートのすべてを、彼の存在ごと焼き尽くす。すべてが、灰になるまで。
「うっわぁ……。マジ気持ち悪かったわ……」
炎が消え、静まりかえった玉座の間で、そうつぶやいた魔王が目にしたのは衝撃の光景だった。
「嘘……? どうして……?」
灰の中から、ルートの身体が復活した。
「あっつ! 何すんだよ! 話が違うだろ!」
「ど、どうして……どうして生きてるのよ……?」
魔王の言葉なんて、ルートの耳には入らなかった。彼の望み、それは、ただ一つ。
「おっぱいで窒息死させてくれよぉ。死に方選ばせてくれるって言ったじゃんよぉ」
「ひぃっ……」
もはやホラー。迫りくる、ルート。魔王の尻尾がピンと逆立つ。さすがの魔王からも悲鳴が漏れた。いくらなんでも気持ち悪すぎる。
「よ、寄るなぁっ! 死ねぇっ!」
言葉とともに、魔王の右手から刃となった風魔法が飛ばされた。風の刃は確実にルートの首を切り落とす。首が床に転がり、胴体が床に倒れる。ややあって、首と胴体の断面から赤い血が滴り落ちた。その光景を見て、魔王はホッと一息ついた。
「マジ無理だわ……あれ……」
そうつぶやいた魔王だったが、再び衝撃の光景を目にした。
「ちょ……なんでよ!?」
切り落とされたルートの首が、胴体と繋がった。
「いったぁ……。何すんだよ!? 話が違うって言ってるだろ!」
「そういう問題じゃないでしょ! おまえ、何者なのよ!?」
「? 何者って……何が……?」
「燃やしても切り落としても復活するって、おかしいじゃない! 本当に人間?」
「失礼な! どう見ても人間だろ!」
「人間が殺しても死なないなんて、ありえないでしょ!」
確かに、とルートは思う。間違いなく全身を焼き尽くされた。間違いなく首を切り落とされた。それなのに、どうして自分は生きているのだろう。最期の執念が魔法に勝ったのだろうか。
「おまえ、一体何の加護を受けてるのよ?」
「加護?」
「そうとしか考えられないでしょ! すぐにその加護を奪い取ってやるわ」
魔王の手から黒い稲妻が走ると、ルートの身体を包み込む。
「な、何を……」
彼の身体から、文字が浮かび上がる。
「これが加護の正体ね」
そこに書かれていた文字は。ルートにもはっきり読めた。
『スドウルートはレルのおっぱいで窒息死させられること』
「「…………」」
沈黙する二人。
ルートは考える。スドウルート。俺だ。本名は須藤龍登だ。某プロ野球球団のファンだった親が名付けた。昔からいろんな人に「リュート」と読まれた。その度に「ルート」と訂正してきた。
レルというのは魔王の名前なのだろう。本名はレルなのだろう。
そして、魅惑的な文言。おっぱいで窒息死。
「な、な、な、何よ、これ……」
レルの声が、震える。
「どうして……こんなのが……」
ルートは思う。それは、間違いなく自分が口にした心からの望み。せめて人生の最期にと願った純粋な想い。それが今、明確な形となって表れている。
そして、先ほどの会話。契約してやってもいいというレルの言葉。きっと、自分の願いが、契約になっている。それなら、炎や首ちょんぱじゃ死なないはずだ。
いや、待て。もしかすると。
「クックックッ……」
思わず、笑いがこみあげた。
「魔王さんよぉ……いや、レルさんよぉ……契約は履行してもらわねぇとなぁ」
言葉とともに、ゲス感満載で彼はレルへじりじりと近づく。
「こ、来ないでよ……」
「レルも気付いてるんだろう? この契約が何を意味するか」
「け、契約なんて、わたしはした覚えないし!」
「知らねえのか? 契約ってぇのはよぉ、申込みと承諾の意思表示が合致すると成立するんだぜぇ」
日本にいた頃に読んだ民法の本に、確かそう書いてあった。お金がなくて図書館くらいしか行けるところがなかったから、いろんな本を読んだ。あの生活から抜け出そうともがいて、勉強したんだった。
日本の民法がこの世界でも適用されるかなんて分からない。けれど、彼は魔王に迫る。
「承諾したよなぁ……レルさんよぉ……」
「し、承諾なんて……」
「したよなぁ? 俺がおっぱいで窒息死させてくれって申し込んだあと、はいって承諾の返事したよなぁ?」
「し、してない! 返事なんてしてない!」
「はいって言っちまったよなぁ?」
「あれは返事じゃなくて、聞き返しただけで……」
「おかしいよなぁ? その後、聞こえてるって言ってたよなぁ? だったら聞き返すことなんてないよなぁ? 承諾の意思表示だったんだろぉ?」
一転攻勢になったルートは、レルに詰め寄ると言葉を続ける。
「魔王だもんなぁ。世の理も変えられるって言ったよなぁ? それで俺は、燃やされても首ちょん切られても死んでない。これがどういうことか、分かるよなぁ?」
そう。彼の推測が正しければ、導かれる答えは、ただ一つ。
「……つまり、俺は、おまえのおっぱいで窒息死する以外、死ねない不死身の身体になったってことだよなぁ!?」
「ひぃっ……」
後ずさりしながら、悲鳴を漏らすレル。尻尾がピンと逆立つ。
「契約、履行してくれるんだよなぁ? 魔族にとって、契約は絶対なんだよなぁ?」
「こ、来ないで……」
「おっぱいで窒息死させてくれるんだよなぁ?」
「こ、来ないで! ホントに来ないで……! いやぁっ! 来るなって言ってるのにぃ!」
半壊した瓦礫だらけの玉座の間を、全力で、レルは走って逃げた。
「待てよ! 話が違うだろっ!」
「無理! 無理! 絶対無理っ! そんな契約、無理だからぁ!」
「契約履行しろよっ!」
「いやっ! 無理っ! 本当に無理っ! 魔王にそんなこと言うなんて、頭おかしいのっ!?」
魔王のおっぱいで窒息して死にたいおっさんと、気持ち悪い契約の履行を迫ってくるおっさんから逃げたい魔王の図、ここに完成である。
「おっぱいで窒息させてくれるんだろっ!?」
「来ないでよぉっ! 無理っ! わたし魔王だからぁっ! 威厳あるんだからぁっ!」
玉座の間を死に物狂いで走るレルと、必死に追いかけるルート。彼女は瓦礫で転び、風魔法でルートの身体を切り刻み、炎で焼き尽くし、瓦礫を操って身体を潰し、爆発魔法で身体を爆発させる。それでも、彼は死なない。
レルの中に、いつ以来か分からない感情がよみがえった。ずっと味わっていなかったから、その感情の存在を忘れていた。
その感情とは、そう、恐怖。
ぬちゃあぁぁぁ……。聞きなれない音が響く。
「ひいいいぃぃぃっ……!」
炎に包まれた瓦礫がぷすぷすと煙を上げるなか、ハァハァ言いながらおっぱいを求めて這い寄ってくる、首が繋がったばかりの全身血まみれの不死身のおっさん。
レルからすれば、どんな勇者の聖剣よりもはるかに恐ろしい。
今まで生きてきて、これ以上の恐怖を味わったことは、間違いなく、ない。
「ハァハァ……観念するんだな……」
「い、いやぁ……。なんで生き返ってくるのよぉ……。追いかけてこないでよぉ……」
追いかけっこをすること数分。
玉座の間の片隅には、涙目になってしゃがみ込み、両腕で自分の胸を隠すように包み込みながら震えるレルと、彼女を追い詰めるルートの姿があった。走り回ったせいで、彼の脚はパンパンで、息も上がっている。
「ハァハァ……おっぱい……」
「ゆ……許して……」
周りから見れば、下半身(※注 脚です)をパンパンに膨らませ、ハァハァと荒い息を吐きながら、美少女に迫るおっさんという、とてもよろしくない絵面になっているのは本人も分かっている。日本だったら間違いなく通報される事案であることも分かっている。しかし、息が上がってしまい、言葉が出てこなかった。
「け、契約破棄しよ? ね?」
涙目のまま、レルはルートに交渉をもちかける。
「なんでだよ? 俺に何のメリットもないだろ」
「契約破棄してくれたら、もっとすごいことしてあげるから!」
「すごい……こと……?」
「そう! すごいこと!」
「例えば……?」
「えっと……そう! あんなこととか!」
「あ、あんなことっ!」
「こんなことも! こんなこともしちゃうから!」
「あんなことやこんなことっ!」
「そう! あんなことやこんなことしてあげるから! だから! ね? 契約破棄しよ? ね?」
あんなことやこんなこと。ルートの脳内にモザイクのかかったピンク色の光景が浮かぶ。その甘美な響きに彼の心は揺れ動いた。だが。
「そんな言葉で俺がおっぱいを手放すとでも思ったかぁっ! 人間を滅ぼそうとする魔王の言葉なんて信じられるかぁっ!」
彼の本心から出た言葉だった。もちろん、正義のヒーローが言うような意味ではなく、自分のおっぱい窒息死の権利を奪われてたまるかという文脈において。
ルートの言葉を聞いたレルは、むうっと頬を膨らませると、口を開く。
「こ、こっちだって好きで人間と戦ってるんじゃないんだから!」
「は? じゃあ、どうして人間と戦ってるっていうんだよ?」
うつむくと、小声でレルは言葉を紡ぐ。
「……うなの……」
「は?」
意を決すると、彼女は顔を上げてルートの顔を見据えた。
「貧乏なのよ! わたしたち!」




