第1章 1
カツン、カツン。
先ほどまでとは打って変わり、人の声が消えて瓦礫だらけになった玉座の間に、靴音だけが響く。その靴音が、死の刻限へと近づく時計の針の音に聞こえる。
「貴様が最後の一人じゃな」
へなへなと座り込んだまま、ルートは顔を上げて、声の主を見据えた。
視線の先には、傾国の美少女。先ほどまで、軍が対峙していた相手。そして、一瞬で軍が壊滅させられた、恐怖の権化。頭の角が、人間とは相容れない存在であることを暗に示している。
ここまでか、と思う。こっちはただのおっさんだ。どうあがいても勝ち目はない。こっちも、好きでこんなところにいるんじゃない。好きで魔王なんかと戦っているわけじゃない。
「どうするんじゃ、貴様。まだ、妾と戦うか? それとも、尻尾を巻いて逃げ出すか?」
戦う気すら起きない。怒りや恐怖なんて、もはやない。諦めしかない。俺の人生、なんだったんだろう。日本で生きていた頃の記憶が脳裏をよぎる。
正社員にもなれないのに、満員電車の中で見る「自分の市場価値」という広告の文字。嘲笑されているとしか思えなかった。
やっと正社員になれたけれど、商流最底辺のSES。覚えているのは、暖房の切れた誰もいないオフィスで一人残って、寒さに震えながらキーボードをたたく音。
遠目に魔王を見る。震えすら起きないのは、諦めきっているからなのか。
いや、違う。諦めきっているのなんて、今に始まったことじゃない。日本では必死に努力したけれど、這い上がることはできなかった。搾取され続ける日々に、心が麻痺していた。
いつの間にか、世界から、色が失われていた。
何もない。空っぽの人生だった。
カツン、カツン。
魔王の靴音が近づく。
「逃げはせぬのか。戦うんじゃな、貴様」
魔王の声が、空間を支配する。その声に呼応するように、後ろで瓦礫の崩れる音が響く。ああ、そうだ。この瓦礫のように、自分の人生も崩れ去ったんだ。
日本では、戦うことも、逃げることもできなかった。
だから、ある日、目覚めたときにこの世界にいたときは、驚愕よりも歓喜が勝った。
けれど。
「貴様、カーネル帝国の者じゃろう?」
その言葉が、鞭の音をよみがえらせる。身体の痛みを思い起こさせる。吐き気がする。死を前にして吐き気がしているのか、帝国の日々のせいで吐き気がしているのか、もう分からない。
異世界転移。
そういう漫画とか小説なら読んだことがある。アニメでも見た。だから、異世界に来ても、意外とあっさり受け入れることができた。
これは、チャンスかもしれない。もしかしたら、救われるかもしれない。
自分に何か隠された能力があったり、現代知識がこの世界で使えたり、何かが始まるかもしれない。大学を卒業してから、あそこまで前向きになれたのは、きっと初めてだった。
世界に、色が戻った。
やり直せるとまではいかなくても、ここからでも、もう少しだけマシな人生を送れるかもしれないと思った。
それなのに。
ここでも待っていたのは、搾取だった。
「あの国は別の世界から人間を召喚して、奴隷として使うようじゃな」
そう。この世界に来ても、奴隷だったんだよ、俺は。葡萄酒を造らされる日々。報酬は、飢えをしのぐだけの残飯。
異世界から次々と人間を召喚し、ひたすら働かせて、元の国民は左団扇の生活を送って笑っている。そんな、ロクでもない国。日本で底辺だった頃のほうが、まだマシだったとさえ思った。
再び、世界から色が失われていった。
「貴様も別の世界から来た人間か? それで妾に戦いを挑むとはのう。まったく、人間のすることはよく分からぬ」
戦いたくて戦ってるんじゃないとルートは思う。ここに、自分の意思なんてない。俺なんて、逃げたら背中から槍で刺されるから、ここまで来るしかなかった操り人形だ。
葡萄酒農場で働かされていたら、突然、軍隊に入れられた。俺だけじゃない。異世界から召喚された人間は、ほとんど軍隊に入れられた。
そして、簡単な訓練の後、魔王軍の本拠地へと攻め入った。
誰もが分かっていたんだ。捨て駒にされると。肉壁の役目だと。
軍隊の作戦はシンプルだった。
ルートたちのような召喚者を前線に立たせて、魔族の攻撃を受けさせる盾として使い、その間に後方から攻撃を仕掛ける。軍はその布陣のまま突き進んだ。
ルートは運よく生き残り、軍の本隊は、とうとう魔王城の玉座の間までたどり着いた。
しかし。
カツン、カツンという、魔王の靴音が大きくなるにつれて、終わりが近づいてくる。
その音が、空間を揺らす。魔王という存在が、空間を、世界を、この世のすべてを支配しているような錯覚に陥る。
今まで感じていなかった恐怖が、ルートの中で大きくなっていく。
恐怖とともに、彼は先ほどの光景を思い出した。
一瞬だった。魔王の手から風が巻き起こった、その瞬間。城の壁も屋根も吹き飛ばされ、玉座の間は半壊した。そして。軍隊は誰もが遥か彼方に吹き飛ばされた。
たった一人、柱の陰にいたおかげで難を逃れたルートを除いて。
「運良く一人生き残った貴様に、妾が情けをかけてやろう。死に方くらいは選ばせてつかわそう」
鷹揚な口調で告げると、魔王はルートに向かい歩を進める。
死に方。その言葉で、ルートは改めて自分が死ぬことを自覚した。運が良かったのか、悪かったのか。彼にもまったく分からない。生き残ったとはいえ、次の瞬間に殺されるのは明白だ。
グゥゥゥと地鳴りのような音が響く。魔物の唸り声だろうか。ここにくるまでに魔族も魔物もたくさん見たし、戦った。まだ残党がいるのだろう。
魔王は右手で自分のお腹をさすると、ルートに告げる。
「どうじゃ、望みの死に方は決まったか」
舌が貼り付く。喉が渇く。声すら出せない。恐怖で顔を上げられない。
「それとも、恐怖で声も出せぬか」
心の内を見透かされたようで、息が詰まる。自分の鼓動が聞こえる。
おそるおそる、ルートは顔を上げた。
初めて間近で見る魔王の姿。魔王の圧力と恐怖で心臓が握り潰されるような感覚に陥る。
それなのに。
世界に、色が、戻った。
目の前の魔王は、息を飲むほど美しかった。
遠目でも一目で分かる傾国の美少女だったが、近くで見ると、そのかわいさ、美しさに息を飲む。露出度の高い服からのぞく、透き通った肌。吸い込まれそうな瞳。頭の角が、魔王の魅力をより一層引き立てている。
今までの人生で、ここまの魅力を持つ女の子に会ったことはあるだろうか。いや、考えるまでもない。間違いなく、ない。
今まで会った中で、一番かわいかった女の子は誰だろうと思う。昔付き合っていた女の子。高校生のときに、校内で人気の高かった同級生。推しだったアイドル。そうだ、お金がないから、一ヶ月食費を削ってお金を貯めて、握手会に行ったんだった。
あのときの、握手会の感触を思い出す。温かくて、柔らかくて、すべてを包み込んでくれるような、あの手の感触。
ルートは思わず苦笑いをした。今際の際に、自分は一体何を考えているんだろう。けれど、もう、どうでもいい。どうせこれで最期なのだから。
どうせ死ぬのなら、せめて。
最期はあの感触で。
「……本当に、どんな死に方でも選ばせてくれるんだろうな?」
ルートの問いに、魔王は目を細めて答える。
「よい。どんな死に方でも選ばせてつかわそう」
「本当の本当だな?」
「しつこい。どんな死に方でもよいと言っておるだろう。なんなら契約もしてやる。魔族にとって契約は絶対じゃからな。妾の力を持ってすれば、世の理であろうと多少は変えられる。好きな死に方を選ぶがよい」
ルートの心は決まっていた。
「じゃあ……」
最期に選ぶ自分の死に方。それは。
「せめて……」
彼は魔王の露出度の高い衣服に視線を送る。その衣服に隠された、二つのふくらみ。
もはや、恥も外聞も、ルートにはなかった。これで最期だ。今までロクなことがなかった人生も、これで終わる。
ゴクリ、と自分の唾を飲み込む音が城内に響き渡った錯覚を覚える。
今までの自分だったら、絶対に言わなかった言葉。思っていても、口にすることすらはばかられた言葉。
本能が叫ぶ。
欲望が渦巻く。
どうせ、もう、ここで死ぬ。
すべて、ここで終わる。
ただ、ただ、思う。
それなら、せめて。
どうせ死ぬなら、気持ちよく死にたい。
震えながら、ルートは願いを口にする。
「魔王の……」
目を細め、耳をそばだてる魔王。
一瞬の静寂。
次の言葉を待つ魔王に向かって、彼は思いの丈をぶつけた。
「……魔王のおっぱいで窒息死させてくれ!」




