第5章 2
「ひぐっ……。ううっ……」
月明りに照らされた川の水で口をすすぎながら、レルがつぶやく。
「……妾は魔王なるぞ……。ひぐっ……」
その様子を見ながら、ルートは思う。こいつ、泣いちゃったよ。
「……妾は威厳のある……ひぐっ……魔王なるぞ……ううっ……」
仕方ない。レルの背中に声をかける。
「安心しろ。俺がおまえから威厳を感じたことは一度もないから」
「……ひぐっ……妾の威厳すら分からぬとは……ひぐっ……」
「べろんべろんになるまで自棄酒して、二日酔いになって、空からゲロ吐く魔王がどこにいるんだよっ!?」
「……ひぐっ……ゲロじゃないもん。魔力を大地に与えてあげだだけだもん」
「汚ねえ魔力だな!」
日はすっかり落ちており、辺りは暗くなっていた。今日中にヤム国に着くのは無理かもしれない。
川のほとりでうずくまったままのレルに、ルートは聞いた。
「ここからヤム国って、歩いてどのくらい?」
「多分、一時間くらい」
歩いて行くには少し遠い。今のレルが一時間も歩けるとも思えない。
「今日は、ここで野宿するしかないか」
「こんなとこで野宿したら、風邪ひくでしょ」
「おまえが魔法で火でも起こせばよくね? だいたい、今から歩くよりはマシだろ」
「ヤム国まで行ったら、人間の姿で働いてる魔族がいるのよ」
「え? マジで?」
初めて聞く話だった。ヤム国に向かう前に、泊まる場所がないという話をしたら、あてがあるとレルが言っていた。こういうことだったのか。
「その魔族とは連絡とってるの?」
「大丈夫よ。ヤム国着いたら魔力高めるから」
「高める?」
「そう。わたしの魔力高めたら魔族なら分かるから、迎えに来てくれるのよ。この時間なら仕事中でもないと思うし。ヤム国くらいだったら魔力高めなくても分かるから、何もしなくても迎えに来てくれると思うけど」
某漫画の「気」で相手が分かるみたいなものだろうか。すげえ仕組みだな。
「けど、おまえ、ヤム国まで歩ける? 一時間くらいあるんだろ?」
「…………人間よ。そちに妾をおんぶする権利を特別に授けてつかわそう」
「おい」
「妾を支える礎となるのじゃ。喜ぶがよい」
「……俺一人で先に行くからな」
告げるとルートは、レルを置いて歩き出す。
しかし。
「……人間よ……」
「おまえ、足つかむなよ!」
先ほどまで川のほとりでうずくまっていたレルが、今は地面に這いつくばって、ルートの足首をがっしりとつかんでいた。
「……妾をおんぶする権利を……」
「いらねえよ! ってか、おんぶして欲しいなら、素直にそう言えよ!」
「妾は魔族の王なるぞ。そちがどうしてもおんぶする権利を所望するのであれば、考えてやらんこともないとは言えなくもない」
「どっちだよ? って、どっちにしろいらねえよ。先行くぞ」
ルートは、足首をつかんでいるレルを身体ごと引きずるように、一歩前に踏み出す。
しかし。
「待ってよおぉぉぉぉ……! 無理いぃぃぃ……! おんぶしてよおぉぉぉ……!」
泣きつかれた。
「だから、おんぶして欲しいなら、初めから素直にそう言えって!」
「置いてかないでよおおぉぉぉ……! 新聞紙で寝たいのおおぉぉぉぉ……!」
「新聞紙で寝たいって泣きついてくるヤツ、聞いたことねえよ! つーか、あれ寝るための道具じゃねえからな!」
本当に魔王かよ、こいつ。
そう思いながら、ルートはしゃがむ。
「ほら。おんぶしてやるから乗れよ」
立つのがめんどくさいのか、レルは膝立ちの姿勢でルートに歩み寄ると、背中によじよじと登って、首に腕を回す。
「立つぞ」
レルを背中に乗せ、立ち上がったルートだったが。
軽っ。
思っていたよりも、はるかに軽い。小柄だし、重くはないと思っていたが、ここまで軽いとは。この世界に来てから肉体労働続きで体力がついたということもあるが、それにしても、想定よりもはるかに軽い。
これならブイアイも、レルを落とす心配はなかったのではないかと思う。
「あっちに真っ直ぐ行けばいいんだよな?」
「そう。それで着くから」
いくら思っていたより軽いとはいえ、一時間おんぶし続けるのは多分無理だ。行けるところまで行って、途中で休憩を入れるしかないか。
レルをおんぶして、ルートは歩き始める。
耳元で声がする。
「……喜ぶがよい、人間よ。魔族の王である妾をおんぶできるなど、そちには望外の誉れじゃ」
「……うるせえな、ゲロ魔王。落としておいてくぞ」
その言葉に、ぎゅっとレルがルートにしがみつく。それだけではない。
「おまえ、尻尾!」
レルの尻尾がルートのお腹に巻き付いていた。
「ヤム国近いんだから、尻尾隠せよ! 角もだけど!」
「無理。隠しといて」
「どうやって!?」
こいつ、無茶苦茶だなと思う。
とはいえ、魔王城から半日かけてヤム国の近くまでやってきた。その間ずっと、レルは魔法を使いっぱなしだった。魔力がどのくらいあるのかは分からないけれど、決して楽ではなかったはずだ。もしかすると、魔力が切れているのかもしれない。
今まで、レルが泣きついてきたのは、契約の履行を迫ったときだけだった。脅してもないのに、おんぶしてほしいと泣きついてきたということは、相当疲れがたまっていたんだろう。
無理してくれていたことも分かっている。本当は感謝しなければいけないことも分かっている。それがゲロで台無しだとしても。
……などと、真面目に考えていたルートだったが。やっぱり無理だ。
当たってる。
おんぶしているから当然だが、当たってる。
背中に感じる、二つのふくらみ。
柔らかい。
さすが、魔族の王だ。
この柔らかさで魔族の頂点に上り詰めたとしか思えない。
よくよく考えれば、こいつのおっぱいが俺の最終目的地だったはずだ。
今、最終目的地が背中に当たってる。
冷静に考えれば、おかしい。
背中に最終目的地があるのに、どうして俺は、こいつをおんぶして歩いているんだろう。
このまま後ろを向いて窒息死すれば、丸く収まる気がしてくる。
後から文句を言われるのも嫌だから、一応、声だけはかけてみようと思う。
「レル」
返事がない。
「レル?」
耳元で、寝息が聞こえる。こいつ、おんぶされたまま寝落ちしやがった。
無防備すぎるだろと思う。
俺がおっぱいを要求すると逃げ回るくせに、どうして今は俺におっぱいを当ててくるんだ。
自分のおっぱいが俺に狙われてることを、忘れているんじゃないだろうな。
「はぁ……」
ため息を吐くと、ルートはレルをおんぶしたまま歩き続けた。
夜風が頬にあたり、身体を冷やす。魔王城のある場所とは違って温暖な地域ではあるが、それでも夜は冷える。
夜の静けさが、妙に耳に残る。
レルにとって、この数日は激動だったはずだ。
帝国と戦って、俺と意味不明な契約を結んでしまって、おっぱいを追いかけられて、魔族の集会で糾弾されて。
この小さな身体で、魔族の王としての責任を果たさなければならない。威厳を保たなければならない。
どれだけ大変だろう。どれだけ辛い想いをしているだろう。この小さな身体に、どれほどの重圧がのしかかっているんだろう。
――そちには永遠に、魔族の未来の姿など、描けそうにないのう
レルの言葉が、脳裏をよぎる。
レルが魔族の未来を本気で思い描いていることは分かっているつもりだ。
きっと、こいつは、魔王でいるには優しすぎる。
だからこそ、不満を持つ魔族が大勢出てくる。その魔族を押さえつけるために、どれほど苦労していることだろう。
今日の服も、クーロンに借りたと言っていた。自分は露出度の高い服しか持っていないくせに、服を増やそうとしない。自分の服よりも、他の魔族の服を優先した結果なのだろう。
多分、レルは、他の魔族のために、自分を犠牲にしてしまう。そういう性格なのだろう。
結果が求められている。
魔族みんなが、納得するような結果が。
こんな小さな身体で、俺なんかにおんぶされるくらい小さな身体で、一生懸命頑張ってるんだな。
「ちょっとは、おまえの負担減らしてやるよ。共犯者だからな」
つぶやくと、ルートは歩き続ける。
歩き続ける二人を、星空が見守っていた。




