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最終章:混沌と秩序①

 ある意味憩いの場所ともなる男子トイレに殺伐とした空気が張り詰められる。

 探し求めていた敵がとうとう姿を現した。相手は無手、であるのに向けられる殺気の鋭さはさながら名刀の如く。両腕を脱力させ一見自然体であるが、その自然体こそが彼女の構え。間合いに入り刀を振り下ろすその隙が一切ない。


「……お前の事はエルトルージェからある程度は聞いている。お前は誰なんだ? どうしてエルトルージェを操ってまで俺の命を狙ってくるんだ? 恨みを買うような事をしたこっちにはないぞ?」

「……僕の名前はアリシア。お前には何の恨みもない、けれど僕はただ主の願いを叶えるだけ……」

「主?」

「冥土の土産として教えてあげよう。僕の主はかつてこの大陸に君臨する闇より生まれし存在、俗に言う魔王と呼ばれる存在だった。その名を……カオス」

「カオス……だと?」


 アリシアと名乗った亜人の口より飛び出た言葉に、龍彦は眉を顰める。

 『WILD BLOOD FIGHTER』には隠しボスが存在する。

 ストーリーモードにてノーコンティニューかつ全ての相手を超必殺技で倒す事を条件に、各キャラのエンディング後隠しボスが出現する――その隠しボスの名はカオス。

 大きな双翼と尻尾を生やし禍々しい形相で赤い瞳を輝かせているその姿は悪魔そのもの。

 作中では全てのキャラの超必殺技を通常必殺技として使用してくる他、ガード不能の固有超必殺技を兼ね備えた、製作陣が悪ふざけで作ったとしか思えない程のチートぶりを見せつける。

 そんなカオスだが、他のキャラとは違い設定が一切ない。何故隠しボスとして登場するのかなど全て不明。おまけにプレイヤーキャラとしても使用出来ず、また倒したからと言って特別なエンディングが流れる事もなく“Thank you for playing”の文字しか映し出されるのみ。

 アリシアの言うカオスが、その隠しボスであるカオスと何か関係があると龍彦は考察する。


「しかしある亜人の英雄――このエルデニアの初代国王によって討たれた。主の魔力ちからは散り散りになり、魂はとある神殿の奥底へと封印された……けど、僕と言う存在に彼らは気付いていなかった」

「……じゃあお前の目的は当然その神殿に封印された魔王を、カオスを蘇らせるって事だよな? それだったらなんで俺が狙われるんだ?」

「散り散りになった魔王の魔力ちからは全部で三つ。二つまで集め――その残る一つをタツヒコ、お前が持っている」

「俺が……?」

「……魔王の魔力は破壊、再生、そして……支配――お前も憶えがある筈だ、動物や亜人達から尋常ではない程好意を向けられているのを」

「まさか……!」

「そうだ。お前が思っている魅了チャームの異能とは本来主の魔力ものだった……それがお前の中に宿っている」

「俺の異能が……」


 アリシアの口より語られた驚愕の事実に龍彦は狼狽し、同時に納得する。

 スカアハの館にて彼女より告げられた魅了チャームの異能。

 術者の魔力が干渉しなくとも自動的にその効果を発揮すると謎が多かった。その正体がカオスの魔力の一つだと言うのなら、今までに起きた事象を含め全て説明する事が出来る。

 本来持っていたカオスの魔力が独りで作動していた。絡繰さえわかってしまえば実に単純な仕掛けである。


「しかし奇妙だな……本来は魔物に干渉する筈なのにどうして動物や亜人ばっかりに……」

「逆に魔物からは何度も命を狙われたけどな」

「……主が封印されてから五百年。僕は必死に散り散りになった魔力ちからを探し続けた。破壊と再生は直ぐに回収する事が出来た……だが残る支配だけがどうしても見つからなかった。そこで調べ続けていく内にこの世界には存在しないと僕は考えた。ありとあらゆる魔法を総動員させて遂に、僕はお前と言う宿主を見つける事が出来たのだ」

「じゃあ俺が異世界の人間だって言うのは既に知ってる訳か……。じゃあこの世界に招いてくれたのはお前の仕業って事なのか?」

「あぁ、だけど僕一人の力じゃ違う世界の人間を連れてくる事なんて出来ない――だから銀狼種フェンリルであるエルトルージェの力が必要不可欠だった」

「フェンリル……?」

「もういいだろう? どの道お前は僕に殺される。その身体に宿っている主の魔力ちから……返してもらうとしよう」

「くそ!」


 応戦するべく刀を構えた――次の瞬間。


「そこまでじゃよ!」


 男子トイレの扉が勢い良く破壊される。

 飛び散る扉の破片と混じり男子トイレへと飛び込んできたのは人狼ウェアウルフ族の老人だった。彼はそのまま勢いを失速させる事なくアリシアの背後に飛び蹴りを繰り出す。


「……ジジィ、また僕の邪魔をするのか? あの夜の時のように……!」

「そこのお若い剣士は殺させはせんよ。彼こそこの世界を救う勇者であり……大切な孫娘を任せられる婿殿なのじゃからな」


 人狼ウェアウルフ族の老人の飛び蹴りを異形の左腕で受け止めたアリシア。間髪入れず龍彦は彼の加勢へと入る。

 狭い室内である為に振り下ろす動作は不得手。よって相手の心臓に目掛け刺突を繰り出す。

 鋭く風を切り裂くその切先は、アリシアの心臓を捉えず虚空を穿った。


「もらった」

「後ろ!?」


 背後から強襲を仕掛けてくるアリシア。胴へと繰り出された回し蹴りを、人狼ウェアウルフ族の老人が割って入り受け止めた。

 しかし防御しているものの打たれ弱い弱点を抱えている上に老体である彼では受け切れず、結果そのまま押し切られ頭部から壁へと激突した。


「おじいさん! この……!」

「おっと――今更だけど男子トイレでこれ以上戦闘するのは少しアレだな。場所を変えて改めてタツヒコ……その命を貰い受け主の魔力ちからを返してもらうとしよう」


 龍彦の放った脇差による横薙ぎを躱し、アリシアは男子トイレから姿を消した。

 レティヘロのインビシブルのように周囲の景色と同化させ気配を遮断しているかと警戒しながら人狼ウェアウルフ族の老人へと駆け寄る。

 頭部から血を流し呼吸を乱している。その様態から医学に関する知識が疎かったとしても彼が重傷を負っている事ぐらいは誰でも理解出来る。


「うっ……うぅ……」

「おじいさんしっかりして下さい! 直ぐに医務室に連れて行きます……!」

「い、いかん……ワ、ワシの事なら大丈夫じゃ。それよりも早く……」

「ちょ、ちょっと何が起きてるの……ってタツヒコ? そ、それにおじい……ちゃん!?」

「お、おじいちゃん!?」


 男子トイレに現れたエルトルージェは頭から血を流し倒れている人狼ウェアウルフ族の老人を見るや否や血の気を引かせた顔で駆け寄る。


「おじいちゃんしっかりしてよ! ねぇ何があったの!?」

「エ、エルトルージェか……すまんのぉ。少しばかりドジッたわい……」

「ねぇしっかりして! しっかりしてよおじいちゃん!」

「エルトルージェ落ち着け! 今は救護班の所に連れて行くんだ!!」

 そこに普段の強気な彼女の姿は一切なく。身内の危機に目頭に大粒の涙を浮かべ激しく狼狽するエルトルージェを宥めながら、龍彦は人狼ウェアウルフ族の老人を背負い急いで救護室へと向かった。





 医務室に設けられた一床のベッドの上で規則正しい呼吸を繰り返し眠っている人狼ウェアウルフ族の老人――ゴウトの治療を行っていた医者が不安な表情を浮かべ見守っていたエルトルージェに優しく微笑む。


「大丈夫ですよ。出血の割には傷自体はそんなに深くはありません。流石は生きる伝説、誇り高き老狼の異名を持つお方だ」

「先生……有難うございます!」


 退室する医者に頭を下げるエルトルージェ。

 それと入れ替わるようにカルナーザ、カエデ、ライラ……そして第一試合で戦ったレオとその父親兼エルデニアを治める国王バーグが病室へと入ってきた。


「貴方は……」

「タツヒコ・ハギリくんだね? 我が名はバーグ・グラディウス。彼女の祖父ゴウト・ヴォーダンとは昔からの心友だよ――誇り高き老狼と謳われた男に重傷を負わせた相手……やはりこの時が訪れたか」

「この時が訪れた? どう言う事なんですか?」

「それを君に説明しに来た。君にはこの話を聞く資格があり、同時に聞かなくてはならない使命がある」


 真剣な眼差しを向けるバーグに龍彦はその目を見つめ返し、彼の言葉に耳を傾ける。


「望む願いを一つだけ叶える……その優勝賞品を目当てに強者達をこのエルデニアに集わせ戦わせるこの武術大会にはある目的があった。それはそれはエルデニアの最北端にある神殿の地下に封印している魔王を封じ込める為なのだ」

「カオスの事ですか……?」


 その言葉に、バーグは頷く。


「かつてエルデニアに恐ろしい力を持った魔王……カオスが現れた。圧倒的な魔力を持ちただ虐殺行為を楽しむ姿は悪魔と言っても過言ではない。そのカオスに我らの偉大なる先祖は多くの犠牲を払い、遂に封じる事に成功したのだ。そして地下深くに封印した魂となったカオスの上に神殿を設け、封印が弱まらぬ様に一定量の魔力を注ぎ込む必要があった。そこで思いついたのがこの武術大会だ」

 バーグの口より語られた事実に、レオを除き誰もが驚愕の表情を浮かべている中で龍彦は一人関心の表情を浮かべていた。

 武術大会に秘められていた真実。そして謎に包まれ数多くのプレイヤーの前に立ちはだかったカオスとの関係性。それは現実として存在するこの世界でしか分かり得なかった。その真実をたった一人……自分だけが知った。

 その事を嬉しく思う中で、一つの使命感が龍彦の中に芽生える。


「武術大会で実力者達が闘う事で生まれるエネルギーを封印力を強める魔力へと変換する魔法を我らグラディウス家の祖先は編み出してきた。即ちあの闘技場そのものがその封印を強める為の魔導器そのものなのだ――そして今回も同様に武術大会で発散したエネルギーを魔力へと変換する筈だったが、予想外の事態が起きた」

「アリシアか……」

「私がアリシアの存在に気付いたのは今より十数年前――エルトルージェ、君がまだ赤ん坊の頃だ」

「ア、アタシが……?」


 バーグの言葉にエルトルージェが狼狽する。


「赤子であった君は当然覚えがないだろう。しかしある日の夜君を攫いにアリシアが現れた。幸いゴウトが追い払い事なきを得た……致命傷を与え崖の上から落ちたと言っていたが、どうやら我々の想像以上にアリシアは凄まじい生命力の持ち主らしい」

「ど、どうしてアタシが攫われる必要があったのよ!? そのアリシアって言うのは何者なの!?」

「……フェンリル」


 アリシアが残した謎の単語が脳裏に過ぎる。

 アリシアはこの世界へと招いた張本人。それを実行する為にエルトルージェ……厳密に言えば彼女の持つ魔力が必要だったと彼女は口にしていた。

 赤子の時にエルトルージェを誘拐しようとしたのは、下手に力を付けられる内に攫おうとしていたに違いない。そしてこの世界と地球との時間の流れが同じであったとすれば、当時十歳にもなっていない子供。

 今のように異能や魔法も使えなければ、剣術の腕前も未熟。そんな成熟していない幼き自分があの世界へと招かれアリシアに殺されなかったのも、全てゴウトがいてくれたからこそと言っても過言ではない。

 人生とは本当に何が起きるのか、起きようとするのかわからない。だからこそ楽しく、恐ろしい。

 ベッドの上で眠るゴウトに龍彦は感謝の気持ちを込めて小さく頭を下げた。

 ふと、一つだけ鋭く突き刺さる視線に気付き、龍彦は思考を中断させ顔を向ける。困惑と恐怖の二つの感情を宿した瞳を向けているのは、エルトルージェだった。


「……どうして? どうしてアンタが……それを……?」

「エルトルージェ?」

「ッ!」


 病室から逃げ出すように出て行ったエルトルージェを龍彦は追い掛けるが、それをレオが阻止するように立ちはだかる。


「どけレオ! 邪魔をするな!」

「今は彼女の事を気に掛けている場合ではない!」

「あんな様子を見て放っておけって言うのか!? 俺はどけって言ってるんだ!」

「ま、待つんじゃお若い剣士よ……」


 レオを押し退けエルトルージェを探しに病室を飛び出そうとするのを制止した声に龍彦は振り返る。治療を終えて気を失っていたゴウトが、ゆっくりと身体を起こそうとしている。

 心友であるバーグは駆け寄り優しく彼の身体を支えた。


「おぉ、目を覚ましたのだな心友よ!」

「心配を掛けてすまなかったのぉ心友よ、ワシならもう大丈夫じゃ……――お若い剣士よ、お前さんはあの子を……エルトルージェを追いかけるつもりか?」

「えぇ、そうです」


 真剣な眼差しを向けてくるゴウト。たった一人の大切な孫娘を案ずる優しい想いと、その孫娘に相応しい相手かどうか見定めるような威圧感が込められている。

 鋭い牙を剥き出し今にも相手の喉笛に食らいつかんとするその闘気は誇り高き老狼、生きる伝説と言う異名に相応しい。

 龍彦は目を逸らさず、ゴウトの目を見つめ返した。

 暫くして、ふといつもの温厚な顔を浮かべると静かに語り始める。


「……銀狼種フェンリルとは我ら人狼ウェアウルフ族にとっては禁忌なんじゃよ。あの子は不運にも忌子としてこの世に生まれた……幼いエルトルージェは両親の顔も知らず、忌子であるが故に誰からも愛されず、孤独で悲しい日々を過ごしてきた」

「両親の顔を知らないって……それって」

「……じゃがお前さんと過ごす中で見せたあの子の笑顔は、ワシが見た中で一番輝いていた」

「…………」

「お前さんならば……この世界を救いエルトルージェを幸せにしてくれる。老いぼれのワシの目はまだ濁っていないとわかり安心したわい」

「俺が……この世界を救う?」

「……我が祖先はこの様な碑文を残している――“深淵の闇に眠りし者が永き眠りより目覚めし時、異界より現れし光と闇を司る者現れこれを滅さん”……と。我が祖先はいつの日かカオスが蘇る事を予見していたのだろう、しかし必ずその存在を討ち滅ぼしてくれる勇者の存在に希望を託した……その勇者が、君だタツヒコくん」

「お、俺が勇者!?」


 龍彦は狼狽しながらバーグに尋ね返した。

 勇者……それは男ならば誰しもが一度は憧れる職業の一つであり、あらゆる困難に対し己が武勇を以って挑む者を事を差す。

 そして薔薇色の人生を手に入れられるチャンスが巡ってくる職業でもあると、龍彦は認識していた。

 勇者として選ばれた主人公が魔王に攫われた姫を助け出し世界の平和を守る為に広大なフィールドを移動し、モンスターを倒し経験値とお金を貯めて装備を強化しラスボスに挑み討伐する――ファンタジーを題材とした創作物の中で古くから使われている、俗に言う王道的シチュエーションは決まって物語の最後で主人公が何かしら大出世を遂げているよう作られている。

 下級市民であった人間が魔王を討伐し姫を救出した功績を称えられそのまま婿入りし王国を継承し国王としての座に着く事も、勇者ならば可能であるのだ。

 そんな勇者に選ばれていたと聞かされて、驚かない方が無理と言うものである。


「いやいやいやいや、俺が勇者って……そんな柄じゃないですよ。何かの間違いなんじゃないですか?」

「いいや、君は我が祖先の碑文に記されている勇者で間違いない。君も碑文の意味を理解している筈だ。人としての魔力、そして己の中にカオスの魔力が宿っているのだから」

「……気付いてたんですか?」

「君から発せられる異質な魔力を感じ取れば、直ぐにわかる」

「す、すいません国王。タツヒコさんにカオスの魔力が宿っていると言うのは、どう言う事なのでしょうか!?」


 今まで口を閉ざしていたカエデがゴウトに尋ねた。

 バーグに代わって龍彦はカエデの質問に答える。


「……俺も本当にさっき知ったばっかりなんだけど、アリシア曰く俺にはカオスが持つ三つの魔力の内の一つが俺の身体の中にあるらしい。破壊、再生、そして俺の中に宿っている支配……そしてどう言う訳かこの支配の魔力は動物や亜人達に強く影響する魅了チャームの効果を勝手に発揮するようになってる――だからその……本当に悪いとしか言い様がない」


 龍彦はカエデ、カルナーザ、ライラに頭を下げた。

 エルトルージェ達にいつか告げなくてはならないと思っていた真実。

 本心からではなく魅了チャームされていたから惚れていた。これを聞いて彼女達はどう思うだろう。魅了チャームされているからと許すのか、それとも自然に誘導されていた怒りが勝り罵り暴力を振るってくるだろうか。

 彼女達の事だ。きっと許すだろう。それでも本来なら好きでもない男に好意を無理矢理抱かされたのも同じ。だから謝らなくてはならないのだ。

 困惑の色を隠せていない彼女達へ謝罪を終えて、龍彦は頭を上げると踵を返す。


「……行くのか」

「……はい」


 ゴウトに背を向けたまま龍彦は言葉を返す。


「……孫娘の事を、よろしく頼みますぞ“婿殿”」

「……はい!」


 最愛の女性との結婚を認められた喜びを胸に龍彦は病室を飛び出す。


「何処に行ったんだよエルトルージェ……!」


 アクシデントが発生したとして観客達は席から離れないようにと呼び掛けるパームに従う観客達のどよめきに包まれる闘技場内を見て回る。

 全ての控え室を覗き、駄目とわかっていながら選手専用の女子トイレも調べたがそこにエルトルージェの姿はない。

 ならば彼女は外へと出たに違いない。闘技場を出て、露天を畳んでいた男に龍彦は尋ねる。


「あ、すいません! こっちにエルトルージェが来ませんでした!? 人狼ウェアウルフ族で銀髪に赤い瞳の……!」

「それならさっき噴水広場の方に走っていったよ。泣きながら走っていったけど、何かあったのかなぁ」

「有難うございます!」


 教えてもらった情報に従い龍彦は縮地を用い噴水広場へと急行した。




◆◇◆◇◆◇◆




 全ての住民及び来訪者達が闘技場に集まっている中、城下町はしんと静まり返っている。その噴水広場に設けられたベンチに腰を下ろすエルトルージェは、広大な青の中に心地良い風に流されていく雲をぼんやりと眺める。


「……タツヒコ」


 脳裏に浮かぶ想いを寄せている男の笑顔。

 スカアハの館にて間接的とは言え命を狙った相手を不殺の力で鎮圧し、それだけでなく許す優しく寛大な心の持ち主。

 彼の口から放たれる言葉は耳にするだけで心が落ち着き、顔を見るだけで気恥ずかしさが込み上がり、顔が異常なまでに熱くなる。

 無論決して悪い気はせず、エルトルージェにとっては大変心地良いものだった。

 今まで数多くの男達を見てきた。その中で特に何の感情を抱く事もなかった。

 しかし龍彦との出会いが、新たな感情を心の中に芽生えさせた。

 最初こそ今までに現れなかった感情にエルトルージェは戸惑い、気恥ずかしさを隠す為に強く龍彦に対して攻撃的な態度を取り続けてきた。

 だが共に旅をし、言葉を交え、時間を共有していく中で不明な感情の正体が恋心であるとエルトルージェは理解する。

 龍彦が好きだ。そう自覚しながらも照れ臭くつっけんどんな態度を取っても嫌な顔一つ見せず、それどころか一目惚れしたと堂々と告げる彼に心は次第に惹かれ、同時に失う恐怖にエルトルージェは怯えていた。


「……知られちゃったな」


 一番恐れていた出生の秘密。異世界の人間だから知り得ないと言う安心と、いつ何かの拍子に知られて軽蔑されるかもしれないと言う不安にエルトルージェは苛まれていた。

 その不安は、今はもうない。

 何かの拍子で龍彦は銀狼種フェンリルを知ってしまった。

 それがカルナーザのように気の許せる好敵手ゆうじんや、どうでもいい輩であったのなら気にする事はない。罵ってくればいつものように問答無用で殴り飛ばす――しかし今回は龍彦と言う想い人だ。好意を寄せている相手が知ったと言う衝撃から久しく忘れていた傷が疼き、連鎖するように脳裏にトラウマが爆発的に蘇った。

 大人達からは冷ややかな目を向けられ近付けば逃げるように去っていった。

 同年代の子供達からは化物、厄災と罵られ石を投げられた。

 誰一人同族として、亜人として見てくれる輩はいなかった。

 幼少期より向けられ続けた化物を見るような冷たい眼差し……龍彦が向けた目は案じてくれている優しい目をしていたにも関わらず、拒絶される事を恐れたエルトルージェは救護室から逃げ出した。


「……アタシ、何やってんだろ……」

「あの男と一緒ではないのか」


 その声はエルトルージェにとって探していた相手であった。

 俯かせていた顔を上げれば、視界の先に例の亜人……アリシアが佇んでいる。


「アンタ……!」

「随分と落ち込んでいるようだな、誇り高き老狼の孫娘」

「アンタには関係のない事よ――それよりようやく出会えたわね。アンタに負けて操られてた借りをずっと返したいって思ってたのよ」

「あの男が一緒ならば兎も角、お前一人で僕に勝つだと? 一度無様に負けたお前が?」

「うっさいわね! 前回みたいになると思ったら大間違いだし、それに今はアイツの事は関係ないでしょ!」

「ほぉ……そんなにもあの男に銀狼種フェンリルと言う秘密を知られてしまった事を気にしているのか」


 アリシアの言葉に、頭を殴られたような衝撃が全身を駆け巡る。

 己の中に敵意でも怒気でもなく、生まれて初めて殺意が沸々と湧き上がるのを感じながらエルトルージェは呟くように尋ねる。


「……アンタ、なの?」


 アリシアは答えない。代わりにその口元を小さく歪める。

 不敵な笑みが意味しているもの、それは肯定であった。

 次の瞬間、エルトルージェは地を強く蹴り上げた。

 旅を続ける中で偶然立ち寄った村で行われていた結婚式で綺麗なウエディングドレスを纏う花嫁や我が子の手を引き歩く母親に、いつか彼女達のように自分の事を心から愛してくれる男性と出会い幸せな家庭を築きあげたいと……銀狼種フェンリルである以上叶いもしない、しかし諦めきれない気持ちを抱きながらエルトルージェは羨望の眼差しで眺めていた。

 そんな叶わぬと思っていた願いが叶うかもしれない……微かな生まれた希望が、無情にも剥奪された。

 この女が龍彦に銀狼種フェンリルである事を教えた。全てを奪っていった。

 この女さえいなければ……、エルトルージェの憤怒の慟哭が城下町に響き渡る。

 全ての元凶たる目の前の敵に湧き上がっていた殺意が限界を超えて爆発し、それに反応して身体が自然と動く。武術家として戦いを挑むのではなく、一人の亜人として殺す為に彼女はその凶爪をアリシアに目掛け振るう。


「アンタがっ! アンタがっ! よくも……よくも!!」

「あの男に銀狼種フェンリルである事を知られなくなかったのか。お前は余程あの男に惚れているらしい」

「うるさい! 黙れ、黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 アリシアを殺す、ただそれだけに身体を動かす。しかし負の感情に心支配されているエルトルージェの動きは武術とは程遠い。相手の隙を伺う読み合いや確実にダメージを与える技もない、謂わば本能に身を任せた戦い方だ。

 攻撃も力任せの大振り、型も乱れ滅茶苦茶な動きである攻撃をどれだけ繰り出そうともアリシアには当たらない。ただ虚空ばかりを振るった爪が切り裂く。


「無様だなエルトルージェ・ヴォーダン」

「がはっ!」


 鋭い拳が鳩尾に突き刺さる。

 咄嗟に飛び退いた事でダメージを軽減こそしたものの、それでも打たれ弱い人狼ウェアウルフ族であるエルトルージェからすれば重い一撃である事には変わらず――そのまま吹き飛ばされ座っていたベンチへと背中から叩き付けられた。


「が……は、あぁ……!」

「僕にとってお前はもう用済み。本当ならもっと早い段階であの男を始末しようとしていたんだけど、決勝まで進出した予想以上の強さに予定を早めることになってしまった――お前と言う存在がいる以上、あの男が元の世界に帰れる可能性も考えられる。だからその可能性を完全に抹消する為に……お前はここで死んでもらう」


 右手から黒炎が燃え上がる。それはまるで意思を持っているかの如く独りでに形状を変え、黒炎が消えると同時に大鎌へと生まれ変わった。柄から刃、全てが漆黒の染め上げられた得物を手にゆっくりとアリシアが近付いてくる。


(アタシ……死んじゃうのかな?)


 痛む身体を動かそうと努力こそしているが、肝心の身体がそれに応じようとしない。辛うじて立ち上がれたとしても満足に戦える事もこの場から逃げられる状態ではない。そのままアリシアの大鎌に切り裂かれる結末は、現状からどうあがいても覆す事は不可能である。

 そうしている内に、遂にアリシアが眼前で歩みを止めた。見上げれば切先を心臓に狙いを定めている大鎌が天へと掲げられている。


「……死ぬがいい、エルトルージェ。恨むのならあの男が生きている事を恨むがいい」


 武術家として命を落とす事にエルトルージェは後悔などしていなかった。修行の旅の途中で魔物に襲われようと、試合の中で不慮の事故が起きようとも、そこで命を落とせば所詮はそれだけの存在であったと納得して死ねる覚悟が――葉桐龍彦と言う男と出会う前までは確かにあった。


(……助けてよ、タツヒコ……!)


 生への執着、死への抗い。

 生まれて初めて心の底から生きたいと、エルトルージェは悲願する。


「永久の眠りに就け……銀狼種フェンリルの少女よ!」


 そんな悲願も虚しく凶刃が無慈悲にも振り下ろされようとした、その時。


「させるか!」


 漆黒の大鎌の刃を、別の刃が飛燕の速さで止めた。


「……やはり来たか」

「アリシア……お前エルトルージェに何をするつもりだったんだ?」

「あ……」


 龍彦の後ろ姿に、エルトルージェは目を見開く。彼に重なるドラゴンに模した鎧兜を纏った騎士、それは彼女にとって見覚えのあるものであった。

 魔王に攫われた姫を颯爽と助ける騎士の物語が綴られた絵本を目にしては、姫を自分に当て嵌めて物語を膨らませていた幼き頃。

 絵本に出てくるような運命の出会いに憧れ、いつかお前にも必ず心から支えてくれる騎士が現れてくれると優しい目をした祖父の言葉に期待に胸を膨らませ、現実を直視し捨て去った。

 絵本は所詮書き手によって都合よくめでたく終わるように記された物語に過ぎない、現実では絵本のように颯爽と運命の騎士が現れて助けてくれるなど論外であると結論を下した。

 そんな捨てた筈の憧れが今、時を経て蘇る。

 葉桐龍彦こそがかつて抱いた憧れたであり、ゴウトの言う運命の騎士だったのだ。


「エルトルージェを二度も傷付けたんだ……当然覚悟は出来てるんだろうな!?」

「……タツヒコ……!」


 大鎌ごとアリシアを押し返す龍彦に、エルトルージェは歓喜の涙を静かに流した。

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