第002話 雲の上の土
鈴の音を聞いた気がして、目が覚めた。
耳を澄ますと、もう何も鳴っていなかった。
頬の下にあるのは、冷たく硬い石だった。ざらついた表面に細かな砂粒が浮いている。石と石の継ぎ目から短い草が伸びていて、その青い匂いが鼻の奥まで届いた。
奏汰は横向きに倒れたまま、しばらく瞬きを繰り返した。
視界の半分を、灰色の石畳が占めている。残りの半分は空だった。
青すぎる、と思った。六月の空はもっと白く霞んでいて、こんなふうに奥の奥まで透けてはいない。
腕をついて身体を起こしたとたん、右の手のひらに鋭い痛みが走った。皮が擦りむけて、砂粒がいくつもめりこんでいる。見ているうちに、赤いものがじわりとにじんできた。
痛い。
そんな当たり前のことを、奏汰はひどくゆっくりと理解した。
鞄は、一メートルほど先に転がっていた。肩紐がねじれ、口から筆箱の端がのぞいている。
這うようにして引き寄せ、中身を確かめた。教科書が三冊、ノート、筆箱、祖母の包んだ弁当。内ポケットには、「ボタンが取れたら困るから」と祖母が入れてくれた、名刺ほどの大きさの裁縫セット。何も失くなっていない。
足もとを見る。湿った靴の爪先で、新聞紙がかさりと鳴った。左の手首には、今朝祖母が結び直した組紐が巻かれたままだった。
それから、スマートフォン。
画面を点けた瞬間、奏汰は息を止めた。
十一時五十二分。
「……嘘だろ」
声がかすれた。
神社にいたのは、六時四十分を過ぎたころだ。五時間以上、ここで倒れていたことになる。
画面の右上には「圏外」の二文字が浮かんでいた。電池の残りは五十八パーセント。何度か電源ボタンを押し直してみても、表示は変わらなかった。
今ごろ学校では、四時間目が終わろうとしている。欠席の連絡は、誰もしていない。
担任が出席簿を見て首をかしげ、職員室から家に電話をかける。廊下の電話台のところで、祖母が受話器を耳に当てる――その姿が、見てもいないのにはっきりと浮かんだ。
胃のあたりが、ぎゅっと縮んだ。
奏汰は立ち上がった。
膝が少し笑った。それでも、立てないほどではない。
そこは、石畳を敷きつめた広い庭のような場所だった。
四方を、背丈の何倍もある塀が囲んでいる。下半分は黒い石を隙間なく積み上げた石垣で、その上に白い壁が載っていた。壁のあちこちに雨の筋が黒く垂れ、漆喰が剥がれて、下の土壁がのぞいている。
振り返って、奏汰は動けなくなった。
城があった。
塀の内側から、さらに高く石垣がせり上がり、その上に白い壁と、幾重にも重なった屋根がそびえている。深く張り出した軒。反り返った瓦の稜線。ところどころで瓦が抜け落ち、そこから草が生えていた。てっぺん近くの鬼瓦がひとつ、少し傾いている。
上のほうの窓のどれかで、ちかりと光がまたたいた。
鏡の中で見た城だった。
近くで見ると、それは絵のように整ったものではなかった。古くて、傷んでいて、ひどく大きい。それでも崩れ落ちてはいない。回廊の欄干は形を保ち、閉ざされた雨戸も、外れずに並んでいる。
「すみません」
声を出してみた。
思っていたよりずっと小さな声だった。人に向かって声を張ったのが、いつ以来なのか思い出せない。
声は白壁に当たって、少し遅れて戻ってきた。返事はない。
「すみません! 誰か――」
二度目も、同じだった。
代わりに聞こえたのは、風の音だけだ。塀の上を渡っていく、乾いた音。
車の音がしない。
それに気づいたとき、奏汰はもう一度空を見上げた。
電線がない。電柱も、遠くの鉄塔も、飛行機雲の一本さえない。どこまでも見上げられる空に、人の手でこしらえたものは、背後のこの城だけだった。
奏汰は、庭の中をゆっくりと歩いた。
自分が倒れていたあたりを、何度も見て回った。鏡はなかった。丸い縁も、緑青の欠片も、何ひとつ落ちていない。
石畳の上には、二本の筋が浅く刻まれていた。長いあいだ同じところを車輪が通って、石がすり減ったのだ。筋をたどった先の塀際に、荷車が一台、半ば草に埋もれて傾いていた。片方の車輪は腐って崩れ、荷台の板の隙間から、細い木が一本伸びている。
その向こうには、石組みの井戸があった。滑車は錆びつき、釣瓶の縄は途中で切れている。井戸の脇には物干しの竿受けが二本立っていて、竿のほうは地面に落ちたまま苔に覆われていた。
ここには、人がいたのだ。
荷車を引いて、水を汲んで、洗い物を干していた誰かが。
今は、いない。
庭の奥、城へ向かう側には、内側へ通じる門がもうひとつあった。そちらは扉が固く閉ざされ、門の下の暗がりがやけに濃く見えた。
反対側の端には、もっと大きな門があった。
奏汰は、そちらへ歩き出した。
近づくにつれて、門の大きさが分かってきた。
二階建ての家ほどもある門だった。太い柱の上に屋根を載せ、さらにその上に見張りのための部屋がある。分厚い木の扉は鉄の帯で締められていたが、片方は蝶番が外れて斜めに傾き、もう片方は半分ほど開いたまま、地面に食いこんで止まっていた。
門の上に、古い扁額が掲げられていた。
金箔はほとんど剥げ落ち、木目に沿ってひびが入っている。奏汰は目を細めて、かすれた文字を読んだ。
「……天、鏡」
三つめの字は、風雨に削られてもう読めなかった。
てんきょう、と口の中で繰り返してみる。聞いたことのない言葉だった。
開いた扉の向こうに、石の道が続いていた。
急な下り坂だ。道は数十歩先で白いものの中へ沈み、そこから先は見えない。霧のように見えたが、霧よりもずっと厚く、まぶしい。
門の真上には、太い注連縄が渡されていた。藁はほつれて黒ずみ、垂れ下がった紙垂は茶色く変色して、半分ほどが千切れている。
その注連縄の下、門の内と外を分ける敷居の上だけ、空気が揺れていた。
夏の道路に立つ陽炎のように、向こうの景色がゆらゆらと歪んでいる。けれど暑くはない。むしろ、そこから冷気が流れ出していた。
奏汰は敷居の手前で足を止めた。
歯の奥で、何かが細かく鳴っている気がした。耳鳴りとは違う。もっと低い、骨に響くような唸りだった。
ここから出れば、どこかへ行ける。
人のいるところへ。電話の通じるところへ。祖母のいるところへ。
奏汰は左手を伸ばした。
指先が揺らぎに触れた瞬間、ばちん、と音がした。
手を叩き落とされた、と思った。指先から肘まで、凍った鉄を握らされたような冷たさが一気に駆け上がる。奏汰は声も出せずに腕を抱え、二、三歩よろめいた。
頭上で、紙垂がいっせいにはためいた。風は吹いていない。
手を見る。傷はない。けれど、指先の感覚がしばらく戻らなかった。
奏汰は唇を噛んだ。
もう一度、今度は肩から踏みこんだ。
身体ごと、押し返された。
見えない壁に体当たりしたのではない。押し返されたのだ。冷たい手のひらで胸を突かれたように、足が地面を離れ、奏汰は背中から石畳に落ちた。鞄が脇腹に食いこみ、肺の空気が一度に抜けた。
しばらく、息ができなかった。
仰向けのまま、奏汰は門を見上げた。
揺らぎは、落ち着きなく明滅していた。よく見ると、ところどころに細いひびのような線が走っている。張りつめた氷の表面に入る亀裂に似ていた。その線が、ちらちらと光ったり消えたりを繰り返している。
壊れかけている。
なのに、通れない。
身体を起こそうとして、手をついた。
ついた先は石畳ではなかった。石と石の継ぎ目が広く開いた場所で、指が柔らかいものの中へ沈んだ。
土だった。
黒く湿った、冷たい土。草の細い根が絡み、小さな石が混じっている。握ると指のあいだから少しこぼれ、爪の中に入りこんだ。
奏汰は、その土をじっと見つめた。
夢なら、こんなに冷たくないはずだった。こんなに重くも、湿ってもいないはずだった。
雲の上にも、土がある。
その事実のほうが、城を見たときよりもずっと、ここが本当にある場所なのだと奏汰に教えた。
*
門の脇から、塀の上へ上がる石段が続いていた。
一段ずつ、手をつきながら上った。上りきると、塀の上は人がひとり歩けるほどの通路になっていて、外側に低い胸壁が巡らされていた。
奏汰は胸壁に手をかけて、外を見た。
足もとから、真っ白な海が広がっていた。
雲だった。見渡すかぎり、雲が平らに敷きつめられている。陽の光を受けてまぶしく光り、ところどころで盛り上がっては、ゆっくりと形を変えていた。城の石垣は、その雲の海から突き出た岩の上に築かれているのだ。塀の真下は切り立った崖で、どこまで続いているのか、底は雲に隠れて見えない。
奏汰は塀の上を、端から端まで歩いた。
どこも同じだった。崖と、雲。あの門と、その先の下り坂以外に、外へ続く道はない。
校舎の屋上も、家の瓦屋根も、神社の杉の梢も、どこにもない。それどころか、見覚えのあるものが何ひとつなかった。
門の真上まで戻ってきたとき、雲が動いた。
風に押されたのか、下り坂の先の白いかたまりがほどけ、細い裂け目がひらいた。
その向こう、ずっと下のほうに、緑色が見えた。
谷だった。山の斜面に、田んぼが階段のように何段も重なっている。そのあいだを細い川が光りながら流れ、川べりに、いくつか屋根が寄り集まっていた。屋根の上から、白い煙が糸のように立ちのぼっている。
誰かが、火を焚いている。
奏汰は胸壁から身を乗り出した。けれど、それは呼べば届くような距離ではなかった。屋根は米粒ほどにしか見えず、そこへ行く道は、あの通れない門の向こうにしかない。
見ているうちに、雲の裂け目はゆっくりと閉じていった。
*
塀を下りて、奏汰は門の内側の日陰に座りこんだ。
ほかに、することが思いつかなかった。
腹が鳴った。こんなときに、と思ったが、身体は勝手に空腹を訴えつづける。朝食から、もう六時間近く経っていた。
鞄から弁当を取り出す。
祖母の結んだ包みの結び目は、固くて、きれいだった。それをほどくのに、少し時間がかかった。
蓋を開ける。白いご飯の真ん中に梅干しがひとつ。卵焼きが二切れと、ほうれん草のおひたし。それから、隅に寄り添うように、いなり寿司がふたつ並んでいた。
ゆうべの残りだ。今朝、社の前に供えてきた油揚げと、同じ鍋で煮たものだった。
ひとつを口に入れる。
甘辛い汁が、噛むたびにじゅわりと染み出してくる。いつもの味だった。いつもと寸分違わない、祖母の味だった。
喉の奥が詰まって、うまく飲みこめなかった。
奏汰はゆっくりと、時間をかけて噛んだ。ご飯を半分と卵焼きをひとつ食べたところで、箸を止めた。
いつまでここにいることになるのか、分からない。
蓋を閉め、包みを結び直した。祖母のようにはいかず、結び目は不格好に歪んだ。
門の陰から、庭を眺めた。
陽が少しずつ傾き、城の影が石畳の上をこちらへ伸びてくる。
自分は、死んだのだろうか。
奏汰はその考えを、さっきから何度も押し戻していた。押し戻しても、また浮かんでくる。
鏡に触れて、光に包まれて、気がついたら知らない場所にいた。人のいない城。雲の上。どこにも続かない門。死んだ人間が行く場所の話を、奏汰はほとんど知らない。両親の葬儀のとき、火葬場の煙突から上っていく白い煙を見ていたことくらいしか、覚えていない。
死んでも、手のひらは擦りむけるのだろうか。腹は減るのだろうか。
分からなかった。分からないことが、何よりも怖かった。
帰りに、豆腐屋さんに寄れたら。
ふいに、今朝の祖母の声が耳の奥でした。
木綿ひとつ。売り切れてたら、いいから。
豆腐、買ってない。
そう思ったとたん、奏汰は膝を抱えて顔を伏せた。笑いたいのか泣きたいのか、自分でも分からなかった。
*
顔を上げたのは、寒さのせいだった。
いつのまにか、門の陰が庭の半ばまで伸びていた。風が冷たくなっている。
石畳の上には、いくつもの影が落ちていた。塀の影、門の影、傾いた荷車の影。どれも陽とは反対の方角へ、同じように細長く伸びている。
その中に、ひとつだけ、違う向きに動くものがあった。
城へ続く内側の門。その下の濃い暗がりから、影がひとつ、石畳の上へ滲み出してきた。
何かの影ではなかった。影を落とすものが、そこにはない。影そのものが、こぼれた墨のように石の上を這ってくる。
奏汰は息を詰めた。
影は庭の真ん中あたりで止まり、それから、ゆっくりと膨らんだ。
平たかったものが、地面から起き上がる。四本の脚。低く構えた首。大きな犬に似ていたが、犬よりもずっと大きい。輪郭は煙のように絶えず揺らいでいて、どこからが身体なのか分からない。
頭のあたりに、赤い点がいくつか灯った。
目だ、と分かった。
ぐるる、と低い音がした。
唸り声だった。耳で聞くよりも先に、足もとの石を伝って腹の底に響いてくる。湿った灰のような匂いが、風に乗って流れてきた。
奏汰は立ち上がり、後ずさった。
踵が、何か硬いものに当たった。門の敷居だった。背中のすぐ後ろで、あの揺らぎが低く唸っている。
前には影。後ろには、通れない門。
逃げる場所が、どこにもなかった。
膝が震えた。止めようとしても止まらなかった。
影がもう一歩、近づく。赤い光が、まっすぐにこちらを見ている。
ここが死んだあとの場所なら、あれは何なのだろう。死んだ人間を迎えに来るものなのか。それとも――。
奏汰は唇を開いた。
助けて。
その一言を、奏汰はこれまで一度も口にしたことがなかった。
水飲み場の流しに沈んだ靴を拾い上げたときも。机の中のものが全部ゴミ箱に捨てられていた朝も。担任に「何か困ってることはないか」と聞かれたときも。渡り廊下で、悠斗が顔を背けたときも。
言えば、何かが終わってしまう気がしていた。自分がそういう人間なのだと、認めてしまう気がしていた。
祖母にさえ、言えなかった。
今、ここには誰もいない。
聞いてくれる人は、どこにもいない。
それでも、言葉は喉の奥に石のように詰まって、出てこようとしなかった。
影が身を低くした。跳ぶ前の獣の構えだった。
「……た」
声とも息ともつかない音が、唇から漏れた。
「たす、け――」
その時だった。
光が走った。
頭上から、金色の線が一筋、斜めに振り下ろされた。それは奏汰と影のあいだの石畳を叩き、甲高い音を立てて弾けた。熱い風が顔を打つ。焦げた匂いがした。光の当たった石が、炭火のように赤く光っている。
影が、悲鳴に似た声を上げて飛び退さった。輪郭が大きく乱れ、そのまま石垣の根もとの暗がりへと流れこんでいく。
奏汰は呆然と、光の来たほうを見上げた。
塀の上に、誰かが立っていた。
傾いた陽を背にしているせいで、顔は見えない。ただ、長い髪が風になびいているのが分かった。白とも金ともつかない色の髪だった。薄い桃色の布が、その肩から帯のようにひるがえっている。
塀の上の誰かは、まだ何も言わない。
奏汰も、何も言えなかった。
さっき途切れた言葉の続きが、まだ喉の奥に引っかかったままだった。
(第002話 了)




