第001話 祈る理由
靴に詰めた新聞紙は、朝になってもまだ湿っていた。
天野奏汰は玄関の上がり框に腰を下ろし、丸めた紙をひとつずつ引き抜いた。インクの移った灰色の塊は指先に冷たく、溜め池のようなにおいがかすかにした。中敷きを親指で押すと、じわりと水が浮いてくる。
替えの靴はない。中学のころの運動靴は、去年の冬に底が割れて捨ててしまった。
奏汰は新しい新聞紙を二枚ちぎって、両方の爪先に押しこんだ。学校に着くころには、少しはましになっているはずだった。
台所から、菜箸が鍋の縁を叩く音がした。
とん、とん、と二度。それから換気扇の低い唸り。毎朝、同じ順番で聞こえてくる音だ。
「おはよう」
「はい、おはよう。もうできるから、座ってな」
祖母の澄江は背中を向けたまま言った。白髪をうしろでひとつにまとめ、割烹着の紐をきっちりと蝶結びにしている。
小さな背中だ、と奏汰は思った。いつからそう思うようになったのかは、覚えていない。
四人掛けの食卓に、椅子は二脚しか出ていない。残りの二脚は、奏汰がこの家に来た年から、ずっと壁際に寄せられたままだ。
ご飯と、卵焼きが二切れと、絹さやの浮いた味噌汁。絹さやは裏の畑で採れたものだった。五月の終わりから六月にかけて、祖母は毎朝いちばんに笊を抱えて庭へ回る。今朝も勝手口の三和土に、土のついたサンダルが脱いであった。
「いただきます」
味噌汁をひと口すすると、喉の奥がゆるんだ。出汁と味噌の加減は、物心ついたころから少しも変わらない。
「靴、まだ乾かないかい」
箸が止まった。
「……うん。でも、学校着くころには平気だと思う」
「昨日、どこで濡らしたんだっけ」
「水たまり。踏んだ」
「そうかい」
祖母はそれだけ言って、急須に湯を注いだ。湯気が立ちのぼり、窓から差しこむ朝の光を白く曇らせる。
昨日は一日中晴れていた。夕方、祖母が乾ききった畑に如雨露で水を撒いていたのを、奏汰は二階の窓から見ている。
祖母がそれを知らないはずはなかった。
食べ終えた茶碗を流しへ運ぶと、祖母が小さな包みを差し出した。
「はい、今日の分」
半紙を四角く折りたたんだ、手のひらに載るほどの包みだ。中身は聞かなくても分かる。夕べ、いなり寿司をこしらえたときに一枚だけ余った油揚げだ。甘辛く煮含めたそれを、祖母は小皿に取りのけて冷蔵庫にしまっていた。
「お稲荷さんには、やっぱりこれだろうからね」
祖母は少し得意そうに言い、包みの角を指でもう一度押さえた。
毎朝、祖母は何かしらを持たせてくれる。ひとつまみの米のこともあれば、畑の苺ひと粒、到来物の干菓子ひとかけのこともある。どれも手のひらに収まるくらいの、ささやかなものばかりだ。それを十一年、雨の日も雪の日も続けてきた。
「それから、手」
「手?」
「左手。出してごらん」
言われるまま左手を差し出すと、祖母は奏汰の手首を取った。
そこには、藍と生成りの糸を撚りあわせた細い組紐が巻かれている。いつのまにか結び目が緩んで、輪がひとまわり大きくなっていた。
祖母は一度それをほどき、乾いた指先で糸の撚れを整えてから、結び直した。右からくぐらせて輪をつくり、そこへもう一度糸を戻して、最後にきゅっと小さく締める。
奏汰は何度その手つきを見ても、同じように結べたためしがない。糸そのものは何度か替わった。けれど結び方だけは、この家に来た日から一度も変わっていなかった。ほどけかけるたびに、奏汰は祖母のところへ手首を持っていく。
「よし」
祖母は結び目を親指でひと撫でして、手を離した。
弁当の包みを鞄にしまい、玄関で湿った靴に足を入れていると、背中に声がかかった。
「奏汰」
振り返ると、祖母は廊下の途中に立って、割烹着の裾で手を拭いていた。
「優しいことと、我慢することは違うんだからね」
奏汰は自分の足もとを見下ろした。爪先に新聞紙の詰まった、ひと回り窮屈な靴。
何か言わなければと思った。けれど、言えることは何ひとつ見つからなかった。
「……行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。帰りに豆腐屋さんに寄れたら、木綿ひとつね。売り切れてたら、いいから」
「うん」
引き戸を閉めるとき、磨りガラスの向こうで、祖母がまだそこに立っているのが見えた。
*
六月に入ってから、朝の空気はいつも水を含んでいる。
坂をひとつ下りて川沿いの道に出ると、新聞配達のバイクが低い音を立てて上ってきた。すれ違いざま、ヘルメットの男が会釈する。奏汰も小さく頭を下げた。
名前も知らない人だ。それでも毎朝同じ時刻に、同じ電柱のあたりですれ違う。向こうもたぶん、奏汰の顔くらいは覚えている。
神社に寄ったあとは、そのまま学校へ向かう。始業のずっと前に着いてしまうけれど、誰もいない教室のほうが、奏汰には息がしやすかった。
神社は、町はずれの小高い丘の中腹にあった。
色の褪せた鳥居をくぐると、石段がまっすぐ上へ伸びている。六十二段。もう数えなくても、足のほうが覚えていた。
両側の杉が枝を張り出しているせいで、段の上はいつも薄暗い。夜露が敷石の継ぎ目に溜まり、苔が濃い緑に光っていた。一段上るたびに、爪先の新聞紙がかさりと鳴った。
上りきったところで、奏汰は鳥居に向き直って一礼した。
社務所の雨戸はまだ閉まっている。軒下に竹箒が一本立てかけてあり、穂先に杉の葉が絡んでいた。宮司の藤森さんが境内を掃きはじめるのは、毎朝七時を過ぎてからだ。奏汰がここにいるのは、いつもそれより少し前の時間だった。
手水舎の柄杓で手を清める。六月の水はまだ冷たくて、指の関節がじんとした。
拝殿の前に立ち、五円玉を一枚、賽銭箱に落とす。鈴緒を軽く揺らすと、頭上でがらん、と乾いた音がした。
奏汰はこの鈴を、あまり強く鳴らさない。朝の境内に響かせるには、少し大きすぎる音だと思うからだ。
二礼、二拍手。手を合わせたまま目を閉じ、それから一礼。
そこまで済ませると、奏汰は拝殿の右手へ回った。
杉の古木の根もとに、膝ほどの高さの小さな社がある。朱の剥げかけた鳥居と、その両脇に苔をまとった石の狐が一対。右の狐は、左の耳の先が少し欠けている。
「大きい神様にご挨拶したら、お使いの方にもね」
初めてここへ来た朝、祖母はそう言って、奏汰の手をこの社の前まで引いてきた。
社の前の平たい石の上に、半紙の包みをそっと置く。
昨日の包みは、もうなかった。
いつもそうだ。翌朝に来ると、包みは半紙ごと消えている。藤森さんが片づけてくれるのか、烏か狸が持っていくのか。一度だけ尋ねてみたことがあったが、宮司は目尻の皺を深くして「さあ、どうだろうねえ」と笑うばかりだった。
奏汰は社の前にしゃがみ、手を合わせて目を閉じた。
何も願わない。
それが、いつのまにか奏汰の祈り方になっていた。
六歳の春、両親の葬儀が済んで間もないころは違った。
お父さんとお母さんを返してください。
毎朝、同じことを頼んだ。石段は六歳の脚には高すぎて、祖母に手を引かれ、半分は抱えられるようにして上った。それでも一日も休まずに通い、同じことを頼みつづけた。
ひと月ほど経ったある朝、帰り道で奏汰は尋ねた。
――神様、聞こえてないの?
祖母は足を止め、少し考えてから答えた。
――聞こえてるよ。でもね、聞こえていても、どうにもできないことはあるんだよ。神様にもね。
責めるような言い方ではなかった。むしろ神様の肩を持つような口ぶりで、それが妙に可笑しかったのを覚えている。
その日から、奏汰は何かを頼むのをやめた。
やめても、通うことはやめなかった。
目を閉じると、音が近くなる。
杉の葉の擦れあう音。遠くの国道を走るトラックの響き。枝から枝へ移る小鳥の、短い羽音。
ここでは誰も、奏汰に何も尋ねない。顔を上げろとも、黙っていないで何か言えとも言わない。笑い声も聞こえない。
――天野、拾えよ。せっかく洗ってやったんだからさ。
閉じた瞼の裏に、昨日の放課後がにじんだ。
体育館脇の水飲み場。ステンレスの流しに水が張られ、その底に、下駄箱から消えた自分の靴が沈んでいた。蛇口は開けっぱなしで、溢れた水がコンクリートを黒く濡らしていた。藤崎大河が《ふじさきたいが》流しの縁に腰をかけ、取り巻きの何人かが笑っていた。
少し離れた渡り廊下に、久世悠斗がいた。小学生のころ、同じ通学路を並んで帰った悠斗は、奏汰と目が合う前に、すっと顔を背けた。
奏汰は黙って蛇口を閉め、水の中に手を入れて靴を拾い上げた。冷たい水が手首から肘まで伝い、組紐がぐっしょりと重くなった。
――優しいことと、我慢することは違うんだからね。
今朝の祖母の声が重なる。
自分がどちらなのか、奏汰には分からなかった。分からないまま、ずっと黙ってきた。
息をひとつ吐いて、目を開けようとしたときだった。
ちりん、と鈴が鳴った。
奏汰は顔を上げ、拝殿のほうを振り返った。太い鈴緒はまっすぐ垂れたまま、少しも揺れていない。それに、あの鈴はこんな澄んだ音ではない。風もなかった。杉の枝先さえ、止まっている。
音は、もっと低いところから聞こえた気がした。
正面に向き直って、奏汰は息を呑んだ。
小さな社の前、さっき包みを置いた平石の隣に、鏡が立っていた。
両腕でようやく抱えられるほどの、丸い鏡だった。縁は黒ずんだ金属で、ところどころ緑青を吹いている。台座も支えもないのに、縁を下にしてまっすぐ立っていた。
包みを置いたときには、何もなかった。それは間違いない。
鏡は、奏汰を映していなかった。
背後の杉も、朱の鳥居も、石の狐も映っていない。そこにあるのは空だった。下から陽を受けて白く輝く雲が、ゆっくりと鏡面を横切っていく。その雲の切れ間に、城が見えた。
黒い石垣が、雲の海から崖のようにそそり立っている。その上に白い壁が連なり、幾重にも重なった屋根が深い軒を張り出していた。どこかの窓に陽が当たったのか、ちかりと一点、鋭い光がまたたいた。
写真ではない。絵でもない。雲は流れ、石垣を這う影の位置が、見ているあいだにも少しずつ移っていく。
奏汰は立ち上がり、あたりを見回した。
誰もいない。石段の下にも、社務所の陰にも人の気配はなかった。ポケットからスマートフォンを取り出す。画面には六時四十四分と表示されていた。いつもと同じ朝の、いつもと同じ時刻だ。
誰かの悪ふざけだろうか、と一瞬思った。けれど大河たちが、こんな古びた神社にわざわざ足を運ぶとは思えない。こんな手の込んだことをする人間にも、心当たりはなかった。
ふと、子どものころに聞いた藤森さんの話を思い出した。
――この神社の御神体はね、鏡なんだよ。古い、古い鏡だ。
奏汰は拝殿の奥に目をやった。本殿の扉は、いつもと同じように固く閉ざされている。
鏡が、わずかに傾いた。
縁の下の敷石は夜露で濡れている。そこに乗った鏡が、ほんの少しずつ前へ滑りはじめていた。このまま倒れれば、手前の石段の角にまともにぶつかる。
割れる、と思った。
壊れかけたものを見ると、考えるより先に手が出る。
お父さんもそうだったよ、と祖母が言っていたことがある。
奏汰は左手を伸ばし、鏡の縁を支えようとした。
その瞬間、鏡がもう一段、こちらへ傾いた。
指先が触れたのは、縁ではなく鏡面だった。
冷たくなかった。
硝子の硬さもなかった。陽だまりに置いた盥の水面に触れたような、かすかなぬくもりと、指の腹を押し返すやわらかな手応えがあった。
触れたところから、輪がひとつ広がった。
ふたつ、みっつ。波紋が鏡面を渡るたび、映る城がゆらりと揺れる。
風が吹いた。
背後の杉からではない。鏡の向こう、城のある方角からだけ、まっすぐに吹きつけてくる。伸びた前髪が額から持ち上がった。乾いた草と、冷えた石と、名前の分からない花のにおいがした。
杉の葉擦れが遠のいていく。国道の響きも、小鳥の羽音も、厚い扉を一枚隔てたように急に小さくなった。
手を引こうとした。けれど腕は、自分のものではないみたいに動かなかった。
左の手首で、組紐がふっと温かくなった気がした。
鏡の中の光が、ふくらむ。
白い光が鏡面からあふれ出し、杉の幹を、石の狐を、朱の鳥居を、順に塗りつぶしていった。眩しさに目を閉じても、瞼の裏まで白かった。
その白さの中で、奏汰は祖母の声を聞いた。
今朝の声ではない。もっと昔の、初めてこの石段を上った朝の声だ。
乾いて温かい手が、小さな手を握っていた。
――神様に毎日お祈りしていれば、いつか必ず縁が生まれる。その縁が、あんたを守ってくれるんだよ。
――えにひって、なに?
六歳の奏汰は、そう聞き返した。
祖母は笑って、握った手に少しだけ力をこめた。
――そのうち、分かるよ。
縁。
その一語を最後に、音も光も、何もかもが遠くなった。
*
杉の梢で、雀が一羽鳴いた。
小さな社の前の平石には、半紙に包まれた油揚げがひとつ、置かれたままになっていた。その隣には何も立っていない。
乾きはじめた敷石の上に、湿った靴の跡がふたつ残っていた。爪先を社のほうへ向けたまま、どこへも続いていない。陽が杉の枝を抜けて差しこむにつれ、その跡も少しずつ薄れていった。
石段の下の道を、新聞配達のバイクが下っていく。
午前六時四十八分。
いつもなら奏汰が、帰りの石段を下りはじめる時刻だった。
(第001話 了)




