温かさと、残った傷
図書委員としての仕事は、高校生活二日目から始まった。
「これくらいなら、さっさと終わらせてすぐ帰れるな」
「とか言いつつ、葉月さんに全部任せて逃げないか心配だよ、俺は」
「これくらいの仕事量なら、私一人でもなんとかなるから……」
「甘やかしちゃダメだよ!?」
仕事の内容は、『図書館便り』を貼るための掲示物を作り、実際に掲示するというものだった。
部活に所属していない私は、放課後の時間に余裕がある。そのため、帰宅前に作業を済ませることにした。
図書委員の相方はというと、相変わらず眠そうで、そして面倒くさそうに隣にいた。けれど、実際に帰ろうとはしなかった。なんだかんだ言いながら、ちゃんと手を動かしている。
「てか、なんで文字を切り取らないといけないんだよ。こんなん、書いたら終わりじゃん」
「はいはい、文句言わない。そうやって指示されたんだから仕方ないだろ」
「櫻葉くんにもやってもらっちゃって、ごめんね。私たちの仕事なのに」
「この場にいるのに何もしないのって、なんか申し訳なく感じちゃうからさー。早く終わったほうがいいじゃん?」
「ありがとう」
「はー、葉月さんはいい子だよ。見習いなさいよ、蒼さん」
「あざーっす」
「雑!」
そんな漫才じみたやり取りを聞きながらの作業は、不思議と苦にならなかった。
中学時代とは、大違いだ。
私の世界は、ずっとモノクロだった。
一人で登校し、一人でご飯を食べ、一人で帰る。
ただ、それだけ。
周りの子たちはみんなおしゃれをして、キラキラして、楽しそうに盛り上がっていた。
地味な私とは、大違い。
明るい世界の中に、影がひとつだけぽつりと落ちている。
そんな存在が、目立たないわけがなかった。
提出する宿題ノートは、いつの間にか私の机に集められるようになっていた。
もちろん、それは私の仕事ではない。
本来なら、日替わりの係がやるはずの仕事だった。
それなのに、誰も何も言わなかった。
庇ってくれる人もいないまま、私は三年間を過ごした。
誰かの仕事は、私の仕事。
まるでそう決まっているかのように、毎日のように仕事が降りかかってきた。私はそのたびに、職員室へノートを届けていた。
先生も、何も言わなかった。
波風を立てたくなかったのかもしれない。
文句を言わない私には、何も言わないままだった。
だから高校は、少し遠いところを選んだ。
誰も私を知らない場所。
知らない人たちがいる場所。
まっさらなキャンバスの上で、学生生活をやり直したかった。
同じようなことが、もう起こらないように。
「あともう少しだね」
その声で、私は現実へ引き戻された。
「早く帰りてー。ゲームしてー」
「君は我慢するってことを覚えなさい。今日も授業中寝てたでしょ」
「ゲーム以上に楽しいものがないんだから、仕方ない」
「それでも高校生かっ」
「高校生でーす」
「生意気なガキだこと」
「俺がガキなら、お前もガキだな」
「同類にするな」
二人の話を横で聞いているうちに、掲示物はいつの間にか完成していた。出来栄えも、なかなか悪くない。あとはこれを、教室後ろの壁に貼るだけだ。
「どこに貼ろう」
「みんなが見えるところがいいよね。少し高い位置の方が見やすいかな」
「じゃあ、椅子取ってくるね」
「いい。俺がやる」
そう言って、水瀬は掲示物を手に取り、壁の方へ歩いていった。百七十センチくらいはありそうな彼なら、掲示物も見やすい位置に簡単に貼ることができる。今まで「面倒くさい」としか言っていなかったのに。そんな気まぐれな彼の行動に、私は少し驚いた。
「やっと仕事した」
「今までも仕事してただろ」
「葉月さんの半分くらいしかしてなかったでしょ」
「うるせぇ」
「二人ともおつかれさま。櫻葉くんは、手伝ってくれてありがとう」
「お気になさらず。早く終わってよかったね。これで仕事は終わり?」
「うん。先生に頼まれたことはこれだけだから」
「さっさと帰るぞ」
水瀬は素早く鞄を手に取り、すっかり帰る準備を整えていた。
「葉月さんはバス?」
「うん。あ、ちょうど行っちゃったみたい」
「あらら。次は何分後?」
「十五分後くらいかな。バス停まで歩いていけば、ちょうどいい時間になると思う」
「それならよかった。気をつけて帰ってね」
「うん。ありがとう。水瀬くんも、またね」
「おー」
仕事が終わってすっきりした表情の水瀬は、颯爽と教室を出ていった。そのあとを追うように、櫻葉も教室をあとにした。
さて。私も、下校の準備をしなければ。
切り貼りに使った文房具を片付け、私も教室を出た。
空は少しずつ赤みを帯び、太陽は低い位置まで傾いていた。
昔も、似たような景色を見たことはある。
けれど、あの頃とはどこか気分が違った。
胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが残っていた。
電車を乗り継ぎ、最寄り駅である笠松駅へ向かう。笠松駅の駐輪場には、学生たちのものと思われる自転車が、横一列にずらりと並んでいた。
自転車は、高校に進学するのを機に買い替えた。
小学校高学年の頃から使っていたものは、ところどころ錆びつき、傷も増えていた。それに、心機一転したいという気持ちもあった。昔の自転車は、進学を前に処分してもらった。まだ艶があり、傷ひとつない自転車を駐輪場の輪止めから外す。そのままハンドルを握り、ゆっくりと引いて歩き始めた。
夕暮れは、少しずつ濃くなっていた。
辺りを行き交う車のライトが、目につき始める。
帰り道には、街灯の少ない場所がいくつかある。住宅から漏れる灯りが、薄暗くなった道をほんの少しだけ照らしていた。
人の足音は、私のものしか聞こえない。
一人になると、どうしても昔のことを思い出してしまう。忘れたいと思っていても、中学を卒業したのはまだ一か月前。記憶は、あまりにも鮮明に残っている。さっきまで少し明るかった心が、何かにじわじわと侵食されていくような気がした。
前方から、複数人の笑い声が聞こえてきた。
聞いたことのある声だった。
忘れもしない。
中学三年間、ずっと聞いてきた声。
私の周りにいて、私に仕事を押しつけてきた。
その笑い声を聞くだけで、体が強張るようになった。
――あの子たちだ。
私は自転車に飛び乗り、全速力でペダルを漕いだ。
気づかれないように。
そして、もうあの声を聞かなくて済むように。
息を切らしながらペダルを漕ぎ続け、ようやく大通りまで出た。車通りは多く、店や車の灯りが眩しい。私はそこで自転車を降り、乱れた呼吸をゆっくりと整えた。視界は明るいはずなのに、なぜか景色が歪んで見えた。
ぽとり、と雫が手の甲に落ちる。
――雨?
違う。
これは――
私、泣いてるの?
ほんの一瞬。
こちらを見られたわけでもないのに……。
ああ、なんて私は弱いのだろう。
先ほどまで温かかったはずの心が、ゆっくりと冷えていくような気がした。




