知らない教室
4月上旬。桜が少しずつ散り始め、緑の葉が顔を出し始める頃、私は高校に入学した。
私立名桜学園高校。
これから私が通うことになる高校だ。
同じ中学から進学する生徒は、全体の一割にも満たない。ほとんど知らない人ばかりのこの学校で、私は高校生活を送ることになった。
少しのワクワクと、それを大きく上回る不安。そんな気持ちは、もしかしたら表情にも出ていたのかもしれない。けれど、今の私にはそんなことを気にする余裕なんてなかった。
もともと引っ込み思案で、人付き合いも得意ではない。この学校生活にちゃんと溶け込めるのか。周りから弾かれずにいられるのか。今の私の頭の中は、それだけでいっぱいだった。
学校の正面玄関には、クラス分けの張り紙が掲示されていた。
その中に、私の名前もあった。
何度見返しても、同じ中学の子の名前は見当たらなかった。どうやら誰とも同じクラスにはならなかったらしい。そのことに、私は少しだけほっとした。少なくとも、この教室には私の過去を知っている人はいない。けれど同時に、周りは知らない人ばかりだという現実が、じわじわと不安を膨らませていった。
不安が心を覆い尽くしていくのを感じながら、私は教室へとたどり着いた。
黒板には、出席番号と席順が書かれている。私の席は、窓側の一番後ろだった。窓側の一番後ろだったことが、少しだけ救いだったかもしれない。
席に座り、ひと息つく。
開け放たれた窓から入ってくる風が、少し心地よかった。からりと乾いた、少しだけ冷たい空気が、私の頬をそっと撫でていく。
私の周りは、まだ空席ばかりだった。廊下からは、笑い声や誰かの話し声が響いてくる。教室と廊下を隔てる扉はすべて開いているはずなのに、そこだけがまるで別の空間のように感じられた。
無音の教室に、一人の新しいクラスメイトが入ってきた。
「ふわあぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
大きなあくびをしながら扉をくぐったその人は、気だるそうに黒板をじっと見つめる。しばらくして、ゆっくりと視線をこちらへ向けた。その人は少しずつこちらへ近づき、私の隣の席に鞄を置いた。
「隣の席? よろしく」
少しパーマがかった髪。切れ長の二重の目。すらりとした体つき。そして、声変わりを終えた低い「男の人」の声。まるで画面の向こう側にいる人を見ているようだった。
そんな彼を目の前にして、胸が少し高鳴ったような気がした。
「……よろしく」
たった四文字を口にするだけなのに、私の声は見事に裏返った。それを聞いた彼は、くすりと笑う。
「緊張しすぎ。同級生な?」
彼は席につくと、そのまま机に突っ伏した。どうやら、そのまま眠るつもりらしい。私の周りは、また静かになった。
ほんの少しだけ色づいた景色が、またモノクロに戻っていくような感覚。
私は彼の眠りを邪魔しないように、鞄から本を取り出し、静かに読み始めた。
私は本が好きだ。
一人でも熱中できるから。
昔から、私はどこか周りから外れた存在だった。けれど、本は私を一人にはしなかった。いつだってそばにいてくれる、大切な存在だった。
現実から、物語の世界へ。
そこは、誰にも立ち入ることのできない、私だけの場所だった。居心地のいいその世界にいる間だけは、何も気にしなくていい。この世界だけが、私を受け入れてくれているような気がした。
隣の彼も、自分の世界へ向かうために目を閉じているのだろうか。
……なんて、勝手な想像はあまり良くないかもしれない。
そう思いながらも、その想像は私の中で少しずつ膨らんでいった。
キーンコーンカーンコーン。
鳴り響くチャイムの音が、私を現実世界へと呼び戻した。廊下に出ていた生徒たちも、次々と教室へ戻り、それぞれの席についていく。全員が席に着いた頃、教室にスーツ姿の男性が入ってきた。
「えー……今日から担任を務めます、園崎です。これから一年、よろしく」
担任はそのまま、今年一年の流れを説明し、学級委員の選出まで淡々と進めていった。
気がつけば、一時間目は終わり、休み時間になっていた。
その間、隣の彼はずっと眠そうにあくびをしていた。それどころか、ときどきコクコクとうたた寝までしている。休み時間になった途端、彼はまた机に突っ伏した。一瞬もしないうちに、寝息が聞こえ始める。
「こらー、初日から寝すぎだろー」
そう言いながら、彼の友達らしき男子が、丸めた教科書で彼の頭を軽く叩いた。
「いてっ。なんだよ、寝かせろよー。俺、寝不足なの」
「どうせ夜中までゲームしてたんだろ。さっさと寝ろよ」
「気がついたら二時過ぎてたんだよ。俺は悪くない。悪いのは面白すぎるゲームだから」
「なにその責任転嫁」
少し漫才じみた二人のやり取りに、思わずくすりと笑ってしまった。私は慌てて口元を手で覆う。
その気配に気づいたのか、二人は同時にこちらを振り向いた。
「緊張ちゃん、もしかしてゲラ?」
「緊張ちゃん……?」
「俺が挨拶したとき、ガッチガチに緊張してたから。緊張ちゃん。名前まだ覚えてないし」
「なかなか失礼な名付けエピじゃね?」
「あっ、えっと……」
私が言葉に詰まっていると、二人は会話を止め、改めてこちらへ向き直った。
「ほら、緊張ちゃん」
「お前、失礼。少し黙んなさい」
「事実だろ」
「そんな無理に話さなくていいから。ゆっくりで大丈夫」
丸めていた教科書を元に戻しながら、彼はにこっと笑った。
「俺、櫻葉祐。君は?」
「えっと……葉月翠……です」
「葉月さん。よろしくね」
微笑んだまま、櫻葉は眠そうな彼に声をかけた。
「あんたも自己紹介しなさいよ」
彼は面倒くさそうに顔を上げる。
「……水瀬蒼」
それだけ呟くと、また机に突っ伏した。それを見た櫻葉は、少し呆れたような顔をした。
「ごめんね。普段からずっとこんな感じなんだよ。悪いやつじゃないんだけど」
「いえ……大丈夫です」
「葉月さんはどこ中なの? 近く?」
「えっと、少し遠くて。竹鼻線に乗らないといけないんです」
「竹鼻線!? そこそこ遠いところから来るんだね」
「……少し、環境を変えたくて」
そう答えると、何かを察したのか、櫻葉はそれ以上聞こうとはしなかった。
「そっか」
ただ優しくそう返して、そこで会話を終えた。
まるでタイミングを見計らったかのように、チャイムが鳴り響いた。
二時間目の始まりだ。
「戻らなきゃ。またね」
そう言い残し、櫻葉は自分の席へ戻っていった。初日から他人に話しかけられる、その会話力が少し羨ましい。
私にも、そんなスキルがあればいいのに。
そんなないものねだりを胸の内にしまいながら、私は黒板に視線を向けた。
二時間目。
内容は一時間目とさほど変わらず、クラス内の役決めだった。学級委員の二人は一時間目に決まっているため、それ以外の役を順番に決めていく。
私は、こういう役をやりたいという気持ちがあまりない。できることなら何にも手を挙げず、このまま平の学生として過ごしたいと思っていた。
隣の彼は、相変わらずあくびを繰り返している。
だるそうにしていたかと思えば、ついには大きく背伸びまでし始めた。
「おー、じゃあ図書委員は水瀬。よろしくな」
「はぁ!?」
彼は豆鉄砲を食らった鳩のように、目を大きく見開いた。私は、まだ状況を掴めていない様子の水瀬に声をかけた。
「今ちょうど、図書委員に立候補してくれる人を待ってたんだよ。そこで手を挙げた水瀬くんが見えたから……」
「俺は背伸びしただけだっての!」
「そこー、うるさいぞ。何はともあれ、決定は決定な。次、女子はいないかー」
図書委員に決まってしまったことが不満なのか、水瀬は頬を膨らませていた。
立候補者が出ないか数分待ってみたものの、誰一人として手を挙げなかった。先生は腰に手を当て、軽くため息をつく。
「このままだと次に進めないから、誰か頼むよ。もう推薦でもいいからさー」
そう言ったところで状況が変わることもなく、気まずい時間だけが流れていった。
……かと思った、その時だった。
隣で手を挙げている彼が目に入る。
「はーい、葉月さんがやるって言ってまーす」
「えっ!?」
あまりに突然のことで、私は驚いたまま固まってしまった。水瀬は、私にだけ聞こえるくらいの声でぼそっと呟いた。
「俺、赤の他人と一緒にやるの嫌だもん。あんた、祐と話してたし。そこまで変な人じゃないと思うから」
私は状況をうまく飲み込めないまま、あたふたしてしまった。どうやらその間に話は決まってしまったらしく、黒板には水瀬と並んで、私の名前まで書かれていた。平の学生として過ごしたいという私の願いは、叶わないまま高校一年生を終えることになりそうだ。
時間は流れ、放課後。
休み時間と同じように水瀬へ話しかけている櫻葉は、少し呆れたような顔をしていた。
「なんで葉月さんを巻き添えにしたの!? 迷惑かけちゃダメでしょ」
「俺、人と話すの面倒だもん。葉月さん、一人でいるの好きそうだし、自分でなんとかしてくれそうじゃん?」
「失礼にも程がある!」
櫻葉は私の方を向くと、申し訳なさそうに手のひらを合わせた。
「ごめんね。根は悪いやつじゃないんだ。ちょっとクセがあるだけで……」
「俺は普通だっての」
櫻葉が申し訳なさそうにしているのを見て、なんだかこちらまで申し訳ない気持ちになった。
「なってしまったものは仕方ないですから……。先生に迷惑をかけないように頑張ります」
「いい子……。蒼、謝んなさい」
「……すんません」
少し不貞腐れた様子の水瀬を見て、櫻葉はため息をついた。
「俺にできることがあれば手伝うから。なんでも言ってね、葉月さん」
「ありがとう」
こうなってしまったからには仕方がない。
強引に決めてしまった担任と、その原因を作った彼には少しばかり不満がある。けれど、それを口にしたところで距離が遠くなって、あとあと面倒になるだけだ。
私は出かかった言葉を、そっと飲み込むことにした。
「葉月さんはもう帰る? 引き留めたみたいになってごめんね」
「ううん。大丈夫。予定もないし、まっすぐ家に帰るだけだから」
「そっか。気をつけて帰ってね」
「うん。ありがとう。じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
私は教室を出て、バス停へ向かった。学校からバス停までは、およそ十分。そこから駅へ向かい、電車に乗り換える。これから三年間、何度も通ることになる道だ。
今日は疲れた。
今までとはガラッと変わった日常。
それだけでも十分ハードだったのに、まさか委員会に所属することになるなんて。
しかも、少し勝手な人と。
櫻葉くんみたいな人が相方だったら、もう少し楽だったのかな。
……なんて。
私も大概失礼だな。
そんなことを思いながら、私は一人、からりと晴れた青空の下を歩いていった。




