防犯カメラと、社畜の土下座
「……よし、これで万全ね!」
早朝の静まり返ったオフィスで、私は自分のパソコン画面を見つめながら力強く拳を握りしめた。
昨日のシュレッダー事件で学んだのだ。
この世界には、どうしてもストーリーを元の歪んだシナリオへと戻そうとする恐ろしい『世界の修正力』が働いている。
起きてから泥臭く解決するのも限界がある。
ならば、トラブルそのものを未然に防ぐ完璧な防壁を築けばいい!
(ドラマの第2話後半。アヨンちゃんが企画部の重要機密メールをライバル会社に誤送信したと濡れ衣を着せられ、社内を追放されかける悪夢のイベント……!)
私は前世の社畜時代に培ったセキュリティ管理の知識をフル動員し、アヨンのデスクに完璧な予防策を施した。
アヨンのパソコンには離席時に即座に画面がロックされる設定を施し、さらにはキーボードの隙間に髪の毛一本すら挟ませないレベルの防犯対策を実施。
送信メールにはすべて二重パスワードをかけ、私とアヨンの双方が承認しなければ外部へ送信できない完全防御システムを勝手に構築したのだ。
(ふははは! 見たか世界の修正力! 二重承認システムと物理ロックの前に、どんなイジメ嫌がらせも無力!!)
(これでアヨンちゃんは絶対に傷つかない! 完璧な仕事をしたぞ、私!)
高らかに勝利を確信し、満足気な笑みを浮かべていた――その日の夕方のことだった。
「大変よ! 企画部のアヨンさんが、取引先の極秘コンペ資料を競合他社に誤送信したって大騒ぎになってるわ!」
第一秘書室のハ先輩の甲高い叫び声が、オフィスに響き渡った。
「は!?」
手に持っていた栄養ドリンクの空き缶が、カランと床に転がった。
(な、なんで……!? システムは完璧だったはずでしょ!? 送信ボタンなんて物理的に押せないはずなのに!!)
血相を変えて企画部へ爆走すると、そこはすでに冷ややかな地獄絵図と化していた。
顔を蒼白にして震えるアヨンと、周囲から向けられる軽蔑と嫉妬の視線。
そして、ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべる第一秘書室のイ秘書官。
「どういうことですかアヨンちゃん!? 触ってないですよね!?」
「ジウさん……! 私、本当に何もしていません! 15時の休憩から戻ってきたら、私のパソコンから送信完了の通知が届いていて……っ!」
「言い訳は見苦しいわよ、アヨンさん」
イ秘書官が、勝ち誇ったようにアヨンのパソコン画面を指差した。
「あなたのアドレスから、確かに競合他社へ極秘ファイルが送信されているわ。システムログにも、あなたのログインIDがしっかり残っている。言い逃れなんてできると思っているの?」
「そんな……私、パスワードだって誰にも教えていません……!」
アヨンの端末に駆け寄り、狂ったようにログを確認する。
(嘘でしょ……!? 二重承認システムが……エラーを起こして自動スルーされてる……! パスワード認証も、なぜかその瞬間だけシステム障害でスキップされてる……!?)
背中に、ダラリと冷や汗が流れた。
(……あ、理解した)
(世界の修正力、お前……! 人間が作った完璧なセキュリティシステムを、**『原因不明のシステム障害』という神の都合で強行突破**してアヨンちゃんに濡れ衣を着せやがったなーーーっ!?)
(ドラマのお約束を通すために、デジタル空間の物理法則すら折り曲げてくるなんてズルすぎるでしょ!!)
「明日の朝一番の役員会議で、あなたへの処分が正式に決定します。重大な情報漏洩よ。懲戒解雇は免れないわね」
冷酷に告げるイ秘書官の言葉に、アヨンはその場に崩れ落ちた。
「私……私、もう終わりです……。ウジンの病院代も払えなくなっちゃう……」
絶望に瞳を濡らし、静かに肩を震わせる推し。
その儚く悲痛な姿を見た瞬間、私の胸の中で、怒りと社畜魂が激しく爆発した。
(ふざけるな……ふざけるなよ世界の修正力!!)
(二重承認をバグで破られたなら……デジタルがダメなら、泥臭いアナログで殴り返してやる!!)
「アヨンちゃん、諦めないで」
私はアヨンの肩を掴み、力強くその目を見つめた。
「明日までに、必ずあなたが犯人じゃない証拠を見つけてきます。だから、絶対に自分を責めないで!」
定時を過ぎ、社員たちが次々と帰路につく頃。
私は一人、地下にある警備室の重い鉄扉の前に立っていた。
社内システムがバグで改ざんされた以上、頼れるのは社内に無数に設置された「監視カメラの映像」だけだ。
しかし、監視カメラの過去ログを閲覧できるのは、セキュリティ上、役員以上の許可を得た警備要員のみ。一平社員、ましてや第二秘書室のモブ秘書が「見せてください」と言って見せてもらえるものではない。
「頼むから見せてくれ! 一生の頼みだ!!」
警備室の扉を開けるなり、私は床に勢いよく膝と額を叩きつけた。
前世の限界社畜時代、取引先に無理難題を通すために磨き上げた、完璧なフォームの土下座だ。
「な、なんだ君は!? 秘書室の者か! 困るよ急にこんなところでなんて格好を!」
困惑する警備員のおじさんに、私は床に額を擦り付けたまま叫んだ。
「企画部のアヨンさんの冤罪がかかっているんです! 15時前後の監視カメラの映像を確認させてください! お願いします!!」
「だ、ダメだ! 権限のない者に監視カメラを見せるわけにはいかない! 規則なんだ!」
「規則なのは百も承知です! ですが、一人の健気な若者の未来が、冤罪で潰されようとしているんです! 責任はすべて私が取ります! 始末書でも減給でもクビでも何でも書いて出しますから!!」
「君ねぇ……」
「お願いします!! アヨンちゃんは……アヨンちゃんは、毎日誰よりも早く出社してデスクを掃除して、病気の弟のために必死で働いている良い子なんです! あんな良い子が踏みにじられる世界なんて、あってたまるかーーーっ!!」
血を吐くようなオタクの叫びと、一切微動だにしない完璧な土下座の姿勢。
数分間に及ぶ沈黙の後、警備員のおじさんは深々と溜息をついた。
「……ハァ。ちょっとだけだぞ。見回りに行ってくる。その間のことは知らないよ」
「……っ!! ありがとうございます!!!」
私は跳ね起きると、警備員のパソコンの前にかじりついた。
15時前後の企画部のフロア。
無数のカメラ映像を、超高速でチェックしていく。
目が霞み、画面の光が刺さるように痛む。
(どこだ……どこに犯人が映ってる……!?)
しかし――画面をどれだけコマ送りしても、アヨンのデスクに近づく不審な人物は映っていなかった。
「そんな……誰も近付いていない……!?」
アヨンが席を立った15時00分から、戻ってきた15時15分までの間。
アヨンのデスクの周りを通り過ぎた社員は何人もいたが、パソコンに触れた者は一人もいなかったのだ。
(なんで!? カメラにすら映らないなんて……これじゃ犯人が誰なのか全く分からないじゃないの!!)
頭を抱え、絶望が全身を支配しかけた、その時。
実は扉の前でこちらの様子を伺っていた警備員のおじさんの声だった。
『おい、次のカメラ映像に切り替えるぞ。そっちは廊下のカメラだ』
警備員が切り替えた、企画部の外にある「廊下」の監視カメラ映像。
15時07分。
一人の社員が、ポケットに手を突っこみながら、廊下の給湯室から出てくる姿が映っていた。
その人物の手に握られていたものを見た瞬間、私の脳内で稲妻が走った。
(……スマホだ。画面に何かを表示させながら、ニヤニヤと笑っている……)
(待って? パソコンの前に誰も立っていない。なのにメールはアヨンのアドレスから送信された……)
(……そうか! 直接パソコンを触ったんじゃない! **『アヨンのIDとパスワードを事前に盗み出し、社内Wi-Fiに接続したスマホの遠隔操作アプリでメールを送信した』**んだ!!)
遠隔操作なら、アヨンのデスクに近づく必要すらない!
カメラの死角である廊下から、スマホをタップするだけで犯行が可能だったのだ!
(犯人は……この時間、廊下にいた人間の中にいる!!)
映像を巻き戻し、一時停止する。
画質を限界まで拡大し、画面に顔を押し付けるようにして犯人の特徴を探す。
(手首の時計……あの独特な金縁のデザイン……! それに、ポケットから覗いているあの特注の社員証ストラップ……!)
「……見つけた」
真犯人の手がかりを掴んだ瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
翌朝9時00分。役員会議室。
重苦しい空気の中、中央に立たされたアヨンに対し、冷酷な判決が下されようとしていた。
「以上の事由により、企画部アヨン社員の重大な守秘義務違反を認定する。本日付での懲戒解雇、および損害賠償の請求を――」
「申し訳ありませんでした……っ」
アヨンが涙をこぼし、絶望に肩を落としたその瞬間。
バアアンッ!!!
重厚な役員会議室の扉が、豪快な音を立てて開け放たれた。
「「「!?」」」
役員たちが一斉に不快そうに振り返る。
そこに立っていたのは、一晩中目を皿にして映像を解析し、目の下に濃い紫色のクマを作った――ボロボロの地味な秘書(私)だった。
「待ってください!! アヨンちゃんは無実です!!」
「また君か! 秘書室の人間が、何の権利があって役員会議に立ち入る!」
怒号を飛ばす役員たちを完全に無視し、私は会議室の中央へと毅然とした足取りで進み出た。
「アヨンちゃんのパソコンから送信されたメールは、外部からの『遠隔操作』によるものです! 真犯人は別にいます!」
「ハッ、遠隔操作だなんて、そんな往年のSFみたいな苦しい言い訳……」
イ秘書官が鼻で笑おうとした、その瞬間。
私は用意してきたタブレット端末を、役員たちの目の前で高く掲げた。
「昨日の15時07分! アヨンちゃんのパソコンから極秘メールが送信されたまさにその瞬間! 廊下の監視カメラに映っていた人物がいます!」
画面に、静止画を映し出す。
廊下でスマホを操作する人物の腕元。そこに光る金縁の高級時計と、特徴的な社員証ストラップ。
「犯人は、アヨンちゃんのログインIDを不正に入手し、廊下からスマホの遠隔操作でメールを送信しました! この金縁の時計と社員証……そこにいる、イ秘書官! あなたのものですよね!?」
「なっ……! 履き違えるのも大概にしなさい! 私がそんなことをする理由がどこにあるのよ! 時計なんて同じものを持っている人間はごまんといるわ!」
顔を真っ赤にして叫ぶイ秘書官。
だが、社畜の眼力は誤魔化せない。
「いいえ! あなたのその時計は、先月の勤続10年記念で会社から授与された特別製です! 今すぐその時計を提出し、端末の通信履歴をログ解析すれば、すべてが証明されます!」
「くっ……あ、私は……!」
ぐうの音も出ないロジックと決定的な証拠。
イ秘書官は顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えながらその場に崩れ落ちた。
「……勝負ありね」
私は大きく息を吐き出すと、呆然と佇むアヨンの元へと駆け寄った。
「アヨンちゃん……! よかった……無実が証明できたよ……!」
「ジウさん……! あんなに絶望的だったのに……私なんかのために、また……ッ!」
アヨンは私に抱きつき、私の胸に顔を埋めてボロボロと大粒の涙を流した。
その温かい体温を感じながら、私は「推しを守れた」という圧倒的な達成感に包まれていた。
…しかし。
騒然とする会議室の入口で、その一部始終を冷徹な瞳で見つめている男がいた。
報告を聞いて駆けつけていた、財閥「カンソングループ」の社長――カン・テジュンである。
(……また、あの秘書か)
テジュンとアヨンの運命の出会いは、今回も一切発生していない。
テジュンはアヨンの顔すらまともに認識していなかった。
テジュンの鋭い視線が射抜いていたのは、ボサボサの髪でヒロインを抱きしめている、第二秘書室の地味な秘書(私)だった。
(セキュリティが厳しい警備室にまで入って監視カメラを暴き、完璧な推理で役員会議の場を支配した……)
(ただの秘書が、なぜそこまでして他人のために動く? なぜそこまでの観察力と執念を持っている……?)
冷徹で、誰にも心を開かないはずの男の胸に。
アヨンへの恋心ではなく――「あまりにも不可解で、泥臭く、不気味な社畜秘書」に対する強烈な興味と執着の炎が、静かに、しかし確実に燃え上がり始めていたのだった。




