借金取りと、契約書を破る女
イジメの濡れ衣事件から数日。
アヨンの無実が証明され、社内には束の間の平穏が戻っていた……はずだった。
「……ふぅ。とりあえず、今日のところは大きなトラブルも無し、と」
自分のデスクで冷めたお茶を飲みながら、私はホッと胸を撫で下ろしていた。
しかし、脳内のドラマデータベースがすぐさま警鐘を鳴らし始める。
(……待て。油断しちゃダメよ私! 韓ドラの怒涛のトラブルラッシュを甘く見ちゃいけない!)
(第1話で運命の事故を潰し、第2話でイジメのシュレッダー事件を泥臭く復元し、第3話ではシステムのバグ(修正力)による誤送信の冤罪を監視カメラと土下座で力技解決した……)
(第4話……! アヨンのクズな父親が作った巨額の借金のせいで、悪徳借金取りが会社にまで押しかけてきて暴れ回る、最悪の『毒親・地獄の借金乱入イベント』よ!!)
激しい胃痛に襲われ、私はデスクの引き出しから胃腸薬を取り出して水なしで飲み込んだ。
(きっと借金取りが会社に来ること自体は防げない……! だったら、物理的に社内に入らせなければいいだけの話!)
私は早朝から地下の警備室へ出向き、この前の一件以来すっかり仲良くなった警備員のおじさんに缶コーヒーを差し入れながら頼み込んでおいたのだ。
「いいですかおじさん! 今日はアヨン関係者を名乗る怪しい男や、ガラ行きの悪い不審者が来たら、絶対に一階のエントランスでストップをかけてください! セキュリティレベルはMAXでお願いします!」
警備員のおじさんも、昨日の私の決死の土下座に毒されたのか「任せとけ!」と力強く頷いてくれていた。
(よし! これでエントランスでの物理ブロック策は完璧! 修正力だろうが何だろうが、オートロックと警備員の壁は突破できないわ!)
高らかに勝利を確信し、平和な事務作業に戻ろうとした――10時15分のことだった。
「イ・アヨンを出せぇえええッ!! 金を払わねえなら、この会社で暴れて商売めちゃくちゃにしてやるぞオラァッ!!」
社内中に響き渡る、地鳴りのような甲高い怒号。
「キャアアアアッ!? な、なにあの人たち……!?」
「ひっ……!? な、なんでビルの中にカンペ(ヤクザ)が……!?」
企画部のフロア全体が、一瞬でパニックと悲鳴に包み込まれた。
派手な柄シャツを着た強面の男たちが二人、ドカドカと土足で廊下を練り歩き、オフィス機器を蹴飛ばしながら侵入してきたのだ。
(な、なんでええええええっ!? ガードマンが全員配置についていたはずでしょ!?)
私は血相を変えてデスクから立ち上がり、社内LANの防犯モニター画面を爆速で確認した。
そこに映し出されていたのは、あまりにも理不尽な『世界の修正力』の暴挙だった。
(な……なにこれ!? 『急なエアコンの定期点検業者に化けた借金取りが、警備員がお手洗いに入ったわずか30秒の隙を突いて地下の搬入口から侵入した』……だとぉおおお!?)
(修正力、セキュリティの抜け穴を見つけるのがプロすぎてずるいでしょ!! どんな神の采配よそれ!!)
オフィスの一角で、アヨンが顔を蒼白にしてガタガタと震えていた。
男たちはアヨンを見つけるやいなや、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべて距離を詰めていく。
「ヘッヘッヘ、見つけたぞイ・アヨン! 父親が作った借金は子供が払うのが世の常だろ! 判子を押すまでここから動かねえぞ!」
「や、やめてください……! 私は父の保証人にはなっていません! そんなお金、払えません……!」
「黙れ! 親に恩返しするのが子供の務めだろうが!」
胸ぐらを掴まれそうになり、涙をこぼして腰を抜かすアヨン。
まさにその時だった。
第一秘書室の角を曲がり、冷徹な雰囲気を纏った男――カン・テジュンが静かな足取りで通りかかった。
テジュンにとって、アヨンは「顔すらまともに覚えていない、企画部のしがない平社員」だ。
原作のように事故の救出イベントも起きていないため、アヨンに特別な感情など1ミリも持ち合わせていない。
冷徹で完璧主義な社長であるテジュンが考えたのは、極めて合理的で、冷酷な対応だった。
(……会社の品位を汚す不審者か。警備員を呼んで即座に叩き出し、あの騒ぎの原因となった平社員もまとめて処分対象だな)
テジュンが冷酷な表情のまま、不審者を即座に排除しようとポケットの携帯電話に手を伸ばした――まさにその瞬間。
「アヨンちゃんに触るなーーーーっ!!」
爆音のような叫び声と共に、テジュンの真横を猛烈な疾風が駆け抜けた。
私がデスクをなぎ倒す勢いでダイブし、アヨンの前に仁王立ちで立ちはだかったのだ。
「な、なんだお前は! 地味な女がしゃしゃり出てんじゃねえぞ! 邪魔するなら容赦しねえぞ!」
カンペの男がドスの利いた声で私を威嚇し、胸元から一枚の汚れた紙切れを叩きつけてきた。
「見ろ! これが親父のサイン入りの借用書だ! 親の借金を子が払うのは当たり前だろうが!」
私は整わない息を整え、メガネの位置をクイッと直すと、ポケットから一冊の分厚い文庫本――『韓国六法(携帯版)』を取り出し、男たちの目の前に突きつけた。
「……刑法第〇〇条、強要罪! ならびに軽犯罪法、および暴力追放運動推進センターのコンプライアンス規約!!」
「は……? 何言ってんだこの女……」
「貴様らが持っているその借用書! 親の借金を子供に無断で肩代わりさせる契約は、民法上『無効』だ! さらに、アヨンちゃんが過去に警察へ相談していた違法高利貸しの違法金利が適用されている!!」
実は昨日の夜、私はアヨンに頼みこみ、過去の返済履歴と借用書の控えを泥臭くすべてチェック済みだったのだ。
「法的根拠のない脅迫行為、および建造物侵入罪で、すでに管轄の警察署へ直通通報済みです! あと3分でパトカーが到着します!!」
「な、なんだと……!? 警察だと!?」
「さらに! 貴様らがアヨンちゃんを脅迫して書かせようとしたその『違法な念書』!!」
私は男の手に握られていた念書をひょいっと奪い取ると――。
パシャ!ビリッ!! ビリビリビリッ!!
「な……!? お前、何してんだ!!」
全員の目の前で、証拠となる写真を撮り、容赦なく破り捨てた。
「紙切れ一枚で人の人生を縛れると思うな!! アヨンちゃんは一歩も引かないし、私も引かない!! さっさと出て行かないと、不法侵入と脅迫の現行犯で刑務所にぶち込むぞ!!」
怒号とドスの利いた限界社畜の叫び。
前世で数々の理不尽なクレーム処理を叩き潰してきた私の鬼気迫る威圧感に、借金取りの男たちは青ざめた。
「く、狂ってやがるこの女……! 覚えてろよ!」
遠くからウーウーと聞こえ始めたパトカーのサイレンの音に怯え、男たちは捨て台詞を残して蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
「ふぅ……間一髪……」
破り捨てた紙くずをゴミ箱に投げ捨て、私は大きく息を吐いた。
「ジウさん……! また……また私を助けてくれたんですか……!?」
アヨンが涙をボロボロとこぼしながら、私にしがみついてくる。
「アヨンちゃん、大丈夫。違法な借金なんて払う必要ないからね。法律と私は味方だから!」
「うわあぁぁん! ジウさん大好きですーっ!」
アヨンに全力で抱きつかれ、私は推しの尊さに満足感で胸がいっぱいになった。
……だが。
数メートル離れた場所で、その光景を呆然と見つめていた男がいた。
警備を呼んで冷徹に処分しようとしていた――カン・テジュンである。
(……なんなんだ、あの秘書は)
テジュンは通報しようとしていた携帯を持ったまま、固まっていた。
トラブルを起こした平社員のことなど、テジュンの視界からは完全に消え去っていた。
テジュンの鋭い冷徹な瞳に映っていたのは、カンペ相手に法律を叩きつけ、借用書を豪快に破り捨て、泣きつく社員を優しく抱きしめている地味な秘書の姿だけだった。
(カンペ相手に一歩も引かず、法律を暗誦し、躊躇なく書類を破り捨てる度胸……。ただのモブ秘書が、なぜあそこまでの行動力を発揮できる……?)
冷酷な御曹司の心に刻まれたのは、ヒロインへの愛しさなどではなく――「あまりにも常識外れで、危険で、目を離せない不審な社畜秘書」への、暴走寸前の観察欲と強烈な疑念だった。




