静観の代償と、深夜のジグソーパズル
「ふう……事故は回避できたんだし、これでとりあえず一安心かな」
自分のデスクに深々と腰掛け、私は冷めた栄養ドリンクを一気に煽った。
劇的な出会いを奪ってしまった罪悪感は、胸の奥でチクチクと痛む。
けれど、前世で擦り切れるまで見倒した知識が、私の頭の中で楽観的な希望を弾き出していた。
(昨日の今日で出会いそのものが消滅した以上、ストーリーの前提条件は完全に崩壊したはず!)
(つまり、この後に起きるはずだった『イベント』だって、起きる理由がない!!)
「よしっ! 私の仕事は完璧だった! 運命の歯車は無事にズレたんだ!」
自分に言い聞かせるように大きく頷き、私はパソコンのキーボードを軽快に叩き始めた。
自分の置かれた状況を考えれば、これは大勝利と言っていい。
私はしがないモブ秘書。高望みなんてしない。
推しの命が助かり、二人が穏やかな日常を送れるなら、陰からそれを温かく見守る壁になりたい。
そう高を括り、私は平和な社畜生活を満喫(?)していた。
……そう、「それ」を目撃するまでは。
夕方17時。定時少し前。
第一秘書室へ提出する書類を抱え、給湯室の角を曲がった時のことだった。
「……え?」
オフィスの一角、パーテーションで区切られた打ち合わせスペースの陰から、押し殺したようなすすり泣きが聞こえてきた。
足を止め、隙間からそっと覗き込む。
そこにいたのは、膝を折り、小さな背中を丸めて肩を震わせるアヨンだった。
彼女の足元には、まるで雪のように白い紙くずが散乱している。
シュレッダーの排出口からぶち撒けられたような、極細の糸くずのような紙の山。
「うそ……でしょ……?」
私の指から書類が滑り落ちそうになった。
(な、なんで……!? なんでアヨンちゃんが泣いてるの……!?)
脳内のドラマデータベースが、嫌な音を立てて超高速で検索を始める。
第1話後半。
落ち込むヒロインを襲う最初の試練。
意地悪な先輩社員によって、アヨンが何日も徹夜して作り上げた『新進気鋭デザイナーとのコラボ企画書』が、シュレッダーでズタズタに破棄されるイベント!
(嘘でしょ!? 御曹司との出会いは消えたのに、なんでこのイベントだけは予定通り発生してんのよっ!?)
「嫌だ……どうしよう……明日の朝一番の役員会議なのに……」
ポロポロと涙をこぼしながら、アヨンは震える手で紙くずを拾い集めようとしていた。
その儚く、絶望に満ちた横顔を見た瞬間、私の頭の中で何かがパチンと弾けた。
(……私のせいだ)
強烈な吐き気と罪悪感が、一気に波となって押し寄せる。
(私が……私が甘かったんだ! 『出会いがなくなったから大丈夫』なんて高を括って、高見の見物を決め込んでいた私のせいで……!)
(世界は、ヒロインに試練を与えたがっている。出会いというヒーローの救出イベントを私が消し去ったのに、災難というシステムだけは定刻通りにアヨンちゃんを襲ったんだ!)
(ヒーローを奪っておいて、試練だけ放置するなんて……そんなの、ただのいじめじゃないか!!)
「……アヨンちゃん」
「ひっ……!?」
声のトーンを落とし、私は静かに足音を殺してアヨンの前にかがみ込んだ。
驚いて顔を上げたアヨンの両手を、昨日と同じように、強く、固く握りしめる。
「な、ジウさん……? どうして……」
「アヨンちゃん、泣かないで。大丈夫。怪我はない?」
「はい……怪我は、ないですけど……でも、私……明日必要なプレゼン資料が、全部こんなことに……なぜかバックアップも消えてしまって……」
自分の不甲斐なさを責め、涙をボロボロこぼす推しの姿に、私の胸は張り裂けそうだった。
(アヨンちゃんは悪くない! 悪いのはこんな理不尽なシナリオを書いた脚本家と、静観なんて決め込んでた、このポンコツ秘書(私)よ!!)
「アヨンちゃん、よく聞いて」
私はアヨンの目を見つめ、力強く言い放った。
「この資料、私が元通りにしてみせます」
「え……? でも、これ……シュレッダーですよ……? 復元なんて不可能です!」
「不可能なことなんてありません」
私はポケットからハンカチを出すと、アヨンの濡れた頬を丁寧に拭った。
「私を誰だと思ってるんですか。元・日本の限界社畜ですよ?」
(伊達に前世で、KーPOPアイドルパズルシリーズ全45種コンプしてないわよ!今の私には『推しを救う』という崇高な使命がある!!)
「アヨンちゃんは、明日の会議で役員たちを引き延ばして時間を稼いでください。私が絶対に間に合わせますから!」
「そんな……ジウさんを巻き込めません!」
「大丈夫! プレゼンターであるアヨンちゃんが諦めないことが一番大事なんです!」
私はアヨンの肩を両手でしっかり掴み、極上の笑顔(オタクの執念スマイル)を向けた。
「私に任せてください。推しの……じゃなくて、大好きなアヨンちゃんの努力を、こんな下らない悪意で踏みにじらせたり絶対にしませんから!」
アヨンは一瞬ポカンと口を開け、それからボロボロと大きな涙を溢れさせながら、何度も何度も首を縦に振った。
「……はい! ありがとうございます、ジウさん……!」
私も一緒にというアヨンを半ば騙してタクシーに乗せて帰らせた。
午後21時。全員が退社し、静まり返った第二秘書室。
目の前に広がるのは、裁断され、まるで白い粉塵のようになった無数の紙の欠片たち。
「……よし。やるぞ」
私は腕まくりをし、メガネの位置をギュッと直した。
文房具屋で急遽買ってきたピンセット2本と、医療用の超極薄透明セロハンテープ、そしてスタンドライトを設置する。
(勝負は明日の朝の役員会議終了まで。タイムリミットは刻一刻と迫ってる!)
(文字の太さ、インクの濃度、紙の裁断された断面の角度……これらをミリ単位で見極める!)
ピンセットで一切れの紙くずをつまみ上げる。
(これは……タイトルロゴの『新進気鋭デザイナー・コラボ案』の『新』のへんとつくりの一部! ということは、1ページ目の上部!)
(こっちの青いインクは……グラフの枠線! 3ページ目の売上予測データね!)
前世で培った社畜の超人的な集中力と、脳内に刻み込まれた『シンデレラは定時で帰りたい』の完璧なストーリー知識が火花を散らす。
(このドラマの第1話でアヨンちゃんが作った企画書は、全12ページ! 表紙はロゴ、2ページ目はコンセプト、3〜5ページ目が市場分析……!)
(構成が頭に入っていれば、パズルの難易度は10倍下がる! 見てなさいよ、世界の修正力だかイジメっ子先輩だか知らないけど、オタクの執念を舐めないでよね!!)
カチ、カチ、カチ……。ピンセットが紙をつまみ、テープで裏留めしていく規則的な音だけが深夜のオフィスに響く。
午前5時。
目が霞み、肩がバキバキに凝り固まってくる。
栄養ドリンクのカフェインが切れ、猛烈な眠気が襲いかかってきた。
(くそっ…目が……視界が三重に見える……! パソコンの画面を16時間ぶっ通しで見続けた時と同じ感覚…!)
くじけそうになる意識を、私は自分を叩き起こすことで繋ぎ止めた。
(だめだ! 負けるな私! 今この瞬間も、朝の会議に向けてアヨンちゃんが必死に時間を稼ごうと戦ってるのよ!?)
(あんなに素直で、健気で、弟のために一生懸命働いてるアヨンちゃんが、なんで理不尽に叱責されなきゃいけないの!?)
(ドラマの中では、ここで御曹司が『フン、使えない女だ』とか冷たく突き放して、後から陰で手を回すという屈折したツンデレ救済をしてたけど……そんな回りくどい救い方、アヨンちゃんの心が折れるわ!!)
「うおおおおお! 燃え上がれ私の社畜魂ーーーーっ!!」
静かなオフィスで小さく叫びながら、私は再びピンセットを爆速で動かし始めた。
午前9時30分。役員会議室。
「資料も用意できないような社員に、大切な新プロジェクトを任せられるわけがないだろう!」
重苦しい空気の中、役員たちの怒声が響き渡る。
アヨンは一人、会議室の中央で深々と頭を下げ、必死に時間を稼ごうと耐え忍んでいた。
「申し訳ありません……ですが、企画の内容自体は必ず皆様にご納得いただけるものです! あと少しだけ、あと少しだけお時間を……!」
「言い訳はいい! 資料がないプレゼンなど聞くに値しない!」
冷酷な言葉が突き刺さり、アヨンが絶望に瞳を濡らし、ぎゅっと唇を噛み締めたその時だった。
バンッ!!
重厚な会議室の扉が、豪快な音を立てて力任せに開け放たれた。
「「「!?」」」
役員たちが一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、ボサボサの髪に目の下に濃厚な紫のクマを作り、インクと粘着剤で汚れた服を着た――狂気すら漂わせる地味な秘書(私)だった。
「ちょっと待ったーーーーーッ!!!」
「な、なんだ君は! 秘書室の人間が何の真似だ!」
騒然とする役員たちを完全に無視し、私はフラフラとした足取りでアヨンの元へと突進した。
「ジウ……さん……!?」
「ハァ……ハァ……間に、あった……!」
私は手に握りしめていた束――セロハンテープで無数につぎはぎにされながらも、完璧に復元された12枚のプレゼン資料をアヨンの手に押し付けた。
「アヨンちゃん……! これを持って……見せつけて、きてください……!」
「これ……私の資料……!? 本当に……一晩で……!?」
信じられないものを見る目で資料を見つめるアヨンの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「さあ……行って……!」
私はアヨンの背中をポンと優しく押すと、そのまま回らない頭でくるりと踵を返し、フラつきながら会議室を後にした。
ガチャン、と重い扉が閉まる。
役員会議室の外の静かな廊下に出た瞬間、私の糸は完全に切れた。
「ふぅ……限界…………」
膝から崩れ落ちるように、私は扉のすぐ横の壁にもたれかかった。
冷たい壁の感触が、狂いそうに熱を持った頭巾に心地いい。
重い瞼を閉じると、扉の向こうからかすかに声が聞こえてきた。
『——皆様、お待たせいたしました! これより、新進気鋭デザイナーとのコラボ企画についてご説明いたします!』
涙を拭い、力強く、そしてどこまでも誇らしく通り渡るアヨンのプレゼン声。
(……よかった……。間に合った……)
(アヨンちゃんの努力が……報われる……。推しの声、やっぱり最高……)
安堵の思いが全身を包み込み、私の意識は深い深い暗闇へと落ちていった。壁にもたれかかったまま、私は泥のように眠りについた。
扉の向こうでは、アヨンが涙を拭い、復元された資料を胸に堂々とプレゼンテーションをやり遂げていた。
テープで細かく補強されたその紙面には、徹夜で自分を救ってくれた秘書の、狂気的なまでの執念と温かい愛が詰まっていた。
(感謝なんて言葉じゃ足りない……。こんな風に私のために体を張って助けてくれた人……人生で初めてだ……!)
アヨンは胸の奥で熱い涙を流しながら、一生この人に付いていくと心に誓っていた。
一方その頃。
第一秘書室の自室で、部下から報告を受けていた御曹司(社長)は、書類をめくる手をぴたりと止めていた。
「……なんだと?」
「はい。第二秘書室のキム・ジウ秘書が、昨夜一人でシュレッダーのゴミ箱から破片を回収し、今朝の会議中に乱入して復元資料を届けたそうです。おかげで企画部のプレゼンは大成功を収めました」
「一人で……シュレッダーの紙くずを復元しただと……?」
御曹司の整いすぎた眉が、不快そうに、しかし深くピクリと動く。
昨日のスケジュール変更。
そして今日の、常軌を逸した復元劇と会議室への殴り込み。
(……第二秘書室のあの地味な女、一体何を考えている?)
自分に対して一切怯まず、それどころか他人のために自分を犠牲にして奔走する謎の秘書。
御曹司の冷徹な瞳に、初めて一人の「人間」に対する強烈な興味と疑念の光が宿り始めていた。




