雨の交差点と、ずぶ濡れの推し
「嘘でしょ……? 私がルート変更したせいですべてが終わるなんて……!」
背中に冷や汗が吹き出し、手に持っていた栄養ドリンクの缶を落としそうになる。
ドラマ『シンデレラは定時で帰りたい』の第1話。
雨の午後14時30分。過密スケジュールで焦った御曹司(社長)の車が交差点で急ブレーキをかけ、ライバル財閥の刺客である黄色い大型トラックに激突される。その凄惨な事故現場で、家族の借金トラブルに絶望して歩いていたヒロイン・アヨンが血まみれの御曹司を助け出し、運命の歯車が動き出す――あの伝説のシーンだ。
(あ、あの『運命の事故救出イベント』が、私の無駄に優秀な社畜スキルのせいで消滅しちゃう!!)
(事故を防いだこと自体は命を救ったわけだから良いことかもしれないけど、二人が出会う唯一の接点まで私が完璧に潰したことになるじゃないの!?)
時計を見れば、14時15分。
(ダメよ、こんなところで呆然としてる場合じゃない! 事故が起きないなら、せめて二人がその場で顔を合わせるような奇跡を起こさないと!!)
私はデスクの横から一本のビニール傘をひったくると、ヒールを鳴らしてオフィスを全力で飛び出した。
「ちょっとキム・ジウ! どこ行くの!? 15時からの役員会議の資料差し替えはどうしたの!?」
後ろで第一秘書室のハ先輩がキーキーと金切り声をあげていたが、知ったことか。
今の私には、推しの人生とこのドラマの存続がかかっているのだ!
ビルの外へ出ると、空からはバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り注いでいた。
視界が白く煙るほどの凄まじい大雨。
走る。とにかく走る。
前世の運動不足な体に鞭を打ち、韓ドラの刑事ばりにソウルの街を爆走する。
ヒールの底が滑りそうになり、息が切れ、肺が雑巾のように絞られる感覚に襲われながらも、私はあの運命の交差点へとたどり着いた。
14時29分。
「ハァ…ハァ…ハァ……! ま、間に合った…!」
息を荒げ、物陰になっている建物に滑り込み、交差点を見つめる。
いた!
歩道の端、小さなビニール傘を壊れそうな手つきで差し、小さく身を縮めてバスを待っている女の子。
間違いない。本物のアヨンだ。
素朴で、健気で、今にも消えてしまいそうな可憐な雰囲気をまとった『推し』がそこに立っている。
(可愛い……!!! 本物のアヨンちゃんだ……! 高画質4Kの映像美でも伝えきれない透明感が溢れ出してる……! 画面の向こうで何百回と見たあの子が、いま目の前に……!)
(さあ御曹司! 事故らなくてもいいから、迂回路で通りかかってアヨンちゃんを見つけなさい! 運命の引き寄せを見せなさい!)
ワクワクしながら、雨の降りつける道路を穴が開くほど凝視する私。
14時30分。……来ない。
14時35分。……静まり返る道路。
当然だ。私が完璧すぎる裏道ルートを指示したせいで、御曹司の車は今ごろ快適に江南の反対側を時速60キロで巡航しているはずなのだから。
当然、待ち伏せしていた黄色いトラックと遭遇することも、アヨンと出会うことも絶対にない。
「あ……本当に来ない……。私のせいで、運命が完全に途切れたんだ……」
膝から崩れ落ちそうな絶望が全身を駆け巡った、その時だった。
「キャッ!?」
(来た!?)
バシャアアアアッ!!
突如、交差点を曲がってきた黄色いトラックが、歩道の巨大な水たまりをダイナミックに巻き上げた。
(あんたじゃなーーーーーい!!!!)
濁流のような泥水が、逃げ遅れたアヨンの頭から容赦なく降り注ぐ。
「嫌だ……な、なんで……」
傘は風で吹き飛び、全身泥水まみれになったアヨンが、その場にぽつんとへたり込んだ。
御曹司の車が来ないどころか、ただ理不尽で陰惨な水跳ねの災難だけが彼女を襲ったのだ。
濡れた前髪の間からボロボロと大きな涙をこぼし、寒さに体を震わせるヒロイン。
本来なら、ここで血まみれの御曹司を救うことで『ヒロインとしての強さ』と『ヒーローとの絆』を得るはずだったのに。
(……私のせいだ)
激しい罪悪感が、胸をえぐる。
(私が余計な社畜スキルを発揮して仕事をしたせいで……)
(運命の相手を奪われ、助けてくれるヒーローも現れず、ただ一人で泥水に塗れて泣かされている……!)
(推しにこんな悲しい思いをさせたのは……他の誰でもない、この私だ!!)
「……私のバカーーーッ!!!」
私は自分を罵倒しながら、隠れていた物陰から飛び出した。
泥水をバシャバシャと跳ね上げながらアヨンの元へ駆け寄り、持っていた傘を彼女の頭上に差し出す。
「大丈夫ですか!? 怪我はありませんか!?」
「え……? あ、あの…私…」
見上げるつぶらな瞳。濡れた頬を拭うアヨンが、呆然と私を見つめている。
私はポケットからハンカチを引っ張り出すと、彼女の濡れた顔や髪を夢中で拭った。自分のスーツが泥で汚れることなんてどうでもよかった。
「すみません、本当にすみません…! 寒かったですよね……! 私が守りますから! 絶対にあなたを一人で泣かせたりしませんから!!」
涙目で必死に叫ぶ私に、アヨンは一瞬ポカンとした後、その瞳にじんわりと温かい光を浮かべた。
「あの……私、同じ会社の企画部のアヨンです。あなた……秘書室の方ですよね?」
「はい! 第二秘書室です! 何でも言ってください、私はいつだってあなたの味方です!!」
アヨンはギュッと私の手を握り返してきた。
その手は凍えるように冷たかったが、握り返す力は驚くほど強い。
「ありがとうございます……。こんな風に親身になって助けてくれた人、初めてです……!」
(あ……ヤバい。推しの笑顔が眩しすぎる……! )
こうして、原作の運命の出会いは消滅した。
しかし代わりに、「ヒロインとモブ秘書の、固すぎる友情の歯車」が、もんのすごい音を立てて動き始めてしまったのだった。




