社畜の最期と、二軍秘書室の朝
目が覚めると、視野の端で蛍光灯がチカチカと点滅していた。
顔に伝わるのは、冷たくて硬いオフィスのデスクの質感。漂うのは、使い古されたコピー機と安っぽいインスタントコーヒーの甘ったるい匂いだ。
(……あれ? 私、寝てた……?)
脳裏に、直前の記憶が鮮明に蘇る。
深夜二時。締め切り直前のプロジェクト。三本目のエナジードリンクを一気飲みし、PC画面に向かって社長のスケジュール入力をしていたはずだ。胸を襲った激痛と、視界が途切れる瞬間の感覚。間違いなく、過労死だ。
「ちょっと、いつまで寝てるの? 休憩時間はもうすぐ終わりよ」
上から降ってきた高圧的な声に、私は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、バチバチにメイクを決め、体にフィットした高級ブランドのスーツを着こなした美女だった。
「これ、午後の社長のスケジュール修正案と、役員会議の資料差し替え。私たち、今夜は他社の専務たちと合コン……じゃなくて、外部会食だから。あ、社長のスケジュールはあと5分で締め切りよ。いつも通りよろしくね」
どさりとデスクに置かれる分厚い資料の山。
彼女は鼻で笑うと、ハイヒールの音を響かせて去っていった。
(……誰? ていうか、後5分!?)
寝ぼけた頭のまま、私は目の前のPC画面と手元のスケジュール表に視線を落とした。
長年の社畜経験が、思考よりも先に指先を動かす。画面に表示されているスケジュールアプリと、紙の資料を目で追った瞬間、私の脳内の「優秀な秘書センサー」がけたたましいアラートを鳴らした。
「は……? なにこの欠陥スケジュール。頭おかしいんじゃないの……?」
思わず口から漏れた毒。
14時の社外ミーティングから、15時の本社役員会議。移動時間が物理的に15分足りない。
(……待って、今日の天気予報は午後から大雨だったはず。それにこの時間帯の主要幹線道路って……)
毎朝出社前に交通情報やニュースをチェックするのが染み付いている社畜の習性で、私はデスクのスマホを手にとり、リアルタイムの交通情報を検索した。
画面に表示されたのは、案の定『大規模な道路工事による終日通行止め』の真っ赤な警告だ。
「やっぱり! 工事と雨のダブルパンチで大渋滞確定じゃない! このまま行けば社長の車は絶対に巻き込まれて、役員会議に遅刻するわよ……!」
あり得ない。誰が組んだのこんなの。
私は呆れ果てながら、無意識にカタカタと猛スピードでキーボードを叩き始めた。
14時のミーティングをオンラインに変更。移動ルートを裏道の高速に乗るルートへと修正し、工事区間を完全に回避。空白になった15分のクッション時間に、社長が好むであろう深煎りコーヒーの移動車内手配まで落とし込む。
わずか5分。完璧で無駄のないスケジュールが完成した。
「メール送信……これでよし。……って、私なにしてんの!?」
我に返って立ち上がり、周囲を見回す。
そこは、私の知っているオフィスではなかった。
日当たりが悪く、書類の段ボールが山積みされた狭い部屋。看板には『会長室付 第二秘書室』と書かれている。
第一秘書室が、さっきの美女のように華やかな『会社の顔』なら、第二秘書室は雑務と面倒ごとを押し付けられる、冴えない裏方(二軍)の巣窟だ。
(夢? 労働のストレスで見ている妄想……?)
パニックになりかけた私は、顔を洗おうと廊下へ飛び出した。
しかし、廊下に出て絶句した。
「……長っ!!!」
無駄に広くて長い、大理石の豪華すぎる廊下。窓の外を見上げれば、まるで宮殿のような巨大なビル。
洗面所に駆け込み、鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、黒縁メガネにボサボサの髪、地味なスーツを着た、全く見覚えのない女の顔だった。
「だ、誰……!?」
パニックで頭を抱えたその時、脳内に強烈な既視感が走った。
ドロドロの愛憎、御曹司の継承権争い、理不尽なイジメ、そして美しいヒロイン――。
生前、仕事の合間に唯一の癒やしとして狂ったように見ていた、あの伝説の大ヒット韓国ドラマ『シンデレラは定時に帰りたい』。
(この長い廊下……この威圧感のある社風……そして、第二秘書室の地味な雑務担当……)
「私、ドラマの中の……『名前も呼ばれずに退職するモブ秘書A』に転生してる……!?」
鏡の前で茫然と立ち尽くす。
ということは、さっき私が完璧に修正したあのスケジュールは――。
記憶が高速で再生される。
第1話。雨の日の14時30分。過密スケジュールで焦った社長の車が、ライバル財閥の刺客による黄色い大型トラックに突っ込まれる惨劇。
その事故現場で、家族の借金トラブルに絶望して歩いていたヒロイン・アヨンが血まみれの社長を助け、運命の出会いを果たす、あの伝説の超重要シーン!!
「嘘でしょ……? 私がルート変更して事故を回避させちゃったら……御曹司とヒロインが出会わなくならない!?」
背中に、一筋の冷や汗が吹き出した。




