知らない天井
暗く、温かい。
重力も、時間の感覚さえも失われたような、時の狭間に俺は一人立っていた。
足元には波紋ひとつない水面のような闇が広がり、頭上には無数の星々が流星となって消えていく。
「……あー、クソ。俺、とうとう死んじまったのか?」
アレクセイにボコボコにされ、内臓までひっくり返るようなあの激痛が嘘のように消えている。
だが、その代わりに心にぽっかりと穴が開いたような、ひどい無力感が胸を締め付けた。
『案ずるな。貴公はまだ、こちら側に留まる器ではない』
暗闇の奥から、山のように巨大な銀色の影――フェンリルが姿を現した。
その神々しい双眸が、俺の魂を透かし見るように静かに射抜く。
『覇射の継承者は、貴公一人ではない。アレクセイ……あの紅蓮の暴虐もまた、その力に選ばれた者よ。奴は自らの欲望と暴力を糧に、その力を完成させつつある』
「あいつが、俺と同じ覇射使い……? 冗談じゃねえぞ。あんな奴と一緒にされたかねえ。俺はただ、女の子たちと楽しく、平和にやりてぇだけなんだ」
俺が吐き捨てると、フェンリルは微かに鼻を鳴らした。
それは嘲笑ではなく、慈悲を含んだ溜息のようだった。
『甘いな。貴公がその力を手にした瞬間から、平穏などという言葉は塵に等しい。これより先、覇射を巡る因縁は加速し、やがては国々の存亡を賭けた争いへと波及するだろう。……刃よ、貴公はただ「射る」だけの男か? それとも、その奔流を統べる「覇王」となるか?』
「覇王なんて、柄じゃねえよ……」
『ならば、強くなれ。貴公のその「業」は、もはや個人の欲に留まらぬ。愛でるべき者、守るべき者を抱きしめる腕が欲しくば、世界を圧する覇道を往け。……さもなくば、次に待つのは真なる死だ』
フェンリルの姿が、星の光に溶けて薄れていく。
「おい、待てよ! まだ聞きたいことが――!」
叫ぼうとした瞬間、視界が強烈な白に染まった。
「……っ、う……」
ゆっくりと目を開く。視界に入ってきたのは、見覚えのない豪奢な石造りの天井だった。
「……知らない、天井だ……」
お約束のような台詞が、乾いた喉から漏れる。
すると、すぐ隣から衣擦れの音と、微かに震える吐息が聞こえた。
「……刃、様……? 刃様、なのですか!?」
そこには、目の下にうっすらと隈を作ったシオンがいた。
「シオン……。無事だったか……よかった。アレクセイに蹴り飛ばされて、俺、気が気じゃなくて……」
「何を、仰っているのですか……! 私のことなどよりも、刃様こそ……!」
シオンは俺の手を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流した。
聞けば、シオンは二日前に目を覚ましたらしい。
アレクセイの蹴りで重傷を負っていたはずなのに、自分の手当が終わるやいなや、まだ意識の戻らない俺の側に張り付き、この二日間一睡もせずに看病してくれていたのだという。
「……ずっと、付き添ってくれたのか?」
「……当然、です。目覚めるまで、私が離れるわけには参りません」
シオンの手は少し冷たく、震えていた。
俺が目覚めない恐怖と、ずっと戦っていたんだろう。
安堵の溜息を漏らす俺。
その時、静寂を破るように勢いよくドアが開け放たれた。
「刃! 気がついたのか!」
「刃さん! よかったですぅ……!」
ヴィクトリアと、薔薇騎士団の団服を纏ったアイナが部屋に入ってくる。
俺は慌てて起き上がろうとしたが――。
「っあ、痛てぇッ!!」
全身を、熱い針で刺されるような強烈な痛みが突き抜けた。
「無茶をしないで。貴方、全身打撲に複雑骨折、内臓までボロボロだったのよ。三日間も意識を失っていたのだから」
ヴィクトリアが呆れたように、だがどこか愛おしそうに俺を制止する。
アイナも騎士団員としての凛々しさを見せつつ、心配そうにベッドの横へ寄ってきた。
「刃さん、安心してください。セド村で捕まっていた女性たちは、私たちが全員保護しました。ガリア・グランデさんも、今は別室で安静にしています」
「……そうか。アレクセイに消されたあのアドルフってデブ……結局、何者だったんだ?」
俺の問いに、ヴィクトリアの表情が険しくなる。
「あのアドルフの遺品から、奴隷売買を裏で操る巨大組織の紋章が見つかったの。組織の名は、『深淵の蛇』。アドルフはあくまで幹部の一人に過ぎない。その裏で糸を引くボスの正体は、まだ闇の中よ」
嫌な予感がする。
フェンリルの言っていた「国同士の争い」に関係しているのか。
だが、ふと疑問が湧いた。
「……なぁ、俺の怪我、あんなに酷かったんだろ? 痛みは残ってるけど、骨がくっついてるのはおかしくねーか?」
アイナが花が咲いたような笑顔で答える。
「この国でも指折りの、回復魔法の達人が来てくださっているんです。刃さんが起きたなら、もうそろそろこちらへ……あ、いらっしゃいました!」
コツ、コツ、と軽やかな足音が廊下に響き、部屋のドアが再び開かれた。




