九話:積水成淵・前 夢のみる夢
ドボン、と足が泥水を踏む。夢かと身構えたが、痛みや苦しさはどこにも無くて、璃君の着物も青かった。
「これは」
体に回ったままの腕に力が入る。文字通り抱き締められた織実は、腕の中で抗議した。
「つぶれる! つぶれます!!」
璃君の腕は、すぐにゆるんだ。その隙に逃げようとしたが、見えた景色に身体がすくむ。蠢く暗雲に稲光。土砂崩れのあった悲惨な光景。足元に広がる泥水は、泥水だと思ったそれは、赤かった。
川を染めるほど、多くの人が死んだのか。
巨大な血溜まりと化した池に、物を投げ込んだ事をやや悔やむ。今も赤は溢れ出て、川に広がっている。脈打つように止めどなく。
「どうするんです?」
「助けるしかあるまい」
璃君は池の方を見た。冷たく青い瞳は、何時になく厳しい。
「まだ生きている。気配からして、土地神か地仙の姿身だろう。病んではいるが、そう簡単には死ねぬ」
「…………え?」
池に沈んでいるのは、前世の自分である筈だ。人は混ざっていないのか。考えている間に、一人ザバザバと璃君は血の川を歩き出す。織実は慌てて追いかけた。
赤い水はぬかるんでいて、どろりと重く気持ちが悪い。ふと辺りを辺りを見回すと、山間のようだった。両側は崖で、木々が枝を広げて覗き込むように生い茂る。川幅はあったが、何処までも浅い。赤い水は波打って、上流へと広がるばかりだ。
土砂で、川は分断されている。
巨大な岩が突き刺さり、根本から抜けた緑の木。それが無造作に折られ、土の中から飛び出していた。見上げると、崖が垂直に欠けている。
こんな場所だっただろうか。
汲み出しに必死で、景色など思い出せない。覚えているものと言えば、同僚の骸骨人間だ。声だけは聞こえた、住人達の気配もない。夢に似ていて、夢の中では無いのだろうか。首を傾げたところで、現実へと引き戻される。璃君が近くに居ないのだ。
「あっ!」
顔を上げると、彼はかなり先へと行っていた。すかさず、声を上げて呼び止める。後ろを気にしないのは、何時も通りだ。
「待って、待ってください!」
「来なくて良い」
だからといって、置いて行くことは無いだろう。ゾンビみたいな夢の住人が出て来たら、どうしてくれる。
「過去のあたしが、沈んでるんですか?」
「そうだ」
「人間ですよね?」
璃君は溜息を吐いて足を止めた。
「水を抜けば、すぐ分かる。因縁は解かれるべきだ」
どうにか追い付くと、彼は懐から白紙の札を取り出した。それに息を吹きかける。星座のような図形と漢字が、一瞬にして描かれた。
「樒」
「はい」
「過去は過去だ。気に病まぬよう」
「がんばります」
覚悟など、きっと出来ない。ただ向き合う機会に挑むだけだ。今更引くなんて馬鹿はしない。璃君を見上げると、一つ頷いた彼は腕を横に振り抜いた。青い光が尾を引いて、札は一直線に池の中心へ飛んで行く。
「現出せよ」
ピタリと札が止まる。それはゴムのように横長く伸び、中心からねちゃりと裂け出した。黒い巨大な口が現れて、鋭く不気味な牙をむく。
「な、なんですか、あれ!?」
「魔物の口だ」
璃君の答えにゾッとした。それが空中から、池の水を啜り出す。
悍ましい音と光景に、織実は堪らず耳を塞いだ。すぐさま璃君を盾にする。足元を見ると、水が池の方へと引かれていた。余計なものまで吸わないのだろうか。
「樒」
耳を塞いだまま見上げると、璃君は首を横に振る。川の水は無くなっていた。恐々と池の方に目を向ける。牙の生えた黒い口が、随分小さくなっていた。
「神でも仙でも、体液が含むのは陽の気だ。魔物が喰らえば、毒となる」
「あんなに食べて?」
「頭が悪い。血の香がすれば、構わず喰らう」
絶句した。どんどん縮んだ口は、最期まで水を吸い込み、少し震えると霧になる。いきなり呼び出した上に酷使して、挙句始末までするとは。魔物に恨みでもあるのだろうか。
微妙な気持ちになって、視線を下げる。水の抜けた池は一瞬、巨人の小腸なのかと思うような光景だった。
長くて太い管が、ぐしゃぐしゃになっている。そこから血が数か所、勢いよく噴き出していた。管の上や合間には、無数の人が倒れ込んでいて、とても生きているようには見えない。
「其方を探してくる」
「ちょっ、ちょっと待って!」
平然と行きそうな璃君の袖を、慌てて引っ張る。説明がない、説明が!
「探すって、どうやって?」
「龍に力は残っていない」
「龍? 龍って、毛の生えた蛇みたいな?」
「その、赤黒く腐った肉だ」
「え…………」
小腸に見えたもの、それが全て龍らしい。長すぎる上に、なんともグロテスクだ。年賀状で見るような、龍らしさなど欠片もない。
「其方は此処に。待っていなさい」
「で、でも」
声が震えた。何処にと言えない程の、衝撃だった。巨大な生き物、その悲惨としか言えない状態も。甘くて吐き気をもよおす腐敗臭…………周りに散らばる無数の死体すら。
「待っていなさい。織実、其方の為に言っている」
「でも!」
「龍は救える。人の過去に干渉する権限を、私は持っていないのだ…………十でいい。数えていなさい」
ひらりと璃君は、池の底へと飛び降りた。視力はいい方だ。必死にその姿を追いかける。しかし、どうにも目が霞む。ぼやけて見えて仕方ない。死体と思しき人々は、誰もが酷く痩せていた。
骨が皮と服を着たような――――川水を甕に入れていた仲間達は、生きている時から、あんな姿だったのだ。
ずっと怖かった彼らは、過酷な環境で生き、そして命を落としてしまったようだ。しかも誰にも弔われないような、血まみれの池に沈んで。
「樒」
璃君の声がする。織実は、袖を顔に押し当てた。今はちょっと立ち直れない。
「鯉を飼うなら、何色か」
しかも意味不明な事を聞いてきた。結局人は、自分勝手な生き物である。よく知っているのに、憐れむ気持ちに、蓋が出来ない。見た目だけで判断し、事実を知って意見を変えて。仕方ないと、心の中で弁護する。
怖かったんだから仕方ない。
仕方ないと諦めたのに、自分は救われてしまうのだ。まるで裏切り者のように。
「…………鯉なんて、料理しちゃえば、醤油の色になりますよ」
「そうか」
「あたしは、居ました?」
「…………夢は潰える。其方は、其方のままで居れば良い」
意味が分からず、璃君を見上げた。彼はずっと、池の方を見ている。龍は血を吹き出すまま、人々は倒れ伏し、何も変わらない光景だ。
「後の者は偲ぶしかない。人の生に干渉する事は出来ぬ故、これ以上は無駄足だ」
璃君が、柏手を打つ音が響いた。夢に霧が立ち込める。池の状態は変わらない。前世の自分は、他の人々はどうなるのだろう。駆け寄ろうとした織実の腕は、すぐ掴まった。
「樒」
終わりなのだ。ずっと見続けていた夢が。嬉しい筈なのに、辛い気もする。消えていく悪夢に、織実は静かに頭を下げた。せめて敬意は伝えたかった。
何処からか、水の匂いがする。湿って、ホコリっぽくて。夕立になる前の、風が運ぶ香りだ。
「雨?」
織実はぼんやりと瞼を開けた。自分の部屋の寝台の中。顔の上を、ブチのメダカが通過する。
「…………」
寝起きに、妙なものを見た。ぎゅっと目を閉じ、眉間を揉んでから目を開ける。見間違いでは無さそうだ。顔の上を小魚が一匹、ゆらりと泳いでいる。白地に水色と青のまだら柄という、ソーダフロートのような色合いだ。それにぶつからないよう、起き上がる。
璃君の仕業に違いない。
そっと寝台幕を開くと、部屋に人気はなく、窓の外は珍しく曇りがちだった。仙境でも雨が降るのだろうか。
ひとまず、汲み置いた水で顔を洗って、体も拭き清めておく。何処も汚れてはいないが、血まみれの川を歩いたのだ。気分が悪い。手早く着替えて歩き出した織実の後を、ソーダフロートな魚が、慌てた様子で追ってきた。
「え、あんたも来るの?」
一応聞いてみるが、メダカのような小魚は、体をくねらせるばかりだ。話しは出来ないらしい。階段を降り廂房から出ても、魚は後ろを付いて来る。悪霊の朱鬼に、魂喰らいのミカン。空飛ぶブチのメダカまで、押し付けられてはたまらない。
悪夢を払った報酬に、一匹くらい面倒を見ろとでも言うのだろうか。
たとえそうだとしても、せめて一言、言って欲しい。璃君は言葉が足りないのだ。織実はどんよりした気分で正房に行き、扉を開ける。室内に入ると、背後でポンと音がした。
どうやら、ソーダフロートは正房に入れないようだった。開いたままの扉の傍で、困ったように泳いでいる。体の側面が見えない壁に当たって、ポンと音を立てていた。
「そこに居なさいって、璃君呼んで来るから」
小魚に言い聞かせる。しかし聞こえないのか、また体当たりしてポンと音を響かせた。頭が悪いのかも。嫌な予感がする。魚を飼ったことはないけれど、何度も体当たりすれば弱るだろう。仕方なく正房から出て、両手で魚を捕まえた。
璃君が部屋に居るなら、二階からすぐに降りて来る筈だ。それが無いなら、部屋には居ない。内院に出て空を見上げると、今にも振り出しそうな雲行きだ。その雲に突き刺さるように、裏山から青い光が伸びていた。
「あっちか」
極寒の地だが仕方ない。謎の生き物が「好物は人間」と言い出さないとも限らない。出来れば、可愛いままでいて欲しい。ソーダフロートを両手に閉じ込めたまま、織実は裏口へと向かった。その後ろを、サラサラと衣擦れの音が付いて来る。チラッと見ると、ミミだ。
朝に会うとは、ツイてない。自然と眉が寄った。遠回りになるが、畑の庭を大回りしよう。彼が白慈の所へ行くなら、これでサヨナラ出来る。
しかし、そうではないらしい。ニコニコした顔で、ミミは振り返った織実に手を振った。
「やぁ、樒ちゃん」
「何処まで付いて来る気です?」
「ふふふ、何処までかな?」
答える気はないらしい。嫌がらせか。早足で回廊を進むものの、ミミは優雅に後ろを付いて来る。何なら距離を詰めて来た。
だから嫌なのだ、こういうヤツは。笑顔のひとかけらさえ、向ける価値が無いように思えて渋面なる。
「何を考えているか、当ててみようか?」
しかも、口の減らない男である。織実はげんなりして、背後に顔を向けた。
「結構です」
「眉間にシワ、寄ってるよ」
口許を隠して笑われると、非常にイライラする。その女々しい所作は、妙に色気があって嫌いだし、女好きを隠しもせず、頭の軽そうな軟派男を偽るところも気に入らない。油断すると、痛い目を見るからだ。
彼はよく人を観察している。
「夢見は良くなった?」
ほら来た。もちろんノーコメントだ。何故、報告せねばならない。ミミの暇つぶしに、観察対象になるのは御免である。さっさと撒いて、自由になろう。
織実は両手で持った小魚を宙に逃がすと、欄干を乗り越えて庭木の奥に走って逃げる。優雅な彼は、流石に追っては来なかった。
「何なの一体…………!」
白い花が重そうに咲く馬酔木の陰に隠れていると、ソーダフロートな小魚が、ふよふよと草木の隙間からやって来た。こちらは、置いてかないで、とでも言うような必死さだ。璃君め、また見捨てづらい生き物を…………
「ほら、こっちおいで」
呼ぶと慌てて、顔の近くにやって来た。言葉は一応、理解しているようである。更に捨てにくい。
移動速度が遅いので、再び両手に閉じ込める。小指の半分しかない生き物だが、その鱗は宝石のように僅かな光を煌めかす。ただの空飛ぶブチ柄メダカ、という訳では無いのだろう。織実は溜息をつきながら裏山を登った。
ポツリと水が頬を打つ。斑晶は曇天を見上げた。仙境に雨が降らない訳ではない。しかしここは完全な術中にあり、管理された箱庭なのだ。天候を弄られるなど、大事である。
――――雨は嫌いだ。
斑晶にとっての因縁は、月帝といっても良いだろう。仙にならざるを得なくなったのも、恩人を地に落としたのも、嫁を押し付けたのも。あの神に恨まれているのではと、思うほどの確執だ。
ただ織実の夢に介入し、どんなに訴えても恩人が救えない事は理解した。いや、恩人を二度見捨てたのは自分自身だったのだ。
天秤にかけるまでもない。
選ぶまでも無かった事だ。そう理解していても、事実は少し重く感じる。足元を見れば、波紋が幾重にも広がって、水音が辺りから静寂を締め出していく。雨は嫌いだ。土地が潤ったら、止ませてしまおう。
そう結論付けて踵を返した。裏山の石段を下っていると、織実が麓から昇って来る姿が見える。
肩上で惜しげもなく切り揃えた黒髪が揺れ、深く青い瞳が此方を見詰めた。どうやら、また怒らせたようだった。彼女は大変怒りやすいが、心の底から怒っている訳でもない。
若いが故、持て余す感情が多いのだろう。
「璃君!」
雨に打たれながら、織実は石段を駆け上がって来た。手に持つものは鯉だろう。足を滑らせて転ばせる訳にもいかず、急ぎ足で下山する。
「樒」
「なんで雨!」
開口一番は、それだった。何故雨なのかは、斑晶も訴えたいところだ。
「…………降らせたい訳では、無い」
「雨、嫌いなんですか?」
「嫌いだ」
「くふふっ!」
答えたところ、笑われる。織実の顔色は、何時よりは良かった。淡く神気が身から零れて、強い水の気配を呼び寄せている。眠りの間しか現れなかった濃厚な力が、今の彼女には満ちていた。
あるべき場所に整ったのだ。
それに安堵は覚えるものの、制御は見事に出来ていない。
「今日って雨の日ですか?」
「降らされている」
「誰に?」
「其方だ」
「は?」
織実の眉が寄る。彼女が何故、十代前半の姿をしているのか。それが今ならば分かる。人の三十代は、龍齢で言うところの十四前後。壺に落ちて身を失った為、そちらの姿を取ったのだろう。彼女は龍ではないが、龍と共に長くいた。性質を継いでいるのだろう。
「その冗談、面白くないですよ」
「戯言ではない」
「確かにあたしは雨女ですけど、今日までずっと、晴れてたじゃないですか!」
「其方は修行が足らぬ」
「なっ!?」
事実を告げると、織実は分かりやすく狼狽えた。神気がゆれ、雨足が強まる。水が滲みて色が濃くなる着物を見ていると、嫌な感覚が込み上げた。早く正房に戻ろうと、斑晶は織実を抱き上げる。
「何するんです!」
「正房へ戻る」
「自分で行けますよ!」
「其方は飛べぬ」
悔しそうに彼女は黙った。両手に鯉を持ったまま、むっすりとする顔はやはり幼い。この仙境から出せば、成長は出来るだろう。しかしその年月は、人の数倍は遅い。
教えればきっと、怒るのだろうな。そう思ったところで、つい笑ってしまった。
「な、なに笑って…………!」
「他意はない」
「あるから笑った癖に!」
「其方はすぐ怒る」
「怒らせてるのは、誰ですか!」
自分なのだろうか、と一瞬考え否定する。彼女は「ひとまず」怒るのだ。その裏に、違う素顔を隠しながら。今回は何だろうかと、抱き上げた娘の顔を覗き込む。彼女は何故か、ぎょっとした様子で慌ててから、両手の中身を押し付けてきた。
「変な生物を、人の部屋に放置しましたね!」
「変とは? それは鯉だが?」
「は?」
「其方の夢から、掬い上げた…………ふむ、変わった名付けをしたものだ」
仙境の主は、戸籍簿を見るまでもなく、住人の諱を把握する。諱で命じれば、行動を縛れるからだ。それこそ、追放を命じれば自害させられる程の力でもある。
それ故に号で呼ばれ、恭順を示されるのだ。
諱の権限を使った事は未だに無いが、鯉の諱が蘇打なのは、どうなのだろう。 また食べ物が由来になっている。
倭国の人間は、祖国と違い食品の名を平然と呼名にしてしまう。また別の生き物を与えたら、どんな名付けになるのだろうか。知りたいような、知りたくないような、複雑な気分だ。
「名前なんて付けてませんよ? 本当です!」
彼女にはまだ、鯉が何者なのかを伝えていない。それでも諱は決している。無意識下でお互いが了承したに違いない。権限を使ってまで、それを変えさせる事は無いだろう。
「其方との繋がりが強いのだ。胸の内で、何度も呼んでいたのであろう?」
「…………えっ。まさか、ソーダフロート!?」
「諱を呼ばぬよう」
注意すると、織実は慌てた様子で視線を彷徨わせた。そして項垂れ顔を覆った。
「そんな、つい呼びそうな名前だなんて!」
名とはそういうものだろうに。斑晶は首を傾げたが、彼の妻は何時までも落胆しているようだった。




