九話:積水成淵・中
織実を抱えて正房に入った璃君の行動は、相変わらず読めたものではなかった。
「そこに」
言われた織実は、ぼんやりと諦めの心境で床に立つ。しかしその油断が悪かった。いきなり服の水気を吹き飛ばされて、尻もちをつく。
「にゅわっ! ななな、何するんですかっ!」
「そのままでは、風邪をひく」
だからといって、告知もなく変な事をしないで欲しい。床の上では、ソーダフロートがぴくぴくと痙攣しながら、跳ねていではないか。
魚に恨みでもあったのか、扱いが更に酷すぎる。
クワバラクワバラ…………慌てて拾い上げるが、文句を言う気力は出なかった。代わりに、どんよりとした溜息が出る。なんというかもう少し、優しさと言うものがあっても、良いのではなかろうか。
ふと璃君を見ると、呑気に茶器を出している。何処からツッコめば良いのだろう。遠慮のない璃君。もはやパワーワードでは。何故か背筋までうすら寒い。
「樒」
「は、はい」
「椅子に座りなさい」
「…………はーい」
何故床に座っているのか、なんて考えもしないのだろう。ぐったりとしているフロートを庇いながら、織実は渋々近くの椅子に腰掛けた。
「この茶葉は、晶の所で作っているものだ」
そしてこの、脈絡のない会話である。本当に仙人様は自由人だ。
「…………えっと、誰です?」
「壺中七仙の第四位、水晶の仙境を司る天仙だ。以前、其方が調べさせた氷室野菜の提供元、と言えば分かるか?」
「ええと」
何だろう。変な物ではないから確かめろ、とでも言うのだろうか。いや、あれの原因は分かったハズだ。織実は、目の前に置かれた茶葉を凝視する。お湯を入れたら、葉っぱの形に戻りそうな大きさだ。手揉みだろうか。
「お、お湯入れましょうか?」
ともかく下手に出てみる。璃君は黙って頷いた。出されていた急須に茶葉を入れ、火鉢から鉄瓶を持って来る。なんとも怪しい茶葉だから、湯冷ましは掛けずに熱湯を注いだ。三十数えて、急須の蓋を開けてみる。
渋みと青みのある、深蒸し茶のような香りだ。
湯呑を熱湯で温めてから、お茶をゆっくりと注ぎ込む。渋緑の茶が出てきた。問題は無さそうだ。
「飲んでみなさい」
「…………は、はい」
まさか、怪しんだ事を根に持っているのだろうか。織実は湯呑を持ち上げた。胃腸は頑丈なのだ。女は度胸!
「…………苦味が少なくて、飲みやすいです」
なんと普通の緑茶だった。やや渋いが、許容範囲だろう。感想を述べると、璃君も湯呑を傾ける。それに、妙な緊張感を覚えた。遠慮が無くなっただけでも大変なのに、これ以上変になられてはたまらない。料理中に垂れ流すらしい気は、お茶汲みでも流れ出るのだろうか。
それを誰かに食べられているなんて、なんだか、いや、かなり嫌な気がする。
「ふむ。煎れ方にもよるが…………樒は少々、蒸らしすぎであろう」
「そうですか?」
「貸してみなさい」
璃君は長い袖を押さえて、節の目立つ指先で、茶葉を湯呑に直接入れる。そこへ湯を入れ、蓋をすると少し揺すってから捨ててしまった。一番茶は飲まないのか、と織実は目を丸くする。というか、急須すら使わないなんて、雑なやり方だ。
これも遠慮の無くなった影響なのか。
複雑な心境になって、ぐぬぬ、と内心呻いてしまう。璃君はふやけた茶葉の入った湯呑に、また湯を注ぎ入れた。
「樒、眉間にシワが」
ミミのような事を言わないで欲しい。シワとは、寄るところには寄るものだ。彼は一瞬、なんとも言えない表情をしたものの、湯呑の蓋で茶葉を押さえて、別の湯呑に中身を注ぐ。それを差し出してきた。
「飲んでみなさい」
あんな短時間で、お茶が出るはずもない。色の薄さに、織実はやれやれと言った風に口付けた。ふわりと、優しい味がする。香りは甘く、渋さが口に残らない。
「この煎れ方は火傷が危ない、真似をしてくれるな」
珍しく感情のこもった璃君の声は、笑うのを我慢するかの様に揺れていた。一瞬、呆気に取られる。そんな自分を誤魔化したくて、顰めっ面になってしまった。
「…………馬鹿にしてます?」
「怪我はさせられぬ」
では何故に教えたんだ、と一瞬思って思考を放棄する。美味しいお茶を飲ませたいとか、そんな事を璃君がするとは思えない。あっても困る。そして沈黙が妙に辛くなってきた。
「あの、朝ごはん作りに行っても、良いですか?」
「まだ其方は空腹なのか…………暫し待て。その鯉の事を話さねばならぬ」
一応、存在は覚えていたようだ。さっき半殺しにしかけたくせに。それすら無自覚だったら、どうしよう…………ともかく、フロートの生存率を上げる為には、名前くらい覚えて欲しい。
「この子の諱は、ソーダなんです?」
「蘇打と書く」
璃君は指先で字を書いた。普通に現代中国語ではないか。意味は、見事に炭酸水のソーダである。
「えぇぇ…………」
「其方が決めたのであろう」
「だって、色合いが…………」
頭の方は白地が目立ち、次第に水色のブチ柄に青が濃くなる。青系の三毛猫みたいな小魚だ。
「いずれ数尺に…………三メートルと言えば分かるか?」
「三メートル!?」
「幼体になれば知能も上がり、多少の大きさは誤魔化せるだろう」
「いやいやいや、そういう問題じゃ!」
このメダカ、そんなに大きく育つのか。何を食べるんだろう。というか幼体になるって、何だ。そんな怪しげな生き物を飼えと言うのか?
「璃君が育てて下さいよ!」
「何故だ?」
「何故って…………拾ってきたの、あなたでしょう!?」
朱鬼といい、ミカンといい、連れて来たのは璃君以外にありえない。
「それは其方の因縁だ。故に、私の元に置く意味はない」
「因縁? え、もしかして、あたしの夢から、連れて来たんですか?」
「死にかけの龍だ」
「…………は?」
璃君のせいでぐったりしている、このブチのメダカが龍? まさか、巨人の小腸みたいだった、あれか!? 織実はあんぐりと口を開いて、言葉を失った。
「鯉は蜥蜴になり、やがて龍となる。龍になれば天に昇って、籍と仕事を貰うのだ。そうでなければ、冥府の役人に狩られ、使役されるか、病んで魔物と成り代わる」
「ええっと、あたしの前世って、一体…………?」
聞くのは怖いが、龍と因縁があって只人というのは望みが薄い。ドラゴンハンターでもしていて恨みを買っていたのなら、育てろ、とはならないだろう。
「其方はまだ、知る必要の無い事だ。自身を律する事も出来ぬのに、正体を知ればどうなるか」
「えっ!? けち! あたしの事なのに!」
「何とでも言え」
璃君は静かに茶をすする。見事に言う気が無さそうだ。このままでは気功修行とか、言われかねない。逃げるか?
「樒」
「っはい!」
「スーダの字を考えなさい」
「そんなの、フロートに決まってます!」
叫んだ織実は、耐えきれずに全力で正房から逃げ出した。
雨だからといって、朝食抜きはあり得ない。璃君と居ても、何か気まずいので退散だ。
何故にこちらが、こんな思いをせねばならないのだろう。多分きっと、璃君が悪い。ふと目に止まった、内院の飛び石のそばに生えている、小さめのオオバコを毟って、そのまま回廊に逃げ込んだ。
雨の仙境は、打たれた花が再生する光をそこら中で宿す為、薄暗いながらもキラキラと輝いている。
星空に溶ける白い息。満開の桜や紫陽花。夏の花火に、色づく紅葉も。
以前は綺麗だと思っていたモノが、今は随分と色あせてしまった。思い出してもそれだけのような、虚しさがある。心が揺さぶられるような、あの感動がやって来ないのだ。
「毒されてるな」
思い出を、思い起こし過ぎたのだろうか。それとも、より美しいものを、知ってしまったか。
「やってらんない」
仙境にいるだけで、価値観を塗り替えられてしまう。それがどうにもやるせない。織実は足元に視線を落とした。見知った素朴な草花だけが、現実の欠片のように咲いている。
「あ、スミレ!」
面倒だから、両方とも素揚げにしてしまおうか。雨の空を見上げて、織実は溜息をついた。久方ぶりに見る雨足は、霧雨とは言えない程の降りである。やはり、なんだかんだで憂鬱だった。
そんな空模様なので、朝食は朱鬼の部屋先に整えた。少し肌寒いものの、湯気の上がるスープに揚げ物は食欲を誘う。ただ、二人の視線はずっと、フロートに釘付けだった。空飛ぶメダカ。気にならないハズがない。
「この子は、フロートと言います。仲良くね!」
満を持して紹介すると、朱鬼は言いにくい様子で口ごもり、ミカンは瞳を輝かせた。
「美味そう!」
「食うな!」
不服そうな視線が、織実の上を泳ぐフロートを追っている。狐も猫じゃらしに飛びつくのでは、そんな雰囲気だ。黙ってスープの椀を進めておいた。食べていいのはこっちだけだぞ。
「どこで見つけたの?」
幸い朱鬼は、食べ物に見えないらしい。けれど嫌がらないという事は、この魚はメスなのだろうか。悪夢の元凶にして、巨人の小腸のようなグロテスクな姿だったが、今は割かし可愛い見た目をしている。
「璃君が拾ってきた」
「…………」
どうして不満そうなのか。そしてミカンは、一気に機嫌を良くしたようだ。
「俺のコウバイ!」
「後輩ね」
言い間違えを訂正いないと、間違ったまま覚えるとか聞いてない。げんなりしつつ揚げ物を口にする。味に問題はない。垂れ流しにされいるらしい、気も感じない。おまけに空腹も感じなかった。やはり、数パーセント璃君を服用したのがマズかったのか。
人から人生の楽しみを奪いやがって…………一体、何日経てば空腹を思い出すのだろう。それとも、本当に食べなくても平気だろうか。試したくはないけれど。
「おい、フロート! センバイだぞ!」
どこまでもミカンの耳は悪かった。もう諦めようか。横目で見ていると、くるりと宙に飛び上がったミカンが、白い煙を纏う。ポンと景気のいい音と共に、三歳くらいの幼い少年が現れた。しかも全裸で。
「きゃーーーっ!」
朱鬼が叫ぶ。織実は慌てて、自分の背子をミカンに掛けた。赤い目にオレンジの髪。そのふわふわの髪の中から、三角の耳が立っている。もちろん、しっぽもふわふわだ。
「へくしッ! 寒いぞ!?」
「服のこと考えなさいよ!」
呆れた声が出た。そりゃあ全身高級毛皮のキツネ姿と、人間の幼子では体感温度が違うだろう。人に化けた事より、寒さに気付かなかった方に気が遠くなりそうだ。
「服、うーん、ちょっと白慈に聞いてくる!」
なにかと璃君には会いずらい。織実は雨でけぶる回廊を駆けだした。不思議と身体が軽い気がする。肌寒いのに、それすらも不快ではないような。気分がいいのに、いやちょっと待てよ、と心の中で警鐘が鳴る。
悪夢からは解放されたかもしれないが、新たな問題が浮上した。
「あたしの食欲を返せーーー!」




