凍てつく土と希望の種
「ここが、アイゼングラード近郊で最も土壌が痩せていると言われる、第十三開拓村です」
御者台から降りたギルが、馬車の扉を開けながら言った。
吹き抜ける風は、王都の真冬のように冷たく、私の頬を容赦なく叩く。目の前に広がるのは、黒々とした森を切り拓いて作られた、寒々しい農地と数十軒の丸太小屋だった。
村の広場には、すでに数十人の村人たちが集まっていた。
彼らの顔には一様に深い疲労と、越冬への絶望が刻み込まれている。着ている服はつぎはぎだらけで、子供たちの頬は寒さと栄養不足で赤くひび割れていた。
「村長のトーマスと申します。辺境伯閣下より、王都から『農業の専門家』がお見えになると伺っておりましたが……」
進み出てきた白髪の痩せた男性——トーマス村長は、私を見るなり戸惑いの表情を浮かべた。
無理もない。いくら実用的なドレスに着替えたとはいえ、私の肌の白さや身のこなしは、どう見ても土にまみれて生きてきた農婦のそれではないからだ。彼らの目には、気まぐれで視察にやってきた貴族のお嬢様にしか映っていないだろう。
「セレスティアと申します。トーマス村長、突然の訪問をお許しください。本日は、この村の畑の土壌改良と、新しい作物の植え付けの指導に参りました」
「新しい作物、ですか……」
村長は深くため息をつき、ひび割れた大地に視線を落とした。
「お嬢様、お言葉を返すようですが、この村の土は『呪われている』のです。何を植えても根が腐り、運良く芽が出ても、秋の長雨で穂は黒く変色してしまう。今年の麦も、あの忌まわしい黒カビ(麦角)とやらにやられ、バルトロ様の指示で泣く泣く大半を焼却したばかりです。……もう、我々には冬を越すだけの体力も、希望も残っておりません」
村人たちの中から、すすり泣くような声が漏れた。
「呪い」。王都でもこの北の地でも、人々は理解できない自然の脅威をそう呼ぶ。
かつての私なら、彼らと共にひざまずき、神に祈りを捧げていただろう。しかし、今の私には「知識」という名の武器がある。
「村長さん。これは呪いではありません。ただ、この土地の土の性質と、植えている作物の相性が決定的に悪かっただけなのです」
「相性が悪い……?」
「ええ。ご案内いただけますか? 実際に畑を見せてください」
私は足早に、村の中心にある最も広い畑へと向かった。
しゃがみ込み、素手で硬く冷たい土を掘り返す。王都のふかふかした土とは全く違う、粘土質で水はけの悪そうな、赤茶けた土だった。
「……やはり、強い酸性土壌ですね。それに加えて、この冷涼な気候。麦が育たないのは当然です」
私は立ち上がり、村人たちをぐるりと見渡した。
「皆さん、各家庭の暖炉から『木灰』を集めてきてください。それから、森に入り、腐葉土——落ち葉が黒くフカフカになった土——を可能な限り集めてください。すぐに土壌の改良を始めます!」
私の凛とした声に、村人たちは顔を見合わせた。
「木灰だと!?」
「そんな燃えカスを畑に撒いて、どうなるっていうんだ?」
「それに、お嬢様が土壌改良って……ご自分の手が汚れるのもお嫌でしょうに」
ひそひそと、疑念の声が波のように広がる。
言葉で説得するよりも、行動で示すのが一番早い。
私は大きく息を吸い込むと、着ていたネイビーブルーのドレスの裾を思い切り捲り上げ、帯の端でしっかりと結び留めた。ふくらはぎの半ばまでが露わになり、村の男たちがギョッと目を剥く。
さらに、邪魔な袖も肘の上まで捲り上げ、私は迷うことなく、泥だらけの畑の中央へと足を踏み入れた。
「セレスティア様!?」
付き添ってきた村長の悲鳴のような声が響く。
「見ていてください。木灰には、土の強い酸性を中和し、作物の根を強くする『カリウム』という栄養素がたっぷり含まれているのです。燃えカスなんかではありません。この土地を蘇らせる、まさに魔法の粉です」
私は近くに立てかけられていた、村人の使い古した重い鍬を手に取った。
神殿の裏庭で毎日振るっていたとはいえ、男用の重い鍬だ。気合を入れて振り上げ、凍てつく土に叩き込む。
ザクッ!
鈍い音と共に、土がひっくり返る。
「えっ……」
「嘘だろ、貴族のお嬢様、本気で鍬を振ってるぞ……」
村人たちのざわめきが、戸惑いから驚愕へと変わっていく。
私は何度も鍬を振り下ろし、土を耕した。すぐに息が上がり、額から汗がにじむ。マメだらけの手のひらが柄と擦れて痛むが、そんなことは気にならなかった。
「……貸せ」
不意に、背後からスッと手が伸びてきて、私の手から鍬が奪われた。
振り返ると、いつの間にか外套を脱ぎ捨て、身軽なシャツ姿になったギルが立っていた。
「ギ、ギルさん?」
「あんたの細腕じゃ、日が暮れるまでにこの畑の半分も終わらない。やり方を教えろ。俺がやる」
彼の灰色の瞳は、相変わらず感情が読めない。だが、その言葉には絶対的な信頼感があった。
「ありがとう……! じゃあ、そこの深さまで土を掘り返して、空気を混ぜ込むようにして!」
「承知した」
ギルが鍬を構えた瞬間、空気が変わった。
ドスッ、ザンッ、ザクザクザクッ!!
「なっ!?」
「は、早すぎる……っ!」
村人たちが(そして私も)度肝を抜かれた。
彼が鍬を振り下ろす速度は、熟練の農夫の五倍、いや十倍は速かった。元暗殺者として鍛え上げられた人間離れした筋力と体幹、そして無駄のない体重移動が、完璧な『農作業』として発揮されているのだ。
まるで旋風のように、あっという間に畑の一角が耕されていく。
「ぽかんとしている暇はないぞ。灰と腐葉土を早く持ってこい」
涼しい顔で鍬を振るいながら、ギルが村人たちに発破をかけた。
その言葉にハッと我に返った村人たちは、まるで魔法を見せられたかのように慌てて動き出した。
「お、おい! 早く灰を集めろ!」
「森へ行け! 落ち葉をかき集めるんだ!」
先ほどまでの絶望感はどこへやら、村中が異様な熱気を帯びて動き始めた。
集められた木灰と腐葉土を、ギルが凄まじい速度で耕していく土に、私と村人たちで均等に混ぜ込んでいく。
灰が混ざることで、赤茶けて硬かった土が、少しずつ黒く、そして柔らかく変化していくのが分かった。
「土が変わっていく……」
村長のトーマスが、ふかふかになった土を両手で掬い上げ、震える声で呟いた。
「ただの燃えカスと落ち葉で、こんな……」
「これだけではありませんよ、村長さん」
私は用意してきた木箱を開けた。
中には、王都から持ち込んだ『大地の林檎(芋)』がぎっしりと詰まっている。
「これが、この村を救う新しい作物です。寒さに強く、この酸性土壌でも驚くほど育ちます。何より、地中で育つため、あの黒カビの被害に遭うことは絶対にありません」
私はナイフを取り出し、芋をいくつかの塊に切り分けた。
「大事なのはここからです。切り分けた芋の断面から病気が入って腐らないように……こうして、切り口に『木灰』をたっぷりとまぶします」
真っ白な断面に、灰色の木灰をポンポンと叩きつける。
村人たちは食い入るように私の手元を見つめていた。
「こうすることで、灰が薬の代わりになり、傷口を保護してくれます。あとは、芽の出る部分を上にして、間隔を空けて土に植えていくだけです」
「なんと……そんな簡単なことで……」
「さあ、皆さんも手伝ってください! 冬が来る前に、一株でも多く植え付けましょう!」
私の声に、村人たちが一斉に動き出した。
大人も子供も、芋を切り、灰をまぶし、柔らかくなった土に丁寧に植え付けていく。
「おい、もっと深く掘れ!」
「灰はしっかりまぶすんだよ!」
飛び交う声には、確かな活力が宿っていた。
私も泥まみれになりながら、彼らと一緒に芋を植え続けた。
顔に泥が飛ぼうが、爪の間に土が入り込もうが、全く気にならなかった。むしろ、この土の匂いこそが、私が生きている証であり、民を救う力なのだ。
────
太陽が西の山並みに沈みかける頃。
村の最も大きな畑には、等間隔に美しい土の畝が並び、無数の希望の種芋が眠りについていた。
「終わった……」
「俺たちだけで、たった一日でこんなに……」
泥だらけになった村人たちが、夕日に照らされた畑を見渡しながら、感嘆の声を漏らす。
その顔には、朝の絶望感は微塵も残っていなかった。
「セレスティア様」
村長のトーマスが、私の前に歩み寄り、深く、深く頭を下げた。
「貴方様は、本当に……我々を救いに来てくださったのですね。貴方様のような方が泥にまみれ、我々に生きる術を教えてくださったこと。この御恩は、第十三開拓村の皆、末代まで忘れません」
「村長さん……」
「我々は、この作物を『聖女の林檎』と呼び、大切に、大切に育てます!」
「せ、聖女の林檎だなんて、そんな大げさな……!」
私が慌てて両手を振って否定すると、村人たちからドッと温かい笑い声が起きた。
その笑い声の中心で、私は言葉にできないほどの幸福感に包まれていた。
私が求めていたのは、高い神殿の玉座からの見せかけの敬意ではなく、こうして共に汗を流し、共に笑い合える、この泥臭い温かさだったのだ。
「……よくやったな」
ふと、傍らから低い声が降ってきた。
ギルだった。彼もまた、汗と土にまみれているが、その表情はどこか清々しい。彼から差し出された水筒を受け取り、私は一口飲んでから、最高の笑顔を向けた。
「ギルさんのおかげです。あの人間離れした耕作スピードがなければ、絶対に終わりませんでした」
「俺の暗殺術が、まさか畑を耕すために役立つ日が来るとは思わなかったがな。……閣下に報告すれば、腹を抱えて笑われるだろう」
ギルが、微かに、本当に微かにだが、口角を上げて笑った。
その珍しい笑顔に、私は少しだけ見惚れてしまった。
「さあ、日が暮れる前に城へ戻るぞ。閣下が、首を長くしてあんたの報告を待っているはずだ」
「はい!」
私は大きく頷いた。
城で待つ、あの氷河の瞳を持つ不器用な辺境伯。
彼に、この村で起きた小さな、けれど確かな『奇跡』の第一歩を報告するのが待ち遠しい。
馬車に乗り込む前、私はもう一度だけ、夕日に染まる畑を振り返った。
今はまだただの土の畝だが、数日もすれば、ここから青々とした希望の芽が顔を出すだろう。
北の辺境領を覆っていた飢えと死の影を、私自身のこの手で、必ず払拭してみせる。
心地よい疲労感と共に、私の心はこれからの戦いへの期待で、熱く高鳴っていた。




