反発の会議と、新たな可能性
柔らかな朝の光が、厚手のカーテンの隙間から差し込み、私の瞼を優しく叩いた。
目覚めた瞬間、一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなくなる。王都の冷たい地下牢の幻影が脳裏をよぎり、ハッとして身を起こした。だが、視界に飛び込んできたのは、昨日案内されたアルジェント城の暖かな客室だった。
「……夢じゃないんだ」
胸をなでおろし、深く息を吐き出す。
ベッドから足を下ろすと、毛足の長い絨毯が足裏を心地よく包み込んだ。地下牢の冷気で凍りついていた体が、この一晩で驚くほど回復しているのを感じる。やはり、温かい食事と清潔な寝床の力は偉大だ。
「セレスティア様、お目覚めでしょうか?」
控えめなノックの音と共に、可愛らしい声が響いた。
扉を開けて入ってきたのは、昨日ルキウス様が手配してくれたという私専属の侍女、ニナだった。彼女は栗色の髪をきっちりとまとめ、赤地に白いエプロンという、辺境領特有の素朴で愛らしいメイド服に身を包んでいる。
「おはようございます、ニナ」
「おはようございます! よくお眠りになれましたか? ……まぁ、お顔の色が昨日よりずっと良くなられて、安心いたしました!」
ニナは人懐っこい笑顔を咲かせ、抱えていた衣服を丁寧に椅子の上に広げた。
それを見て、私は思わず声を漏らした。
「これは……私の服、ですか?」
そこに用意されていたのは、王都の貴族令嬢が着るような、フリルやレースが過剰にあしらわれた華美なドレスではなかった。
上質なウールで作られた、深いネイビーブルーのドレス。胸元や袖口には防寒のための美しい刺繍が施されているが、全体的にすっきりとしたシルエットで、何よりスカートの丈が足首が見える程度に短く仕立てられている。動きやすさを最優先に考えられた、だが非常に気品のある『北方の作業服』とも言えるドレスだった。
「はい! 旦那様からのご指示で、セレスティア様が窮屈な思いをせず、いつでも動き回れるようにと、領内で最高の手仕立て屋に大急ぎで用意させたものです。お気に召すと良いのですが……」
「いいえ、最高です。本当に素晴らしいわ」
私は胸を高鳴らせながら、そのドレスに袖を通した。
生地は厚手で驚くほど温かく、それでいて体を動かしてもどこも突っ張らない。コルセットで無理に腰を締め付けることもなく、大きく息を吸い込むことができる。王都の神殿で着せられていた、汚れを許さない純白のドレスが、いかに不自由な鳥籠であったかを思い知らされる。
「とてもお似合いです、セレスティア様! まるで、最初から北の地にいらした方のよう」
「ふふ、ありがとう、ニナ。さあ、髪をまとめたら、すぐに会議室へ向かいましょう。辺境伯様をお待たせするわけにはいかないわ」
ニナに手伝ってもらい、長い金髪を活動的に三つ編みにして後ろでまとめる。
鏡に映る私は、もう悲劇のヒロインでも、哀れな囚人でもなかった。自分の足で立ち、自分の知識で戦おうとする、一人の人間の顔をしていた。
────
執事の案内に従って赴いた城の会議室は、早くも独特の緊迫感に包まれていた。
部屋の中央に置かれた巨大な長円形のテーブルの端には、すでに数人の男女が着席しており、その中央に、昨日と変わらぬ威厳を放つルキウス様の姿があった。
「入ってくれ、セレスティア。待っていた」
ルキウス様が声をかけると、テーブルを囲む幹部たちの視線が一斉に私に集中した。
その視線の中には、明らかな好奇心と、それ以上に強い『不信感』と『敵意』が混ざり合っていた。
無理もない。彼らにしてみれば、王都で「悪魔と契約して呪いを撒き散らした」とされ、火刑寸前だった元聖女が突然現れたのだ。しかも、主君がわざわざ凄腕の密偵を雇ってまで連れてきたとなれば、警戒しない方がおかしい。
「ご紹介いたします。王都よりお招きした、セレスティア嬢だ。これより我が領の農業改革の顧問として、多大なる尽力を期待している」
ルキウス様が淡々と紹介するが、すぐに一座の端に座っていた、白髪混じりの頑固そうな老人がバンと机を叩いて立ち上がった。
「閣下! 畏れながら申し上げます! いくら閣下のご決断とはいえ、王都の教会から魔女として追放されたような小娘を、我が領の将来に関わる農業計画に参画させるなど、到底承服しかねます!」
彼の名はバルトロ。長年、アルジェント辺境領の農業農務を一手に引き受けてきた、老農官だ。彼の顔には、これまで培ってきた経験への自負と、若い私への侮蔑が露骨に浮かんでいた。
「バルトロ、言葉が過ぎるぞ。彼女の知識の有用性は、私が直々に確認している」
ルキウス様の氷河のような瞳がバルトロを射抜くが、老農官も引かない。
「知識ですと!? 農業を何年やっておられるかは知りませんが、王都の温室で育ったお嬢様に、この北の凍てつく大地の何が分かるというのです! 聖女だか魔女だか知りませぬが、我々に必要なのは神への祈りでも、妖しげな術でもない! 泥にまみれ、額に汗して得る現実の収穫です!」
バルトロの言葉に、他の数人の騎士や文官たちも同調するように頷いた。
会議室の空気が、痛いほどに冷え込んでいく。
ルキウス様がさらに強い言葉で彼を黙らせようとした、その時。
私は一歩前へ出た。
「バルトロ様。仰る通りでございます」
私の声に、バルトロが意外そうに眉をひそめた。
「……何だと?」
「私も、神への祈りだけで、領民のお腹が膨れるとは思いません。そして、この荒れた両手を見ていただければお分かりの通り、私もまた、泥にまみれて生きてきた身にございます」
私は袖をまくり、昨日ルキウス様が「美しい」と言ってくれた、マメだらけで荒れた両手を彼らに見せた。
王都の聖女らしからぬその無骨な手に、バルトロだけでなく、周囲の騎士たちも一瞬言葉を失った。
「私が神殿を追われたのは、祈りを捨て、土をいじり、実学としての農業で民を救おうとしたからです。バルトロ様、貴方にお伺いしたい。今、この領地で収穫されているライ麦のなかに、先端が黒く変色し、まるで動物の爪のように角ばった形に変形した麦が混じっていませんか?」
私の具体的な指摘に、バルトロの目が見開かれた。
「確かに、今年の収穫にはそのような奇妙な麦が混じっておる。だが、それはただの一時的な不良で——」
「違います。それこそが、王都を滅ぼしかけている奇病の正体、『麦角』です」
私は席に着くよう促されるのも待たず、用意してきた資料を机の上に広げた。
「これは呪いでも悪魔の仕業でもありません。過湿な環境でライ麦に寄生する菌類、つまり『カビ』の一種なのです。この黒い麦角には、エルゴタミンをはじめとする強力な毒素が含まれています。これを摂取し続けると、末梢血管が激しく収縮し、手足の先への血流が途絶え、まるで焼かれるような激痛と共に組織が壊死して脱落します。さらに、脳の神経を侵し、恐ろしい幻覚や痙攣を引き起こす。……これが、王都で大流行している『悪魔の呪い』の真実です」
私の淀みのない、そして論理的な説明に、会議室の全員が息を呑んだ。
王都で起きている惨劇の噂は、当然この北の地にも届いていた。それが「悪魔の呪い」ではなく「カビの生えた麦」のせいだというあまりにも現実的な説明に、誰もが反論の言葉を見つけられずにいた。
「バルトロ様、貴方はその黒い麦をどう処理されていますか?」
「……出来損ないゆえ、家畜の餌にするか、あるいは貧民街への配給に回して……」
バルトロの声が、みるみるうちに青ざめていく。
「それは絶対に止めてください!」
私は軽く机を叩いた。
「家畜に与えれば流産を引き起こし、肉や乳も汚染されます。民衆に与えれば、王都と同じ地獄がこのアイゼングラードに再現されるでしょう。今すぐ、すべての倉庫のライ麦を検査し、黒い麦角が混入しているものは一粒残らず廃棄、あるいは焼却処分にしてください。これが、私がこの領地で最初に行うべきだと提案する、緊急措置です」
沈黙が、会議室を支配した。
先ほどまで私を「小娘」と見下していたバルトロは、ガタガタと小刻みに震え、額から大粒の汗を流している。自分の無知が、領民たちを虐殺しかけていたという事実に、彼は恐怖を隠せなかった。
「しかし……」
沈黙を破ったのは、騎士団長らしき大柄な男だった。
「セレスティア嬢の言うことが真実だとして、その汚染された麦をすべて破棄すれば、我が領の冬の食糧は完全に枯渇する。奇病は防げても、餓死する者が続出するのではないか?」
「その通りです。だからこそ、代替作物が必要になります」
私は微笑み、ニナに持ってきてもらった小さな木箱を机の上に置いた。
中には、私が王都から大切に持ってきた、いくつかのゴツゴツとした茶色い塊が入っていた。
「これが、私が提案する救国の作物、『大地の林檎(芋)』です」
「芋、だと……? そんな家畜の餌のようなものを、我々に食えと言うのか?」
騎士団長が怪訝な顔をする。この世界において、芋は家畜の餌、あるいは極限の貧民が植え口をしのぐための卑しい食べ物とされていたのだ。
「その認識を、今日限りで捨ててください」
私はきっぱりと言い放った。
「この『大地の林檎』は、寒冷な気候に極めて強く、小麦やライ麦が育たないような痩せた酸性土壌でも驚くほどの収穫量を誇ります。さらに重要なのは、地中で育つということです。麦のように、長雨の湿気で穂にカビが生えるリスクが物理的に存在しません。つまり、麦角中毒とは完全に無縁の、安全な主食になり得るのです」
私は木箱から一つ芋を取り出し、ナイフで半分に切って見せた。みずみずしい白い断面が覗く。
「この芋は、水分と澱粉質の塊です。正しく調理すれば、麦以上の満腹感を得られます。しかも、栽培にかかる期間は麦の半分以下。今から領内の畑の土壌を改良し、適切な方法で種芋を植え付ければ、本格的な冬が到来する前に、最初の収穫を終えることも十分可能です」
バルトロが、這いつくばるようにして私の手元の芋を見つめた。
「土壌の改良……? 先ほど、閣下に木灰を使うと仰っていたな。だが、この北の凍てついた土を、本当に変えることができるのか?」
「できます、バルトロ様」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめ、声音を和らげた。
「貴方のこれまでの経験は無駄ではありません。この地の天候、水の流れ、それを一番知っているのは貴方です。どうか、貴方のその知識に、私の実学を掛け合わせさせてください。二人で力を合わせれば、必ずこの領地から、飢えの二文字を消し去ることができます」
バルトロの目が大きく見開かれ、やがて、その頑固そうな目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
彼は深く、深く頭を下げた。
「……申し訳ございませぬ、セレスティア。己の無知と傲慢を恥じるばかりです。どうか……どうか、我がアルジェント領の民を、共に救おう。」
「頭を上げてください、バルトロ様。共に戦いましょう」
私が彼の手を取ると、会議室の中に、先ほどとは全く違う、温かくも力強い拍手が沸き起こった。不信の目を向けていた騎士たちも、今は私を「救世の頭脳」として称えるような、熱い視線を送ってくれている。
────
「実に見事だったな、セレスティア」
会議が終わり、幹部たちが慌ただしくそれぞれの任務へと散っていった後、静かになった会議室でルキウス様がぽつりと言った。
彼は椅子の背もたれに体を預け、心底満足そうな、そしてどこか誇らしげな笑みを浮かべていた。
「緊張いたしました。バルトロ様が、話を聞いてくださる方で本当に良かったです」
私はホッと胸をなでおろし、椅子の背に少し体重をかけた。
「いや、君の論理と、何よりあの『破天家』が彼を動かしたのだ。口先だけの聖女であれば、バルトロは絶対に認めなかっただろう。……やはり、私の目に狂いはなかった」
ルキウス様は立ち上がり、私のすぐ目の前まで歩み寄ってきた。
彼の高い体躯から放たれる、微かな雪の匂いと、大人の男の香りに、私の心臓が再びトクンと跳ねる。
「君のおかげで、我が領は最悪の危機を回避する第一歩を踏み出せた。感謝する。……だが、これからが本当の戦いだ。明日からは実際に外に出て、農村部の視察と指導を行ってもらうことになるが、体調は大丈夫か?」
「はい! もちろんです。このドレスも動きやすくて最高ですし、今すぐにでも畑へ向かいたい段階です」
私が元気よく答えると、ルキウス様はふっと目元を和らげた。
「ふ、相変わらずお転婆な聖女様だな。……だが、無理だけはするな。君の身に何かあれば、私が……いや、我が領にとって最大の損失だからな」
一瞬、彼の氷河の瞳に、主君としてではない、一人の男としての深い情念のようなものが揺らめいた気がした。だが、彼はすぐにそれを隠すように視線を逸らし、短く咳払いをした。
「道中の護衛には、引き続きギルを就ける。彼は影としての能力だけでなく、領内の地理にも明るい。何でも頼るといい」
「はい。ギルさんがいてくだされば、これ以上心強いことはありません」
「……そうか」
ルキウス様はなぜか、少しだけ面白くなさそうな顔をして、窓の外の雪山を見つめた。そのわずかな態度の変化に、私の胸の奥がくすぐったいような、奇妙な高鳴りを覚える。
これが、いわゆる『ときめき』というものなのだろうか。神殿で祈りしか知らなかった私にとって、彼の洗練された、しかし不器用な優しさは、あまりにも刺激が強すぎた。
────
翌朝。
私はギルと共に、アイゼングラード近郊の最初の開拓村へと向かう馬車の中にいた。
「昨日の会議、見ていたぞ」
馬車の壁に寄りかかり、腕を組んだギルが、相変わらずの平坦な声で話しかけてきた。
「え? ギルさん、会議室にいらしたのですか?」
「閣下の護衛が俺の仕事だからな。……バルトロをあそこまで完璧に論破するとは、大した魔女様だ」
彼の言葉には、確かな賞賛の響きがあった。
「論破だなんて、そんな。必死だっただけです」
「いや、見事だった。領民の連中も、最初はあんたを警戒するだろうが……昨日と同じようにやればいい。俺も、あんたの『大地の林檎』とやらが、この北の地でどんな奇跡を起こすのか、少し興味が湧いてきた」
ギルはそう言うと、窓の外を顎でしゃくった。
馬車の窓を開けると、そこには、寒風の中で鍬を握り、凍てつく土と格闘している農民たちの姿が見えた。
彼らの顔には、冬への不安と、飢えへの恐怖が色濃く滲んでいる。
「待っていてください」
私は胸の中で、彼らに向かって強く呼びかけた。
王都を追われた呪われた聖女。
今度は、この北の果ての大地で、誰も見たことのない最高の魔法を披露してあげる。
馬車が村の入り口で止まる。
冷たい風が私の三つ編みを揺らしたが、私の足取りは、かつてないほど力強く、未来へと向かって踏み出されたのだった。




