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それ、あなた達の勘違いです  作者: 逆立ちハムスター


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3/3

辺境伯と泥に塗れた功績

王都を離れて十日が過ぎた頃、馬車の窓から見える景色は一変していた。

なだらかな緑の平原はとうに姿を消し、代わりに天を衝くような険しい岩山と、鬱蒼と生い茂る針葉樹の森が視界を占めるようになった。吐く息は白く、馬車の隙間から入り込む風は、肌を刺すような鋭い冷気を帯びている。


「寒いか」


向かいの席で、相変わらず無表情にナイフの手入れをしていたギルが、ふと視線を上げて尋ねてきた。


「少しだけ。でも、用意していただいた毛皮の外套が暖かいので大丈夫です」


私は膝の上に掛けた、分厚い銀狼の毛皮をギュッと握りしめて微笑んだ。王都の神殿で着ていた薄絹のドレスとは比べ物にならないほど重いが、その重みが今はひどく安心できた。

この十日間、私はギルと二人きりで馬車に揺られ続けた。元アサシンという物騒な肩書きを持つ彼だが、道中の私への態度は極めて紳士的であり、そして事務的だった。必要なこと以外は話さないが、食事の用意から野営の際の警護まで、一切の隙なく私を守ってくれている。


「北の冬はこんなものではない。今はまだ初秋の入り口だが、ひと月もすればこの辺り一帯は深い雪に閉ざされる。……だからこそ、閣下は焦っておられた」


ギルが、珍しく自分から口を開いた。彼の視線は窓の外の荒涼とした大地に向けられている。


「このアルジェント辺境領は、オルディス王国の最北端。北の魔境から押し寄せる魔獣の群れを食い止める、巨大な防波堤だ。領民たちは皆、過酷な自然と魔獣の脅威に晒されながらも、誇りを持ってこの土地を切り拓いてきた。だが、剣で魔獣は殺せても、飢えを斬り伏せることはできない」


彼の静かな声には、主君である辺境伯と、この土地に対する深い敬愛が滲んでいた。


「王都の連中は、俺たちが血を流して魔獣を食い止めていることなど忘れ、温かい部屋で美食を貪っている。そしてあろうことか、腐った麦を北へ押し付けようとしてきた。閣下が間諜からの報告で『黒麦の毒』の真実を知らなければ、今頃この領地は魔獣ではなく、奇病と飢餓によって滅んでいただろう」

「……王都の教会のやり方は、許されるものではありません」


私はきつく唇を噛んだ。彼らの無知と保身のせいで、どれだけの命が失われたか。そして、これからも失われようとしているのか。


「だからこそ危機を救った、あんたの力が必要だ。元聖女セレスティア。あんたが書き残したあの報告書が、どれほど論理的で、この地の気候風土を計算し尽くしたものだったか。閣下は徹夜でそれを読み込み、『この聖女の頭脳は、千の援軍よりも価値がある』と仰った」


千の援軍よりも。

その言葉の重みに、私は息を呑んだ。王都では「泥遊び」「魔女の呪い」と蔑まれた私の知識が、そこまで高く評価されているなんて。


「もうすぐ着く。あれが、我らの誇る北の要塞都市『アイゼングラード』だ」


ギルが指差した先。森を抜けた目前に広がった光景に、私は圧倒されて言葉を失った。


巨大な、すり鉢状の盆地。その底に広がるのは、王都の華美な装飾とは全く異なる、無骨で堅牢な黒曜石と分厚いレンガで作られた都市だった。

都市を囲む城壁は王都のそれの三倍は高く、壁の上には等間隔に巨大な迎撃用の魔力砲が設置されている。家々の屋根は雪が滑り落ちやすいように急な傾斜を持ち、煙突からは生活の営みを示す白い煙が幾筋も立ち上っていた。


華やかさはない。だが、そこには厳しい自然に抗い、力強く生き抜こうとする人々の熱気が、遠目からでも伝わってくるような圧倒的な生命力があった。


「すごい……これが、辺境伯様の治める街……」


馬車が重厚な城門をくぐると、活気ある喧騒が波のように押し寄せてきた。

通りを行き交う人々は、みな質素だが分厚く丈夫そうな服を着ている。武器を手にした傭兵風の男女、荷馬車を引く商人、そして、店先で大声で客を呼ぶ活発な声。誰もが顔を上げ、力強く歩いている。

王都の貧民街で見たような、虚ろな目で地面を這う人々の姿は、ここにはない。

奇病の発生を水際で防いだルキウス辺境伯の迅速な決断が、この人々の命と日常を守ったのだ。


馬車は迷うことなく都市の中央を貫く大通りを進み、最も高い丘の上にそびえ立つ、巨大な城の敷地へと入っていった。

城門をくぐり、馬車が完全に停止する。


「到着だ。降りてくれ」


ギルが先に降りて扉を開け、手を差し出してくれた。その手を取り、私は十日ぶりにしっかりとした地面の上に降り立った。

見上げるような城壁は、やはり装飾を削ぎ落とした実戦的な造りだったが、どこか威厳に満ちた美しさがあった。


「ようこそ、アルジェント辺境領へ。お待ちしておりました」


出迎えてくれたのは、初老の執事だった。彼は私を見るなり、深く、しかし大げさではない洗練された礼をした。

元聖女に対する宗教的な畏れでもなく、魔女に対する軽蔑でもない。一人の客人に対する、真っ当な敬意の籠もった態度。それだけで、私の緊張は少しだけ和らいだ。


「長旅でお疲れでしょうが、旦那様がすぐにお会いしたいと。案内いたします」


執事の後に続き、私は城の内部へと足を踏み入れた。

城の中もまた、外観と同じく質実剛健だった。壁に掛けられているのは美術品ではなく、歴代の当主が使ったであろう武具や、領地の詳細な地図ばかりだ。廊下ですれ違う騎士やメイドたちも、みなキビキビとした無駄のない動きをしている。


やがて、執事はある分厚い樫の扉の前で立ち止まり、静かにノックをした。


「旦那様。ギルが戻りました。例の『客人』をお連れしております」

「入れ」


扉の奥から響いたのは、低く、腹の底に響くようなバリトンボイスだった。ギルの声よりは温かみがあるが、それでも確かな威圧感を孕んだ、上に立つ者特有の響き。

私の心臓が、早鐘のように打ち始める。


扉が開かれた。

そこは謁見の間のような豪華な場所ではなく、明らかに実務をこなすための『執務室』だった。

部屋の中央には巨大な木製の机があり、その上には山のような書類、丸められた羊皮紙の地図、そして何故か、幾つかの木箱に入った『土』が置かれていた。


そして、その机の奥から一人の男がゆっくりと立ち上がった。


「よく無事で辿り着いてくれた。歓迎しよう」


北の辺境伯、ルキウス・ヴァン・アルジェント。

初めて見る彼の姿は、私が想像していた『血と氷の野蛮人』という噂とは、大きく懸け離れていた。


長身で、軍服の上からでもわかるほど鍛え上げられた広い肩幅と分厚い胸板。そこまでは武将のイメージ通りだ。しかし、彼の容貌は息を呑むほどに整っていた。

月明かりを固めたような、冷たい輝きを放つ銀色の髪は、無造作に後ろで一つにまとめられている。鋭く通った鼻筋に、薄い唇。そして何より印象的なのは、その双眸だった。

凍てつくような氷河の青。だが、その奥には、知性と、領民を想う深い熱情の炎が静かに燃えているのが見て取れた。

彼の目の下には、連日の激務を物語るような薄い隈ができていた。


「北の辺境伯、ルキウス・ヴァン・アルジェントだ。誘拐同然の真似をしたこと、まずは詫びよう。だが、王都の火刑台から君を救い出すには、あの手段しかなかった」


彼は真っ直ぐに私の目を見て、そう告げた。

その真摯な瞳に射抜かれ、私は慌てて居住まいを正し、王城で学んだ最も丁寧なカーテシー(淑女の礼)をとった。


「とんでもございません。私こそ、命を救っていただいた恩、どれほど感謝してもしきれません。…元オルディス王国聖女、セレスティアと申します」

「『元』聖女、か」


ルキウス様はふっと口元を緩めた。


「構わない。我が領地に神の奇跡は不要だ。我々に必要なのは、大地に根ざし、冬を越え、民の命を繋ぐための『現実の糧』だ。……さっそくで悪いが、君の知識を試させてもらってもいいだろうか」


彼はそう言うと、机の上に置かれていた木箱の一つを私の方へ押し出した。


「我が領土の土だ。見ての通り、赤茶けていて酸性が強い。従来の小麦は育ちにくく、寒さにも弱い。君の報告書にあった『大地の林檎(芋)』ならば、この土壌でも育つと書いてあったが、間違いないか?」


挨拶もそこそこに、いきなりの実務の話。

普通の貴族令嬢であれば戸惑うところだろうが、私はむしろ、その合理的な態度が嬉しかった。彼は私を、飾り物の聖女ではなく、一人の実務家として対等に扱ってくれているのだ。


私は歩み寄り、躊躇うことなく素手でその土を掬い上げた。

指先で土をすり潰し、感触を確かめ、微かに匂いを嗅ぐ。


「……はい。確かに酸性が強いですが、水はけは悪くありません。芋の栽培には適しています」


私は王都の神殿で、隠れて土いじりをしていた頃の記憶を呼び覚ましながら、はっきりと答えた。


「ただし、このままでは連作障害が遠からず起きます。冬の間に、森で集めた落ち葉と、暖炉の灰……特に木灰を大量に混ぜ込み、土の酸性を中和しながら栄養素を急遽補給する必要があります。木灰はカリウムを多く含むため、芋の根を太く育てるのに最適なのです」

「木灰だと?」


ルキウス様は目をわずかに見開いた。


「確かに君の報告書にもそう記述があった。だが、灰などただの燃えカスではないのか? それが肥料になると? 悪化しそうだ」

「はい……その、種芋を植える際に……灰は役立ちます。種芋を切り分けて植える際、切り口からカビや病原菌が入って腐るのを防ぐために、切り口に木灰をまぶすのです。そうすることで、生存率は飛躍的に高まります」

「……なるほど。防腐剤としての役割を果たすというわけか」


ルキウス様は顎に手を当て、深く感心したように頷いた。


「素晴らしいな。君の知識は、ただ書物から得た机上の空論ではない。実際に土に触れ、作物を育てた者特有の『生きた知識』だ。王都の連中は、この宝を自ら火に括ろうとしていたというのだから、正気の沙汰ではないな」


彼は心底呆れたようにため息をついた後、私に向かってスッと右手を差し出した。

大きくて、剣ダコのある、武人の手。


「改めて歓迎しよう、セレスティア。君のその知識と手腕を、我が領地のために貸してほしい。君が望むなら、あらゆる支援を約束しよう」


差し出された手を見て、私はハッとして自分の手を隠そうとした。

私の手は、さっき土を触ったせいで汚れている。それに、神殿の裏庭で毎日鍬を握っていたせいで、聖女のそれとは思えないほどマメができ、荒れ果てていた。

こんな汚い手で、辺境伯様の手を握るわけにはいかない。


「あっ、申し訳ありません、手が土で……それに、荒れていてお見苦しいので……」


背中に手を隠そうとした私。しかし、ルキウス様は一歩踏み込み、隠そうとした私の両手を、その大きな両手で優しく、しかし力強く包み込んだ。


「っ……!」

「何を恥じる必要がある」


彼の声は、ひどく穏やかで、そして真剣だった。


「土に塗れ、マメが潰れ、傷だらけになった手。……これこそが、民を飢えから救うために君が必死に戦ってきたという何よりの功績ではないか」


氷河のように冷たいと思っていた彼の瞳が、今は春の陽だまりのように温かく私を見つめていた。


「美しい手だ。祈るだけの白く滑らかな飾り手よりも、ずっと尊く、美しい。私は、この手を心から歓迎する」


ドクン、と。

胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。

神殿では、「泥に塗れるなど聖女の恥だ」と叱責され続けた。民衆からは「魔女の呪いを生み出す汚れた手だ」と石を投げられた。

ずっと否定され続けてきた私の努力と、この荒れた手を、目の前の不器用で誠実な辺境伯は、真っ向から肯定し、美しいと言ってくれたのだ。


瞳の奥がツンと熱くなり、視界が滲む。

涙を見せまいと必死に瞬きをしながら、私は彼の大きくて温かい手を、しっかりと握り返した。


「……はいっ。私の知る限りのすべてを、辺境伯様と、この領地のために捧げます!」

「ああ。頼む、セレスティア。共に、この厳しい冬を乗り越えよう」


彼は力強く頷き、口元に微かな、しかしとても柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔は、普段の威圧的な雰囲気を完全に打ち消すほどに魅力的なものだった。


「さて、積もる話はまだあるが、君は長旅で疲労しているはずだ。まずは体を休めてくれ。部屋と、君専属の侍女はすでに手配してある。明日の朝、改めて農業改革の会議を開きたい。それまでに、必要な物資のリストアップをお願いできるか?」

「はい、承知いたしました!」


先ほどまでの疲労はどこへやら、私の体の中には新しい活力が満ち溢れていた。

誰かに必要とされること。自分の知識が命を救う力になること。それがこれほどまでに心を満たしてくれるとは、想像もしていなかった。


執事に案内されて通されたのは、客室というにはあまりにも立派な、日当たりの良い広々とした部屋だった。

ふかふかのベッドに、王都のものとは違う実用的ながらも美しい調度品。そして、窓からは夕日に染まるアイゼングラードの街並みと、その向こうに連なる雪化粧をした山々が見渡せた。


「ここが、私の新しい場所……」


窓辺に立ち、私はそっと自分の両手を見下ろした。

荒れて、マメだらけの手。ルキウス様が「美しい」と言ってくれた手。


私はもう、祈るだけの聖女ではない。

教会の鳥籠から抜け出した、一人の農業指導者だ。

王都では魔女と呼ばれたかもしれない。でも、この北の地では、その魔女の魔法——農業という実学——で、すべての人々を笑顔にしてみせる。


夕暮れの冷たい風が頬を撫でる。

だが、私の心の中には、決して消えることのない温かい炎が灯っていた。


明日から忙しくなる。

まずは土壌の改良と、冬を越すための保存食の確保。やるべきことは山積みだ。

けれど、不思議と不安はなかった。あの力強く誠実な辺境伯と、不器用だが優しい元暗殺者、そして力強く生きる領民たちがいるのだから。


北の果ての過酷な土地で、呪われた元聖女の、泥まみれで最高に幸せな第二の人生が、今、確かな産声を上げたのだった。

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