新たな世界
規則正しい、車輪が土を打つ低い響き。
小刻みに揺れる心地よい振動が、深い微睡みの底に沈んでいた私の意識を、少しずつ水面へと引き上げていった。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れた地下牢のシミだらけの石天井ではなく、緻密な彫刻が施された見事な木張りの天井だった。
ふわりとした、干し草と陽だまりの匂いがする。私の体は、冷たい石の床ではなく、驚くほど柔らかく分厚い毛布の海に沈み込んでいた。
「ここは……?」
掠れた声を出して、ゆっくりと身を起こす。
どうやら私は、かなり大型の馬車の中にいるらしかった。室内はちょっとした部屋ほどの広さがあり、私が寝かされていた長椅子とは反対側にも、革張りの立派な座席が設えられている。窓には厚手のベルベットのカーテンが引かれ、外の光を適度に遮っていた。
ふと、自身の体に目を落として息を呑んだ。
薄汚れて異臭を放っていたはずの囚人服は消え、肌触りの良い清潔な麻のワンピースに変わっている。手首や足首にあった鎖が擦れてできた痛々しい傷には、丁寧に白い包帯が巻かれ、微かに薬草の清涼な香りが漂っていた。
「目が覚めたか」
不意に、馬車の奥の影から低い声が響いた。
ビクッと肩を揺らして声のした方を振り向くと、そこには昨夜——いや、あれからどれくらいの時間が経っているのかわからないが——私を牢獄から連れ出した、あの黒衣の男が座っていた。
深いフードは外されており、窓の隙間から差し込む光が彼の顔を照らしている。
黒檀のように艶やかな短い黒髪。氷の刃を思わせる、鋭くも静謐な灰色の瞳。年齢は二十代半ばといったところだろうか。整った顔立ちをしているが、左の頬には刃物で付けられたような古い傷跡があり、彼がくぐり抜けてきた死線の生々しさを物語っていた。
「あなた、は……」
「ギルだ。それが俺の呼び名だ」
男——ギルは、手元で手入れをしていた短いナイフを鞘に収め、短く名乗った。
「私が寝ている間に、服を……?」
「安心しろ、着替えと傷の手当ては、中継地点の隠れ家にいた雇いの老婆にやらせた。俺は手を出していない。ただ、泥まみれのままこの馬車に乗せるわけにはいかなかったからな」
淡々とした、事実だけを述べる口調。そこには一切の感情の揺らぎがない。
「そう……ですか。ありがとうございます、ギルさん。あの、私はどれくらい眠っていたのでしょう」
「丸二日だ。よほど衰弱していたらしい。馬車はすでに王都の関所を抜け、北の街道を三日目の行程で進んでいる」
丸二日。
その言葉の響きに、私は改めて自分が置かれた状況の異常さを噛み締めた。
本来であれば、私は昨日の朝、王都の広場で火あぶりの刑に処されていたはずなのだ。
「王都は……どうなっていますか? 私が牢から消えて、大騒ぎに……」
恐る恐る尋ねると、ギルは鼻で短く笑った。嘲笑ではなく、呆れたような乾いた笑いだった。
「大騒ぎどころの事態ではない。魔女が消えたとなれば、教会の威信に関わる大失態だからな。奴らは大慌てで隠蔽工作に走っている」
「隠蔽……?」
「あぁ。『魔女セレスティアは、処刑を恐れるあまり自ら地獄の業火を呼び出し、牢獄の中で灰となって消滅した』と公式に発表された。大司教達が涙ながらに、これは神の鉄槌や神の最後の罪人への慈悲などと民衆に語ったそうだ」
あまりのばかばかしさに、私は言葉を失った。
自分たちが管理する牢獄から罪人を逃がしたという事実を隠すため、私をさらに都合の良い道具に仕立て上げたのだ。
怒りよりも先に、深い徒労感が胸に押し寄せた。あの教会にいる者たちは、どこまでも自己の保身と権力にしか興味がないらしい。彼らにすがり、奇病の真実を訴えようとした自分が、いかに愚かだったかを思い知らされる。
「それで、俺たちは今、雇い主の領地へ向かっているというわけで、まあ長旅になるが、追っ手がかかる心配もない。お前は公的には『死んだ』ことになっているからな」
「……その、雇い主の方というのは、一体どなたなのでしょうか?」
私が一番聞きたかった問いを投げかけると、ギルは懐から一通の封筒を取り出し、私の手元へと軽く放り投げた。
封筒には、重厚な赤蝋で封がされている。そこに押された紋章を見て、私は目を丸くした。
交差する二本の剣と、それを囲むように描かれた針葉樹の意匠。
それは、オルディス王国の最北端を治める、誇り高き辺境の守護者の紋章だった。
「北の辺境伯、ルキウス・ヴァン・アルジェント閣下……!?」
王都にいる間、私でさえその名と噂は耳にしたことがある。
北方の過酷な魔境と隣接する領地を治め、常に魔物との戦いの最前線に立つ若き名将。王都の貴族たちからは「血と氷の野蛮人」と陰口を叩かれているが、領民からの支持は絶大で、領地経営においても類まれなる手腕を発揮しているという。
しかし、神殿の奥深くにいた元聖女の私と、北の果てで戦う辺境伯の間に、一体どんな接点があるというのか。
「読めばわかる。あんた宛ての手紙だ」
ギルに促され、私は震える指で封を切った。
中には、力強くも流麗な筆致で書かれた羊皮紙が入っていた。
『聖女、セレスティア嬢へ。
突然の無礼な誘拐(お前はそう感じているだろう)を許してほしい。だが、腐りきった王都の連中がお前を灰にする前に、どうしても私の領地へ迎え入れる必要があった。
私が教会内に潜り込ませている間諜から、お前が神殿の書庫で書き上げた『黒麦の毒(麦角中毒)に関する考察と、代替作物による食糧危機回避の提案』という報告書の写しを入手した。
読ませてもらったが、実に素晴らしい。王都の無能な聖職者共はこれを「神への冒涜」として破棄したそうだが、私から言わせれば、これこそが真に国と民を救うための『知識』だ。
現在、我が辺境領でも長雨による不作の影響が出始めている。幸い、お前の報告書のおかげでいち早く黒ずんだ麦の流通を止め、奇病の蔓延は防げているが、このままでは越冬のための食糧が底を突く。
お前が王都の貧民街でこっそり栽培を試みていたという、寒冷地でも育つ『大地の林檎(芋)』。その栽培技術と、土壌改良の知識が我が領地には必要不可欠だ。
お前を、聖女としてではなく、一人の優れた『指導者』として辺境領に迎え入れたい。
王都がお前を魔女と呼ぶなら、私の領地で存分に魔女としての手腕を振るって、領民の腹を満たしてくれないか。
詳しい話は、我が城に着いてからしよう。道中は、我が最も信頼する影護官に護衛を任せている。無事の到着を待っている。
――北の辺境伯、ルキウス・ヴァン・アルジェント』
手紙を読み終えた瞬間、視界がぼやけた。
ポタポタと、羊皮紙の上に大粒の雫が落ちていく。自分が泣いていることに、私は遅れて気がついた。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
慌てて手首の包帯で涙を拭おうとするが、一度決壊した感情のダムは、そう簡単には元に戻ってくれなかった。
神殿では、誰一人として私の言葉に耳を貸さなかった。
民を救いたい一心で調べ上げた知識も、泥まみれになって育てた芋も、すべては「魔女の呪い」という汚名で塗りつぶされ、私は火あぶりにされるはずだった。
私がやってきたことは、誰の役にも立たなかったのだと、絶望の中で死を受け入れかけていた。
けれど。
届いていたのだ。
はるか遠く、北の辺境で国を守る人のもとに、私の願いと知識は、確かに届いていた。
聖女としての祈りなどではない。私が必死に学び、泥水にまみれて手に入れた実学的な『知識』を、彼は明確に評価し、求めてくれた。
「……泣くのは、飯を食ってからにしろ」
ふいと視線を逸らしたギルが、傍らの木箱から小さな鍋と木のお椀を取り出した。
鍋の中には、固形燃料の魔導具で温められたスープが入っていた。彼がお椀に注いで私に差し出したそれは、肉と様々な野菜が柔らかくなるまで煮込まれた、琥珀色の澄んだスープだった。
「麦が……入っていないの?」
「あぁ。閣下からの厳命だ。『道中の食事に、一切の麦を使用するな。彼女が安心して食べられるものを出せ』と」
その細やかな配慮に、また胸の奥が熱くなる。
震える両手でお椀を受け取り、一口、スープを口に含んだ。
「——っ……」
温かい。
滋味深い肉の出汁と、野菜の甘みが、空っぽだった胃の腑に、そして冷え切っていた心の奥底にまでじんわりと染み渡っていく。
地下牢で嗅いだカビの臭いも、石の冷たさも、この一口がすべて洗い流してくれるような気がした。
「美味しい……。すごく、美味しいです……」
涙をぽろぽろとこぼしながら、私は無我夢中でスープを飲んだ。
熱い液体が喉を通るたびに、自分が生きているという実感が湧いてくる。
囚人服はもう着ていない。鎖も繋がれていない。そして、明日焼かれる運命も、もう私にはないのだ。
ギルは黙って私がスープを飲み干すのを見届けると、無言のまま水筒を差し出してくれた。
乱暴なようでいて、その所作には不思議と静かな優しさがある。彼がただの冷酷な暗殺者ではないことは、この数時間だけでも十分に理解できた。
「ギルさん」
すっかり空になったお椀を膝に置き、私は彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
まだ涙の跡は残っているかもしれないが、私の声には、もう地下牢にいた時のような震えはなかった。
「私、辺境伯様にお会いしたいです。お会いして、私の持つすべての知識を捧げたい」
聖女セレスティアは、王都の地下牢で死んだ。
あの腐敗した教会に未練はないし、盲目的に石を投げてきた民衆への複雑な感情も、今は一旦胸の奥にしまっておく。
今の私を必要とし、生きる意味を与えてくれた人が、北の地にいる。
ならば私は、彼のために、そして彼の領民を飢えから救うために、持てる力のすべてを注ぎ込もう。
「……そうか。なら、しっかりと体力を戻しておけ。北の気候は、王都の甘ったるい風とは比べ物にならないほど厳しいぞ」
ギルは短くそう言うと、再び窓の外へと視線を向けた。
馬車は休むことなく、北へ北へとひた走る。
カーテンの隙間から外を覗き込むと、王都近郊の平野部とは明らかに違う、険しくも雄大な山並みが遠くに見え始めていた。
私の新しい人生が、あの山の向こうで待っている。
胸の奥に灯った小さな、けれど確かな希望の炎を抱きしめながら、私は馬車の心地よい揺れに再び身を委ねた。




