呪われた聖女と、夜闇の訪問者
冷たい。
全身を芯から凍らせるような石床の冷気が、薄汚れた囚人服を通して容赦なく体温を奪っていく。
手首と足首を縛る重い鉄の鎖は、少し動くたびに耳障りな音を立て、錆びついた冷たさで私の肌を擦り剥いた。
光の届かない地下牢には、カビと排泄物、そして絶望の臭いが立ち込めている。壁を這う水滴の音だけが、時計の針のように無情に時間を刻んでいた。
「……明日の朝、か」
ひび割れた唇から零れ落ちた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
喉の渇きはとうに限界を超えている。だが、看守が1日1回投げ入れてくる、泥水のような水と石のように硬いパンに手をつける気にはなれなかった。どうせ明日には、私の命は潰えるのだから。
私の名前はセレスティア。
ほんのひと月前まで、このオルディス王国において、神の愛し子たる『聖女』として敬われていた存在だ。
きらびやかな神殿の奥深くで、純白のドレスに身を包み、民の安寧を祈る日々。私の祈りは、不思議と作物の育ちを良くし、人々の小さな怪我を癒す力があったらしい。人々は私を崇め、すがるような目を向けていた。
それがどうだ。今の私は、国を滅ぼそうとした稀代の悪女、『魔女』としてこの地下牢に繋がれている。
事の起こりは、昨年の秋にさかのぼる。
長雨が続いたせいで、王国の主食であるライ麦が大凶作となった。なんとか収穫できた麦も、雨に打たれて黒ずみ、カビが生えているものが多かった。
食糧難は深刻だったが、それ以上に恐ろしい事態が王国を襲った。
奇病の蔓延だ。
最初は農村部から始まり、やがて王都の貧民街へと燃え広がるように感染が拡大した。
発症した者は、まるで悪魔に憑りつかれたように恐ろしい幻覚を見て狂乱し、自らの体を掻き毟った。さらに恐ろしいことに、手足の先が黒く変色し、焼け焦げたように痛みを伴いながら腐り落ちていくのだ。
人々はパニックに陥った。
「神の罰だ!」「悪魔の呪いだ!」
悲鳴と死臭が街を覆い尽くす中、当然のように聖女である私への期待が高まった。広場に集まった何千もの民衆を前に、私は必死に祈った。神殿の石畳に額を擦りつけ、声を枯らして神に救いを求めた。
しかし、奇病は治まらなかった。
祈りによって癒せるのは、すり傷や軽い熱などの物理的な損傷や、一時的な不調だけ。目に見えない病魔、しかも原因のわからない集団感染に対しては、私の祈りはあまりにも無力だった。
祈りが通じないことに絶望した私は、神殿の書物庫に引きこもった。過去の記録を読み漁り、この奇病の正体を突き止めようとしたのだ。
そして、私は見つけた。数百年前の古い医学書の中に、現在の症状と全く同じ記述があるのを。
『黒き麦の毒』
それが、古の記録に残された病の名前だった。
長雨で過湿状態になった麦に寄生する特定のカビ。それが生み出す毒素を摂取し続けることで、重篤な中毒症状を引き起こす。幻覚、痙攣、そして末端組織の壊死。
私の持つ知識に照らし合わせれば、それは『麦角中毒』と呼ばれるものだった。
呪いでも、悪魔の仕業でもない。原因は、人々が毎日口にしているパンそのものだったのだ。
私はすぐに大司教様や国王陛下に直訴した。
「奇病の原因はカビの生えたライ麦です! 直ちに汚染された麦の配給を停止し、安全な備蓄穀物を解放してください! そして、新しい麦の選別方法と、カビを防ぐための乾燥技術を民に教える必要があります!」
しかし、私の必死の訴えは、嘲笑によって一蹴された。
「聖女よ、何を血迷ったことを。神の試練をカビのせいにするなど、神への冒涜であるぞ」
大司教様は冷ややかな目で私を見下ろした。
「それに、備蓄穀物は王族と我々聖職者のためのもの。下民どもに分け与えるなど、国の秩序を乱す行為だ。祈りが足りぬから病が治まらぬのだ。もっと祈りに励みなさい」
彼らは、病の原因を直視しようとしなかった。いや、気づいていたのかもしれない。だが、食糧難の中で安全な食糧を民衆に回せば、自分たちの取り分が減る。既得権益を守るために、彼らは真実から目を背けたのだ。
このままでは、国が滅びる。
そう危機感を抱いた私は、聖女という立場を利用して、独断で行動を起こした。
神殿の裏手にある広大な庭を耕し、寒さや湿気に強い別の作物——王国の辺境で見つけた、土の中で育つ栄養満点の芋——の栽培を始めた。
さらに、お忍びで貧民街に足を運び、安全な麦と汚染された麦の見分け方を教え、芋を分け与えた。カビの生えた麦は絶対に食べないようにと、口を酸っぱくして説いて回ったのだ。
私の地道な活動は、少しずつ実を結び始めていた。私が直接指導した地区では、明らかに奇病の発生率が下がった。
民衆の中には、私の行動を理解し、感謝してくれる者も現れ始めた。
「これで、救える命が増える……」
泥だらけのドレスで、私は安堵の息を漏らした。
しかし、その行動が命取りとなった。
私の『食糧改善』活動は、民衆を救う一方で、教会の権威を失墜させる結果を生んだ。「祈り」ではなく「土いじり」で人々を救い始めた聖女。それは、祈りによる奇跡を独占したい教会にとって、極めて目障りな存在だったのだ。
そして、悲劇は突然訪れた。
ある日、王都で最も大きなパン屋の一家が、一晩で全員死亡した。原因は極めて致死性の高い毒の混入だったが、彼らの店からは、私が分け与えた『芋』の残骸が見つかったというのだ。
もちろん、芋に毒などない。後から考えれば、あまりにも露骨なでっち上げだ。
しかし、大司教はこれを千載一遇の好機と見た。
「見よ! 聖女と名乗るあの女こそが、人々に呪いをかけていた魔女なのだ! 毒の根を配り歩き、善良な民を狂わせ、殺していたのだ!」
教会の拡声魔導具によって、その宣言は瞬く間に王都中に響き渡った。
恐怖と飢えで正気を失いかけていた民衆にとって、「わかりやすい原因」が提示されたことは、ある種の救いだったのだろう。
私が愛し、救おうとした人々は、手のひらを返したように私を罵倒し始めた。
「魔女を殺せ!」「俺の娘を返せ、この人殺し!」
広場で石を投げられ、泥を投げつけられた時の、彼らの憎悪に満ちた目を、私は一生忘れないだろう。
弁明の機会すら与えられず、私は神殿から引きずり出され、この地下牢に投げ込まれた。
教会による異端審問は、もはや形式だけの茶番だった。初めから結論は決まっている。
『元聖女セレスティアは、悪魔と契約し国に呪いを蔓延させた魔女である。よって、火刑に処す』
それが、明日の朝、私が迎える結末だ。
────
「……愚かだったのかな、私」
膝を抱え、冷たい鎖の感触を確かめるように指でなぞる。
民を救いたいという思いに嘘はなかった。知識を活かし、行動したことにも後悔はない。ただ、人の持つ権力への執着と、集団の狂気を甘く見すぎていた。
私が死んでも、あのカビの生えた麦を食べている限り、奇病は終わらない。いずれこの国は、麦角中毒の幻覚と狂気の中で自滅するだろう。
それを止める術を、私はもう持っていない。
ふと、天井のわずかな隙間から、月光が差し込んでいるのに気づいた。
細い、銀色の糸のような光。それが私を照らす最後の光になるのかと思うと、乾ききっていたはずの瞳から、一滴だけ涙がこぼれ落ちた。
死ぬのは怖い。
火あぶりの熱さを想像すると、体が小刻みに震える。
誰か、助けて。無実を証明して。
心の奥底で叫んでも、この分厚い石壁を越えて届くはずもなかった。
——その時だった。
カチャリ、と。
牢獄の重厚な鉄格子の錠前が、微かな金属音を立てた。
ネズミの足音よりも静かな、だが確かな異音。
看守の見回りの時間ではない。明日の処刑を前に、最後の嫌がらせにでも来たのだろうか。私は身をこわばらせ、鉄格子の外の暗闇を睨みつけた。
影が、動いた。
音もなく開いた鉄格子から、ぬらりと滑り込んでくる黒い影。
それは看守ではなかった。黒い外套に身を包み、顔の半分を覆うような深いフードを目深に被った人物。
月光に照らされたその足元には、見張りに立っていたはずの看守二人が、声も出せずに昏倒しているのが見えた。
「……誰!?」
私は喉の奥から絞り出すように問うた。
暗殺者だろうか? 処刑まで待てない誰かが、確実に私の息の根を止めるために差し向けた刺客。大司教ならやりかねない。
黒い影は一歩、また一歩と私に近づいてくる。足音は全くしない。その洗練された動きは、彼が裏の世界で生きる本物のプロフェッショナルであることを如実に物語っていた。
死が、歩いてくる。
私は目を閉じ、身を固くした。せめて、痛みを感じる暇もなく一撃で殺してほしいと、神ではなく名も知らぬ暗殺者に祈った。
しかし、予想に反して冷たい刃が私の首を裂くことはなかった。
代わりに、私の手首を拘束していた重い鉄の鎖が、*カキンッ*という鋭い音と共に弾け飛んだ。
「え……?」
目を開けると、黒い影——長身の男が、私の目の前にしゃがみこんでいた。
手には、月光を鈍く反射する特殊な形状の短剣が握られている。その一振りで、分厚い鉄の鎖を断ち切ったというのか。
男は無言のまま、今度は私の足首の鎖に短剣を滑り込ませ、同じように一瞬で切断した。
自由になった手足。しかし、長時間の拘束と衰弱で、私の体は自力で立ち上がることすらできなかった。崩れ落ちそうになる私の体を、男のたくましい腕ががっしりと受け止めた。
「な、なにを……あなた、は……?」
間近で見る男の顔は、フードの影に隠れてよく見えない。だが、そこから覗く双眸は、夜の闇よりも深い漆黒で、氷のように冷たく、そして鋭かった。
「……立てるか」
低く、耳の奥を震わせるような声だった。感情の読めない、平坦な響き。
「あ……」
「無理だな。失礼する」
言うが早いか、男は私の体を羽毛のように軽く抱き上げた。いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。泥と汚物にまみれ、異臭を放つ私を抱え上げることに、彼は何の躊躇いも見せなかった。
「ま、待って! あなたは誰!? どうして私を……殺しに来たのではないの!?」
パニックになりながら胸元を叩くが、男の腕はびくともしない。彼は鉄格子を抜け、倒れた看守を跨ぎ越えながら、短く、しかし明確に告げた。
「殺しなどせぬ。俺の仕事は、あんたをこの腐った牢獄から『生きたまま』連れ出すことだ」
「連れ出す……? 誘拐、ということ?」
「言い方は任せる。俺は依頼主の命令に従うだけだ」
男は地下牢の階段を、全く足音を立てずに、私を抱えたまま驚異的な速度で駆け上がっていく。
「依頼主って……誰が、私なんかのために……」
「……」
男は答えなかった。ただ前だけを見据え、迷いなく夜の闇の中へと突き進んでいく。
地下牢を抜け、外気に出た瞬間、冷たい夜風が私の頬を撫でた。
星一つない暗夜。しかし、私にとっては、何日も閉ざされていた希望の空だった。
明日の朝、私を火あぶりにしようと待ち構えている群衆も、陰謀を巡らせた大司教も、もうそこにはいない。
私は、名も知らぬ刺客の手によって、死の運命から強引に引き剥がされたのだ。
私の『食糧改善』の価値を理解し、この恐ろしいほど有能な男を雇い、処刑前夜という絶妙なタイミングで私を救い出した『先見性のある人』とは、一体何者なのか。
そして、私を連れ去ったこの男は、私をどこへ連れて行くつもりなのか。
揺れる男の腕の中で、極限の緊張から解き放たれた私の意識は、急激に遠のいていった。
最後に見えたのは、暗闇に溶け込むような男の黒い外套と、遠ざかっていく王都の冷たい城壁のシルエットだけだった。
それが、魔女と蔑まれた元聖女の私と、口下手で無骨な暗殺者、そして姿の見えない『雇い主』との、世界の命運を狂わせる物語の、始まりの夜だった。




