ex.エピソード 6 昭和の観光地の1日のシュミレーション 岐阜県『伊吹山ドライブウェイ』
現在も営業中です、2011年の台風にも負けず、がんばっています。行って応援!
昭和59年(1984年)、初夏。
関ケ原メナードランドで極彩色の夏を過ごしたあの日から、ちょうど一年が経とうとしていた。
健二の愛車、赤いファミリアは、初夏の柔らかな陽光を浴びながら、岐阜と滋賀の県境にそびえる伊吹山の麓にいた。「伊吹山ドライブウェイ」の料金所をくぐると、窓から入り込む風が、平地の熱気を一瞬で拭い去っていく。
「健二、見て! 下の方にさっきの関ケ原の街があんなに小さく見えるわ」
助手席の真由美は、白とネイビーのボーダー柄のサマーニットに、白いコットンのロングスカートという、清楚なマリンスタイル。膝の上には、あの日と同じニコンFE2が大切そうに置かれている。
「ああ、今日は最高のドライブ日和だな。頂上まで一気に駆け上がるぞ」
カセットデッキから流れるのは、杏里の『悲しみがとまらない』。軽快なリズムに合わせて、ファミリアは標高を上げていった。
白銀の迷宮:中腹の「ガス」
しかし、12キロポストを過ぎたあたりで、風景が一変した。
それまで突き抜けるように青かった空が、急に灰色に濁り始めたのだ。麓ではあんなに晴れていたのに、気づけば視界は10メートル先も見えないほどの濃い霧――当時の言葉で言うところの「ガス」に包まれてしまった。
「……えっ、健二、急に何も見えなくなっちゃったわよ」
真由美の声に少し不安が混じる。健二はスピードを落とし、フォグランプを点灯させた。
「伊吹山は天気が変わりやすいって聞くけど、これじゃあ『迷宮』だな。まるで雲の中に突っ込んだみたいだ」
窓の外は、乳白色の壁。ファミリアの赤いボンネットだけが、その白い世界の中で異彩を放っている。対向車のライトがぼんやりと膨らんで現れては、また霧の向こうへ消えていく。昭和の山道特有の、少し湿った、そして高山植物の青臭い香りが車内に満ちた。
「せっかくのお出かけなのに、残念ね……」
真由美が少し落胆したように呟いた。健二はハンドルを握り直し、「大丈夫さ、頂上に行けばきっと何かが変わる」と彼女を励ました。
雲上の奇跡:海より深い雲海
標高1,000メートルを超え、終点の駐車場が見えてきたその時だった。
「……あ!」
真由美が息を呑んだ。
フロントガラスを覆っていた霧が、まるで劇場の幕が開くように、一気に上下に分かれたのだ。突き抜けるようなコバルトブルーの空が再び姿を現し、強烈な太陽の光が車内に差し込む。
二人が車を降り、山頂への遊歩道を少し歩いた時、眼下に広がる光景に足が止まった。
「これ……ガスじゃなかったのね。私たち、雲を突き抜けてきたんだわ」
そこには、どこまでも続く「雲海」が広がっていた。
さっきまで自分たちを苦しめていた「ガス」は、実は巨大な雲の絨毯だったのである。麓の街も、関ケ原の古戦場も、すべてはこの真っ白な波の下に眠っている。自分たち二人だけが、世界の屋根の上に立っているような、静かな高揚感が押し寄せた。
「すごいな……。去年のウォーランドの極彩色とは正反対の、真っ白な世界だ」
健二は真由美からカメラを受け取ると、ファインダー越しにその光景を覗いた。雲の波間に、遠く白山や御嶽山の山頂が島のように浮かんでいる。
「健二、撮って。この雲海をバックに。……私たちが、今日ここにいた証拠を」
真由美は、風に揺れる髪を片手で押さえながら、雲の海を背に微笑んだ。その姿は、昭和の少女マンガの1ページのように神々しく、そしてどこか儚げだった。
昭和59年、山頂の平和
二人は頂上の売店で、少し冷えた「伊吹そば」をすすりながら、遠く琵琶湖方面まで続く雲のうねりを眺め続けた。
「ねえ健二。去年のメナードランドは、賑やかで、音楽がいっぱいで楽しかった。でも、今日のこの静かな白の世界も、私は大好きよ」
真由美が、パールの指輪をはめた指で、雲の水平線をなぞる。
「平和ね。本当の平和って、こういう静かな時間のことを言うのかもね」
健二は頷き、最後の一枚のフィルムを切った。
昭和59年の初夏。二人が伊吹山で見たのは、単なる景色ではなく、共に困難を突き抜けた先にある「光」そのものだった。
帰りのファミリアの中、夕焼けに染まり始めた雲海をバックに、二人は約束した。
来年も、再来年も、こうして季節の移ろいを二人で追いかけていこうと。
この時の二人は、心地よい疲れの中で心の中で決めていた。




