一縷の光
歯車が噛み合い、満を持して迎える大団円。
“みんなが渡れる光の道ができますように・・・”
彼女の願いは、届いたのか。
15
『Migratory Bards』のゲストルームに響く、グランドピアノの調べ。
触ると壊れてしまいそうな、繊細な音の粒。
部屋の中に広がる小さな世界は、とても儚い。
奏でる人間は存在しない。
グランドピアノ自身が、言葉を紡ぐように音色を彩る。
その小さな世界を構築するように、夜想曲が流れていた。
今紡がれている旋律の調べは、ヘ短調。
バーカウンターにも、誰もいない。
ただ一人、カウンター席に座る女性がいた。
この小さな世界の主は、彼女である。
背中の辺りまで真っ直ぐ伸びた綺麗な黒髪。
藤色のチャイナドレスに身を包み、
その胸元には、百合の刺繍が白く輝いている。
彼女が俯き加減で見つめる先には、
カウンターに飾られているアグラオネマ。
陽の当たらないこの空間でも、
彼らは幾重の綺麗な模様を葉に落とし、
瑞々しい姿を見せてくれている。
彼女の瞳に映る、哀の色。
それはピアノの調べと共鳴していた。
この小さな世界は、
まるで彼女の為に用意されたステージのようだった。
部屋の照度は明るい。
いつもの、プラネタリウムのような空間は今ここになかった。
ピアノの調べが変ホ長調に変わる頃、
小さな世界を引き裂く風の渦が舞い込んだ。
ゲストルームの出入り口の扉が開き、
侵入者たちは足を踏み入れる。
世界の空気が変わったことを、女性は静かに受け入れた。
カウンター席から腰を上げ、その侵入者たちに向かい合う。
「・・・・・・しばらくだね。」
そう言って薄く笑う、翠色のカクテルドレスに身を包む女。
その女の表情はとても美しく、冷たい。
「・・・誰や?」
独創的なヘアスタイルの男は、その女に問い掛ける。
アグラオネマのような迷彩柄の服装に身を包み、
女とは対照的で物々しい。
「鈍感だね。あの女だよ。あんたの仕事を邪魔した女。
プロのメイクが入っていたから、騙されただろうけど。」
女―『結女衣』は呆れ気味で、
男―『道頓堀』に言う。
『道頓堀』はしばらく女性を見つめながら考えると、
思い当たったのか表情をみるみるうちに明るくさせた。
「あーっ!!!
ほんまや!!
まさかのメイドさん!?
何や、女怖いわぁ。変わり過ぎやろ~!!」
とびっきりの笑顔を湛え、
『道頓堀』は対面する女性に手を大きく振る。
「もうこれは運命としか思えへん!!
前の化粧よりも今の方が好みや~・・・ん?
何や、またごっつぅ綺麗になってへんか?
会えてほんまに嬉しいわぁ~!!」
「はしゃぎ過ぎじゃない?」
『道頓堀』の異常な歓び様に、
『結女衣』は冷たい視線を送る。
それに怯むことなく、彼は強い想いを語り出す。
「彼女は格別なんや。戦隊モノで言うと、レッドや。
ヒーロー・・・ヒロインか。女神さまみたいなもんや。」
「・・・よほど惚れ込んでいるってわけね。キモ過ぎ。」
夫婦漫才のような刺客たちを、女性は静かに見守っている。
炎を灯した瞳は、揺らぐことなく二人を真っ直ぐに映していた。
「・・・・・・あんた一人?」
この部屋を見渡して問い掛ける『結女衣』に、女性は答える。
「あなたの望み通り、全員いる。」
感情の籠らない返答だったが、『結女衣』は満足そうに笑う。
「そう。パーティーの招待客を把握してくれてありがとう。」
「ただし・・・あなたの望む未来にはならない。
私がいる限り。」
強い言葉。
揺るがない意志。
そして女性の表情。
それは、見る者を圧倒する存在感を叩きつける。
この小さな世界の主だと、知らしめるように。
「私は『小百合』。
未来を見据える者。
『管理人』に寄り添う『易者』。
今日あなたたちが、彼の命を脅かす為に訪れた事を知っている。
・・・それは、
『Migratory Bards』に対する侮辱と失礼極まりない行為。
私はあなたたちを、全力で阻止する。」
女性―『小百合』の気迫と凛とした姿に、
『道頓堀』は目を輝かせて身震いした。
「・・・うわぁ~・・・・・・
かっこええ~・・・惚れてまうやろ~・・・
あっ、もうこれ惚れとる。」
『結女衣』は不敵な笑みを浮かべて、『小百合』を見据える。
「・・・あんた何様?
全てが自分の思い通りになるとでも言いたいわけ?
あんた一人で、私たちを止める?面白い冗談ね。」
「・・・食い止める。」
『小百合』は、熱い視線を送ってくる『道頓堀』に目を向けた。
「私はあなたに決闘を申し出る。」
“決闘”の言葉に、『道頓堀』は口の端を大きく吊り上げた。
「俺は一騎打ち大歓迎や。せやけど・・・
決定権はこの女にあるんや。
多分そういうの受けつけへんで。」
「決闘したら?別に止めないけど。」
「・・・へ?ええんか?」
「好きにすれば?
・・・女王様がご所望されている事だし。」
「ほんまか~?
やったぁ。ほな、お言葉に甘えさせてもらうわ~。」
『道頓堀』は『結女衣』の前へ弾むように歩いて出て行くと、
『小百合』に向き合って身構える。
その構えに、一分の隙もない。
「敬意を表して、お遊びナシや。
邪魔が入らへんように、『力』は使わせてもらうで。」
それに応えて、『小百合』も身構える。
何の感情も乗らない、静かすぎる構え。
しかしその姿は、とても強い。
『道頓堀』は『小百合』を見据えて、満面の笑みを浮かべる。
「ほな、行くで!!」
決闘の火蓋を切るように、彼は声を張り上げた。
そして、ダン!!!と足で地を踏み、
一気に彼女との間合いを詰める。
その勢いに乗り、体当たりで襲いかかる。
彼女は紙一重でそれをひらりと避けた。
しばらくして、ピアノの調べはロ長調に変わる。
攻防は、『道頓堀』の攻撃が続く形で時が過ぎていった。
『小百合』は舞うようにそれを避け続ける。
二人の決闘を、少し離れた所で『結女衣』は傍観していた。
「・・・何や、何もせぇへんのか?期待外れやわ~。」
あまりの徹底した『小百合』の防戦に、
『道頓堀』は痺れを切らすように接近する。
「もたもたしてると、あの女がいっちょかみしてくるで。
こちらは時間制限があるんや。」
そう囁きながらも鋭い技を繰り出す『道頓堀』の攻撃を、
『小百合』は受け流しながら言葉を返す。
「・・・私たちに協力して。
『佐川 陽一郎』に恩を感じているのなら。」
紡がれた名前を耳にして、彼は表情を変える。
「・・・何やて?
何であんさんがその名前を知ってんのや?」
「私はその人の孫だから。」
決着がつかない二人の決闘を静かに見守っていた『結女衣』は、
小さく息をついてレッグホルスターに手を掛ける。
「・・・笑えんジョークやな。」
「今まであなたがしてきた事は、決して許されることじゃない・・・・・・
それがどんな理由でも。」
「それはよう分かっているつもりや。
せやけど・・・あんさんに俺は止められん。」
『結女衣』はレッグホルスターに収められた
リボルバー(拳銃)を手に取る。
「本当に恩人の孫やとしても、や。
説得して止めようなんて、甘いで。」
素早く弾を充填し、リボルバーのトリガーを引く。
放出された銃弾は音もなく、“意思”を持って空を切った。
『小百合』は、その“意思”から逃げなかった。
銃弾は彼女の右腕に命中する。
しかし、動きは止まらない。
命中したはずの弾痕も傷もない。
その違和感に、『結女衣』は険しい顔になる。
「・・・・・・いるね。」
舌打ちをして、『結女衣』は部屋全体に目を凝らす。
「どこにいる・・・・・・」
その違和感は、『道頓堀』にも拭えなかった。
「・・・イケメン兄ちゃんの『力』は、使えんとちゃうの?
どないなってんのや?」
ピアノの調べは、そのタイミングでホ長調に変わる。
『小百合』は『道頓堀』との距離を取り、
身構えて彼を中心軸としてゆっくり歩き出す。
「・・・説得なんて、する気はない。」
彼女の絹のような黒髪が、ふわりと舞う。
「全てを受け入れて、道を築く!」
『道頓堀』は本能的に危機を感じた。
『小百合』から離れて間合いを取ろうとするが、時はすでに遅かった。
彼女は燕が低飛空するように、彼を追う。
『結女衣』は素早くリロードしてリボルバーを構えるが、
変速する『小百合』の動きを追えず、照準が定まらない。
この時、『結女衣』と『道頓堀』二人の間で不協和音が生じていた。
『隔離する力』で隔たれた空間の中でも、
『空間を行き来する力』を使う『瞬』の存在。
そして、『小百合』が繰り出す予測不能な技の舞。
その二つの存在が、刺客たちを困惑させた。
『音を消す力』のタイムリミットが来る。
やむを得ず、『結女衣』はトリガーを引いた。
バン!!!
大音響が部屋中に飛び散る。
銃弾は『小百合』の頭にめがけて飛ぶが、
命中するも痕跡は残らない。
銃声の影響で耳鳴りがする中、
『小百合』は舞うのを止めなかった。
両腕を広げた後、肘を後ろに引く。
「はっ!!!」
気合とともに、両手の平を突き出した。
彼女の発勁は凄まじい威力を放ち、『道頓堀』の鳩尾に直撃する。
「・・・っ!!!」
しかし彼は、それを瞬時で衝撃を和らげるように自ら後方へ飛ぶ。
ガターン!!!
部屋のテーブル席に身体が落ちる。
『道頓堀』は、衝撃が残る鳩尾に手を添えながら立ち上がると、
『小百合』を見据えて大きく息を吐く。
「・・・・・・今のはヤバかったわ~・・・・・・」
再び、『小百合』は『道頓堀』との間合いを詰めようとした。
『結女衣』は素早く弾を充填する。
「・・・ちっ・・・使えないね。」
その言葉は、破局を意味していた。
その空気の流れを、『小百合』は察知する。
「『瞬』!!」
合図のような掛け声に、
『道頓堀』は動こうとするのを止めて
『結女衣』の方に目を向けた。
相棒の構える銃口が、自分を捉えている。
しかし、リボルバーが火を吹くことはなかった。
「っ!」
拳銃を持つ手に衝撃が走り、『結女衣』はリボルバーを落とす。
かしゃん、と音が響くと同時に、
部屋にいる全員が少年の姿を把握した。
「このまま、おとなしくしている方が身の為だぞ。」
低い声が、『結女衣』の耳元で響く。
その声の主から羽交い締めされている事に、
『結女衣』は嫌悪する。
「あんたは・・・
レディに対する礼儀を知らないね・・・」
拘束を外そうともがく彼女の言葉に、
少年―『瞬』は笑って吐き捨てるように言った。
「お前のどこがレディなんだよ・・・」
「離しな、ガキ。」
「ガキじゃねぇし。」
拘束の力を強くし、『瞬』は『結女衣』の動きを封じ込める。
その光景を見ていた『道頓堀』の目に灯る、灼熱の炎。
彼の心情を察知し、『小百合』は言葉を紡ぐ。
「・・・分かったでしょう?
彼女は平気であなたを切り捨てる。
駒にされていただけだという事。
『Lotus』に加担しても、状況は変わらな・・・」
「兄ちゃん。その手を離しぃや。」
心情とは裏腹の言葉を放つ彼に、『小百合』は目を見開く。
「・・・はぁ?
この期に及んでヒーロー気取り?・・・笑える。
私は使えないあんたを消して離脱しようとしたの。分かる?」
『結女衣』は呆れたように言い放つ。
「このままつるんでも厄介なだけだし。知りすぎたしね。
もうあんたとは終わり。
変な気を遣わないでさっさと逃げたら?
まぁ、逃げられたらの話だけど。」
「・・・ちょう黙っとれ。」
『道頓堀』に強い殺気が生まれている。
その殺意は、『結女衣』を羽交い絞めにする『瞬』に向けられている。
「そいつはどうしようもないクソ女やけど、協力者や。
俺は手を組んだ相手を、最後まで絶対に見捨てん。」
「・・・は?どうしようもないクソ馬鹿はあんたでしょ?」
「兄ちゃん覚悟しぃや。」
『道頓堀』はジャケットで隠れていたショルダーホルスターから、
ナイフを取り出す。
この展開に、『小百合』は動揺した。
しかし一瞬でかき消して、見据える。
― ・・・未来が変わる!
いや、創られる!
見なければ・・・・・・!!
幾重の事象が、『小百合』の頭の中に映像として流れてくる。
その一つ一つが、望まない形で向かう。
『瞬』は、大きな殺気を纏って自分に向かってくる
『道頓堀』に怯む事はなかった。
「・・・良かったな。想われて。」
ぽつりと零れた呟きが、『結女衣』の耳に届く。
彼女は目の前に広がる、大きな気のうねりを見た。
殺気と、
熱く燃え盛る炎を。
「おりゃあぁぁっ!!!」
ナイフに彼の気合いが乗る。
その炎をしっかり見据え、『瞬』は言霊を放つ。
「『小百合』!!」
放たれたと同時に、
彼女は地面を蹴って飛び出す。
閃光の如く『道頓堀』の背中を捉え、
鞭のようにしなる両腕が彼の後頚部に落とされた。
意識が一点に集中していた為、背後からの攻撃に
『道頓堀』は完全に無防備だった。
衝撃は軽減される事なく、ダイレクトに伝わる。
「・・・ぐぁっ・・・・・・」
小さく呻き、『道頓堀』は床に崩れ落ちる。
ぴくりとも動かなくなった彼を、
『結女衣』は唖然として見つめる。
そして、思わず言葉を漏らした。
「・・・ほんと、何やってるのよ・・・・・・?
馬鹿すぎるでしょ・・・・・・」
「さぁ、どうする?お前は今圧倒的に不利だが。」
『瞬』の言葉に、『結女衣』は我に返って唇を噛む。
「誰が・・・不利だって?」
片足を上げ、『結女衣』は『瞬』の足の甲目掛けて踏みつける。
ピンヒールの踵が足の甲に落ち、
『瞬』は痛みで顔をしかめた。
その出来た隙を見逃さず、
『結女衣』は羽交い締めからすり抜けて
地面に落ちていたリボルバーを手に取る。
レッグホルスターに素早くリボルバーを収め、
ピンヒールを脱ぎ捨てて彼女はゲストルームから駆け出ていった。
彼女の後を追おうとする『瞬』を、『小百合』は止める。
「待って、『瞬』。今は追わないで。」
先を見据えた彼女の言葉に、彼は素直に従った。
夜想曲はホ短調を迎えていた。
しばらく聴き入れた後、『瞬』は『小百合』に尋ねる。
「・・・うまくいったのか?」
その質問に、『小百合』はどちらの意も示さなかった。
「・・・とにかく今は、最悪の事態を免れたと思う。
未来が書き換えられるスピードが早くて・・・・・・
はっきり言えない。」
「・・・・・・そうか。」
二人は、気を失った『道頓堀』に目を向ける。
「・・・この人、本当はすごく良い人なのかもしれない。
でも・・・」
『小百合』は目を伏せる。
彼女の気持ちを察して、『瞬』は言葉を紡いだ。
「こいつの思い込みは何も救えない。誰も。こいつ自身も。
このままだと破滅しかない。
何も解決しない・・・・・・
こいつ自身が、変わらないといけない。
荒療治だが、俺はいいと思う。」
「・・・うん・・・・・・」
「『管理人』と儂の役目だ。何も心配するな。」
二人の間に響く声。
ゲストルームに現れたその声の主に目を向け、
『小百合』は頭を下げる。
「・・・よろしくお願い致します。」
うつ伏せで気絶している『道頓堀』に、
声の主―『烏』は目を向ける。
彼の元に歩み寄ってしゃがみ込むと、
パーカーの余った袖で彼の頭を、ぱしっ、と叩く。
「全く・・・この狼藉者が。」
彼女の顔に、いつものマスクは着けられていない。
その露わになった表情に浮かぶ色と、
黒曜石を思わせる大きな瞳に宿る、淡い光。
それは、少女の姿である彼女には
不釣り合いの深い母性を感じさせた。
「・・・演技というのは難しいな。
“私”と言ってしまって、冷や汗かいたぞ・・・
気づかれるかと思った。」
「・・・そこを心配したのか?」
『烏』は、じろっと『瞬』を睨んで悪態をつく。
「こんな事は金輪際せんぞ!
お前が儂の身体に入り込むなんて・・・
想像しただけで鳥肌ものだ!塩持ってこい!!
全身洗い流したい気分だ!
『小百合』の指示があったから従ったが・・・」
『空間を行き来する力』。
彼はその力を改めて見つめ直し、発想の転換をした。
“生きている者、物を『空間』として捉えれば”?
力を応用し、それを実行できたら・・・
隔離された空間の中でも、力を発揮できるのではないか。
彼はその考えに達した。
このゲストルームのカウンターに置かれたアグラオネマ。
彼は刺客たちが来る前に、その観葉植物の中に潜んでいた。
『小百合』に銃弾が襲った時、
彼女の身体の中に移ってそれを回避したのだ。
今アグラオネマの鉢植えには、
『結女衣』の撃った二発の銃弾が埋まっている。
「従って頂いて、本当にありがとうございます。」
『小百合』は深く頭を下げる。
それに対して、『烏』はかぶりを振った。
「何を言う。従っていなければ、
儂は奴らの意のままにされていただろう。
礼を言うのはこちらの方だ。」
ちら、と『瞬』に目を向け、『烏』は鼻を鳴らす。
「お前には礼など無用だろう。」
「何だよ。その対応の違いは。」
二人のやり取りを見て少し心が和み、『小百合』は息をついた。
グランドピアノは、相変わらず綺麗な旋律を紡いでいる。
「・・・これから私たちは、『結女衣』を追います。」
『烏』は頷き、告げた。
「案ずるな。お前の先読みは生きている。
『結女衣』は門に向かわず、『迷宮』に足を踏み入れた。
まだ任務を遂行しようとしている。」
「・・・・・・はい。」
『小百合』の顔に、憂愁の影が差す。
それを『瞬』は、寄り添うように見守った。
夜想曲は狂いなく流れていく。
これから起こる事象を、暗示するように。
真円の月が照らし出す草原に、新たな一つの影。
その人物の顔には、生きた年数を重ねた証のしわが刻まれている。
白髪はオールバックで固められ、
月が放つ光を取り込んで銀色に見える。
身長165㎝程の中肉中背。
背筋が伸び、しっかりした足取りは貫禄がある。
コンバットシャツにBDUパンツ。
背中にはスリングで固定したライフルが一丁とバッグ。
装着したヒップホルスターには、
実弾と拳銃が収まっている。
その物々しい出で立ちの、紳士の双眸に映るのは厳かで大きな古い門。
そして、その門の前に立ちはだかる若いスーツ姿の男女。
その男女を目で捉え、紳士は距離を保って立ち止まった。
紳士と男女の間に、生暖かい風が通り抜ける。
紳士を捉える男女の瞳には、
計り知れない複雑な感情が入り乱れていた。
「・・・・・・こんな形で再会するのは・・・・・・
非常に残念です。」
男―長田は告げる。
目に力を秘め、紳士を真っ直ぐに見据える。
「・・・・・・すまないね。私は君を知らないようだ。」
紳士が発するその声音は、
高齢とは思えない程張りがあって力強い。
「・・・・・・そうでしょうね。」
長田は、紳士が自分を見覚えないと言った事を充分理解していた。
「貴方は自らの身体を差し出し、
犠牲を払って俺に証拠を残そうとした。
貴方が、“記憶を残す最後の瞬間”・・・
それを綴った手帳が残されていた。
貴方と俺が密かに頼りにしていた方が、
真実を繋いでくれていた。」
一方的に語る彼の話を、紳士は黙って聞いている。
「いや、その方だけじゃない。貴方の人柄と心の温かさが・・・・・・
貴方に救われた人たちが証拠を護り、支え、繋いでくれた。
だから俺はこうして・・・貴方と再会することが出来た。
全てを犠牲にした貴方を、受け入れる事が出来る状態で。」
「・・・語る意味がさっぱり分からない。
君はなぜそれを私に語る?」
「もう俺の声が届かなくても、響かなくても・・・・・・
貴方が全てを失っていて分からない状態でも、話しておきたかった。
この残酷すぎる現実を受け入れなければならない
御家族に代わって、手向ける言葉です。」
「・・・・・・なるほど。」
紳士は柔らかく微笑む。
「君は、この身体の主の知り合いか。それで合点がいく。
だが・・・・・・」
しわが刻まれた右手が、
ヒップホルスターに収められている拳銃に伸びる。
「私は急いでいてね。愛弟子が待っているのだよ。」
その言葉が火蓋となる。
女―橋口は紳士が拳銃を構えたと同時に、
長田を護るように前へ出た。
「橋口!」
紳士は照準を、駆け出してきた橋口に変えて射撃する。
拳銃にはサプレッサーが装着されていた為、
射撃音と閃光は軽減されて発砲される。
銃弾は、踏み込んできた橋口に命中せず、逸れる。
「はっ!!!」
気合いを乗せ、紳士の右手に向けて足を蹴り出す。
それを紙一重で避け、紳士は笑った。
「おお、これはまた・・・
『ここ』には素晴らしい若者が多いようだな。」
長田はすかさず橋口の片腕を取って駆け出し、
施設を囲む森の木々に身を隠す。
彼は彼女に向かって言おうとするが、
訴えかけるような目を見て押し黙った。
一瞬だけ、二人は見つめ合う。
施設のわずかな照明が頼りの森の中で、
互いの目に浮かぶ光を確かめ合った。
「・・・・・・実行する。」
「分かりました。」
長田の短い言葉に、橋口はすぐ返答する。
紳士は二人の隠れる木々に向かって歩きながら、
楽しそうに話し掛ける。
「そこでいちゃつくだけなら、このまま見過ごしてもいいぞ。」
長田は橋口に伝わる程度の声量で、言葉を掛ける。
「・・・無茶するなよ。」
橋口も同じく、囁くように言葉を伝えた。
「私を信じてください。」
彼女は微笑む。
「長田さんの事、私は信じています。」
「・・・・・・ああ。」
彼も微笑む。
「俺もお前を信じている。」
二人の間に生まれた絆と、
互いに想い合う強い心。
それは、時間と世界を掌握できる可能性を秘めている。
長田はジャケットで隠れているショルダーホルスターから
リボルバーを取る。
彼の銃にも、サプレッサーが装着されていた。
息を潜め、二人は打って出るタイミングを窺った。
紳士が森の領域に足を踏み入れた瞬間、
長田はリボルバーを構え、素早く照準を合わせて射撃する。
紳士は分かっていたかのように
前方に回転して受身を取り、木陰に身を潜めた。
同時に、橋口は長田の元を離れて別の木に移る。
紳士が身を隠した木に向かい、長田は再度射撃した。
「闇雲に撃つのは愚策だよ、若造。」
張りのある声を近くで感じ、長田は素早く声の方に身体を向ける。
かろうじて紳士が繰り出すコンバットナイフの突きを
回避し、向き合った。
完全に避けきれていなかった為、
長田の左腕辺りが少し切り裂かれている。
繰り出されるナイフの攻撃を、長田は見極めて避けていく。
完全に避けきれず、所々ジャケットやスラックスを引き裂いた。
「避けるだけかね?」
紳士はつまらなそうに言う。
長田は間合いを取って、見据えた。
「この身体の主を傷つけたくない気持ちは分かるが・・・
状況は何も変わらないぞ。」
「お前は『佐倉井 要』だな?」
その質問に紳士は、にたりと笑う。
「正確には、『佐倉井 要』の意志を持つ者だ。」
長田は身構えると、紳士の懐に踏み込むように拳を突き出す。
紳士は難なく避けて言葉を放った。
「何だ、その正拳突きは。
恋人の蹴りの方が重かったぞ。」
紳士の背後に回った橋口が、
同じくサプレッサー装着のリボルバーを構え、射撃する。
銃弾は紳士の右足に目掛けて飛ぶが、
長田から距離を取るように木陰へ身を隠す。
まるで、橋口との連携を把握しているように。
―・・・動きが読まれている。
長田も木陰に身を隠し、木の幹に背を預けて深呼吸した。
そして、まぶたを閉じる。
頭に浮かぶのは、
深い哀愁の色に染めた瞳で
自分を見据える女性の言葉。
―【長田さん。
闇の脅威から祖父を救ってください。
祖母と私では・・・・・・
あまりにも荷が重すぎて耐えきれません。
貴方と『アヤメ』さんが道を切り開いてくれると、
私たちは信じています。
・・・私たち家族の想いを託します。
どうか、よろしくお願い致します。】
勿論止める。
俺の願いでもある。
そして・・・・・・佐川さんの願いでも。
・・・食い止める!
「くっ!」
呻く声が耳に届いた。
長田は、はっとして木陰から様子を窺う。
紳士の腕の中に、橋口の姿が見えた。
片腕で首を絞めるように拘束し、
その手にはコンバットナイフが握られている。
もう一方の手に拳銃を持ち、銃口を自分がいる方向へ向けていた。
「さぁ、猫を捕まえたが・・・」
紳士は高らかに笑う。
「若造。出てこなければ彼女の命はないぞ。」
言葉と同時に首を絞められ、橋口は苦悶の表情を浮かべる。
彼はそれを見て、思わず身を乗り出しそうになった。
しかし、必死で感情を抑える。
― 耐えろ。
そして考えろ。
感じ取れ。
これは機会だ。
長田は大きく息を吐いて、少し吸い込む。
機会を得たと、彼女から与えられたと、
彼は言い聞かせながらその準備をする。
彼女を早く救いたいと、逸る気持ちを抑えながら。
意を決し、彼は木陰から出て紳士の前に立ちはだかった。
長田はリボルバーを手から離し、地面に落とす。
手のひらを見せるように、両腕を上げた。
「ふふふ・・・案外利口だな。」
長田の様子を眺めて、紳士は笑う。
「・・・・・・よろしい。君の勇敢さに免じて、
まだ私に何か語る事があれば、続きを聞いてやろう。」
長田は真っ直ぐに、橋口を見つめる。
その真摯な眼差しを受け、彼女はそれを見つめ返す。
二人にしか分からない、無言の会話。
橋口は長田の強い意思を感じ取り、まぶたを閉じた。
それを確認し、彼は紳士に目を向ける。
この時、長田の耳に紳士の言葉は届いていなかった。
そして、橋口の耳にも。
心の中で時を刻む。
彼は静かにまぶたを閉じた。
長田の様子に、紳士は乾いた笑みを漏らす。
「・・・もう、語る事すらできな・・・・・・」
突如、強烈な閃光と爆音が長田の後方で発生する。
紳士はまともにその強烈な閃光を見てしまい、視力を奪われる。
そして爆音で鼓膜にダメージを受けた。
衝撃波は長田と橋口にも襲ったが、
心構えと備えがあった為、それで動きが封じられる事はなかった。
橋口は目を閉じたまま
悶える紳士の腕からすり抜け、
彼の背面で両腕を取ってその身体を地面に押しつける。
彼の拳銃も、ともに落ちた。
彼女はジャケットの内ポケットから手錠を取り出して、
彼の両手首に掛ける。
橋口は、長田と離れた際に対応する耳栓を装着していた。
長田は、橋口を捕まえた紳士に立ちはだかる前に。
紳士が拳銃にサプレッサーを装着していた場合、
閃光手榴弾の使用を事前に打ち合わせていたのだ。
閃光手榴弾の効果が止み、辺りはしんと静まり返る。
耳栓を取り、長田は制圧された紳士の元へ歩み寄る
その傍で、跪いた。
紳士は呻き、彼が傍にいる事も気づいていない。
「・・・・・・貴方の意志は、受け継がれています。自分の中に。」
そう言葉を掛ける彼は、悲しさで溢れている。
橋口はそんな彼を、静かに見守った。
「貴方の手記がなければ・・・辿り着かなかった。」
一昨日、児童養護施設を出て向かった先。
名刺に書かれていた電話番号の主の所である。
その主の元に、佐川陽一郎が書いた手記が残されていたのだ。
彼が佐川陽一郎だった、最期の瞬間。
その手記の経緯が頭の中に巡り、
複雑な思いが胸を締め付ける。
「終わったようだな。」
静寂を切り裂く、少女の声。
その声の主を見て、長田は目を見開く。
橋口は、アシンメトリーのヴェネツィアンマスクを着ける少女に
会釈をした。
見た目幼いが
妙な威厳を取り巻く少女に、
長田は言葉を発することなく視線を送る。
それに気づいて、少女は彼に声を掛けた。
「今夜『ここ』で起きた出来事、『ここ』の存在、それを口外する事を禁じる。
お前は表に立つ人間だ。儂らの存在を知る必要はない。」
その後に、橋口に目を向けて告げる。
「『アヤメ』。佐川陽一郎を『医者』の元に連れていけ。
これは『管理人』の意思である。」
了承したと言葉にしようとした時、
橋口は少女の後ろに現れた人物を見て口をつぐんだ。
「それは私が引き受けます。」
その声に、一同が注目する。
見事な鳳凰の刺繍が施されたチャイナドレスに身を纏う淑女。
少女は仮面の下で驚きの色を見せる。
「『玉玲』・・・・・・」
「申し訳ありません。大変な役を担わせてしまって・・・・・・」
淑女―『劉 玉玲』は長田に向かって頭を深く下げる。
長田は首を大きく横に振った。
「・・・頭を下げる事はありません。
貴女の、深い悲しみと絶望には比べものにならない。
貴女がこれ以上傷つくことは、もう・・・・・・」
「いいえ。」
『玉玲』は、橋口に抑えられた紳士の元に歩いていき、傍に跪く。
彼に向けるその瞳には、
彼女だけの想いが深く灯されている。
その計り知れない感情をしっかり受け止め、
『玉玲』は言霊を口にした。
「・・・・・・やっと・・・会えましたね。」
しわが刻まれた小さい手を、紳士の肩にそっと置く。
「・・・・・・ずっと・・・会いたかったのですよ。
陽一郎さん。」
彼女の目から、溢れる銀色の涙。
止めなく、零れ落ちる。
「傍にいますからね・・・・・・
これからもずっと・・・・・・」
皆がいる所に、月の光が微かに届く。
長田と橋口は、泣き崩れる淑女の姿を
ただ静かに見守る事しか出来なかった。
森の木々たちが、ざわめく。
肌寒い風が吹き抜けていった。
少女は深いため息をつく。
「・・・・・・残酷だな。天意とやらは。」
迷路のような廊下を走る、翠色のカクテルドレスを纏う女。
ドレスの丈を膝上まで引き裂いており、裸足で駆け抜ける。
同じような扉が彼女の目に入り、その度開けようとするが、
施錠されていて中に入る事が出来なかった。
彼女は息を切らし、
妙な胸の苦しさを感じながら、走る。
邪魔になったネックレスを引きちぎり、放り投げる。
煩わしかった。
胸が苦しい。
こんな事、今までになかった。
「・・・ちっ・・・・・・」
胸の奥に灯る火種が消えず、
『結女衣』は苛立ちを募らせて舌打ちする。
それを、取り除く手立てはない。
「・・・何よ!このふざけた廊下はっ・・・!」
開かない扉を、だんっ!と叩く。
― 判断を誤った。
門に戻って、彼と合流すればよかった。
・・・この廊下、いつもと様子が違う。
『あいつ』と契約を結ぶ際にここを通った時、
教えられた手順で進めば辿り着けた。
・・・あの女の策か。
それに、私は無様に
はまったわけね。
『結女衣』は眉間にしわを寄せる。
頭の中に浮かぶ、男の顔。
そして自分を飲み込もうとした、あの炎。
― あいつのせいだ。
あいつのせいで、判断を誤った。
そう思えば思うほど、
息苦しさが襲い、苛々した。
彼女は歯を食いしばり、無理矢理気持ちを抑え込む。
― ・・・・・・
彼を待つしかない。
冷静になれ。
これでは、完遂できない。
・・・いや、難しい。
冷静にならなければ。
廊下の壁に背を預け、『結女衣』は
しばらく深呼吸を繰り返す。
そうしていると息が整い、鼓動も安定してきた。
落ち着きを取り戻し、
レッグホルスターに収めていた弾薬を確認する。
― ・・・・・・無駄遣いはできない。
・・・・・・
洒落込まなければよかった。
【ドレス似合うてるで。綺麗や。】
・・・・・・
彼女は、飛び込んでくる男の言葉を打ち消すように歩き出す。
― このふざけた廊下。
どんな仕掛けか分からないけど・・・
『管理人』の部屋に繋がっているはずだ。
辿り着かなければ、終わりだ。
・・・いや・・・・・・
闇雲に行くのは愚かだ。
『結女衣』は立ち止まって考える。
― ・・・そうだ。
ここで待っていればいい。
あいつらは私を追ってくるはず。
彼と合流する時間稼ぎにもなる。
あいつらの隙を狙うしかない。
あいつらは甘い。
必ず隙が生まれる。
再び『結女衣』は、廊下の壁に背を預ける。
しかし、それが彼女にとって命取りになった。
壁から出てくる両腕。
大きな手が目に飛び込み、女は驚愕する。
その両腕に背後から自分の両腕を拘束され、
逃れようとした反動で床に倒れ込む。
うつ伏せ状態で上から身体を押さえつけられ、
彼女は身動きがとれなくなった。
「っ・・・・」
憎々しさを露わにして、
『結女衣』は自分を制圧する少年を下から睨みつける。
そんな彼女を、『瞬』は見下ろす。
「もう詰んでる。観念しろ。」
「・・・・・・その目が大っ嫌いなんだよ・・・!」
「はいはい。嫌いで結構。」
その二人の所に、歩いて現れる女性。
彼女の姿を目で捉え、
『結女衣』は皮肉めいた口調で言う。
「・・・やるじゃない。意外と、えげつないね。」
『小百合』は彼女の元に歩いていき、しゃがむ。
強い眼差しを向けてくる相手に対し、
真っ直ぐに見つめて声を掛けた。
「あなたに選択肢はない。」
「・・・・・・言っておくけど、私を捕まえても何もならないから。
私はただの雇われ者。組織の事情は何も知らない。」
『小百合』は、小さく首を横に振る。
「それは違う。あなたも当事者よ。」
そう発言した彼女に、『瞬』は目を向ける。
彼女の顔に浮かぶ情念。
今にも、涙が溢れて零れ落ちそうな悲愴の表情。
この場所に来てから
常に深い憂いと哀愁を漂わせている女性の姿に、
彼はずっと心に引っ掛かるものを感じていた。
「・・・は?何断言しているわけ?」
『小百合』の言葉を訝しげに思い、『結女衣』は言葉を吐く。
「私に術を叩き込んだのは、あんたのジジイよ。
ただそれだけ。私はただの雇われの『殺し屋』。
・・・せっかく感動の対面を用意しておいたのに、
台無しじゃない。」
『小百合』は彼女の言い分に、揺らぐことはなかった。
「祖父はもう、いない。
私たち家族が知っている祖父は、この世から去っている。
あなたの知っている『佐川陽一郎』は、
『佐倉井 要』の意志を持った・・・操り人形。
・・・・・・形は違うけれど、あなたも同じ。」
その発言に、『瞬』と『結女衣』は驚きの色を隠せない。
互いに、知らない事実だったからだ。
「ちょっと・・・デタラメ言わないで。
私は私の意志で動いているってば。」
「残念だけど・・・・・・
あなたは『佐倉井 要』の手で生まれ変わった。
人生をリセットされた。
記憶を書き換えられ、『佐倉井 要』に育てられた。
祖父のように命を落とした状態で
意志を受け継いだのではなく、命ある状態で。」
「なにそれ。妄想?痛すぎるってば。」
「だから祖父とは違う。
『あなた』は、【あなた】である事を忘れているだけ。」
「もうやめろ。聞きたくない。」
「・・・・・・『小百合』。」
『瞬』は、低い声でその名前を呼ぶ。
『小百合』は『瞬』に目を向ける。
1秒にも満たない視線の衝突で、
彼は心臓が大きく拍動するのを感じた。
「悲しい時間は、終わりにしよう。」
落ち着いた声が、廊下に響き渡る。
その存在感のある声の主に、三人は注目した。
鷹が羽ばたくようなヴェネツィアンマスクを着けた男性。
その姿を見た瞬間、『結女衣』はもがく。
「・・・・・・くそっ!!」
もがく『結女衣』を、
『瞬』は容赦なく押さえつけた。
彼は胸の中で広がる焦燥感に耐えきれず、
『小百合』に言う。
「・・・・・・話してくれ。」
その願望に対する答え。
彼女が彼に向ける眼差しと、表情。
憂いと悲しみが溢れて止まらない。
「この人は7歳の頃、仮死状態のまま『Lotus』に引き取られた。
この人の両親は抱える借金の為に、
自分たちの子ども二人を差し出したの。
でも・・・・・・
彼らは『Lotus』の手によって命を奪われている。
彼女の特殊な『力』を、存分に発揮させる為に。
家族の事、思い出、
自分の生い立ちに関する記憶を封じ込め、操作した。
『佐倉井 要』は彼女の人生を我がものにした。
使い勝手のいい、操り人形として。
・・・・・・彼女の本当の名前は、【高城 由梨】。
彼女は、あなたの妹なんよ。」
「・・・・・・!!!」
その答え。
まさか、もしかしてという疑念が、吹き飛ばされる。
いや、それだけではない。
襲い掛かる大きな衝撃と、情念。
言葉では言い表せない感情が、彼を飲み込んだ。
「・・・はっ?何を言うかと思ったら、こいつと私が兄妹?!
笑うしかないね!あんたの妄想ヤバすぎるってば!!」
動きを封じられている為、わめき散らかすしかない『結女衣』。
言葉に出来ず、ただ沈黙して心で闘っている『瞬』。
その二人を、『小百合』は涙を頬に伝わせて見守る。
男性―『管理人』は靴音を鳴らし、
『結女衣』の傍に歩み寄った。
それを、彼女は敵意をむき出しにして睨み付ける。
「・・・何だよ。あんたを狙うのは私だけじゃないからね。
『Lotus』が存在する限り、付きまとう。
逃げられないから。」
「・・・それはない。」
通る声で、『管理人』は告げる。
「国が動いた。もう『Lotus』は終わりだ。
そして君には、深い眠りについてもらう。」
「・・・あんたまで、この女の妄想にやられちゃってるってわけね。
『Lotus』が終わる?そんなわけないでしょ!?」
「・・・『瞬』。」
『管理人』は、俯いたまま動かない彼に呼び掛ける。
「彼女に掛ける言葉はないか?」
彼は動かない。
その瞳の中で荒れ狂う闇の海は、彼の思考すら奪っている。
『小百合』は駆け出した。
彼の頭を抱え込むようにして、抱き締める。
「彼女はあなたに、
優しい心と人を想う気持ちを残したんよ!!
自分の分まで、生きてほしいと願って!!
生きる幸せを、あなたに託して・・・!!」
悲痛な叫びが、闇に呑まれる彼の心に突き刺さる。
「怒りや憎しみを、自分の中に閉じ込めて・・・・・・
彼女は眠ったの。
ほんの一握りの『力』を残して。
あなたの『力』は、彼女の『願い』なんよ・・・・・・!!」
心に突き刺さった言葉は、一縷の光となる。
それは彼の中で溢れ出し、染み込むように広がっていった。
温かさ。
優しいにおい。
愛しい人の風に包まれる。
荒れ狂っていた闇の海は、
穏やかな青い海に形を変えていった。
「・・・・・・こいつは、どうなる?消すのか?」
小さな呟きが、『小百合』の胸元で響く。
彼女は彼の頭をゆっくり離し、その両頬に自分の両手をそっと置いた。
優しい眼差しを彼に向け、目を合わせる。
「・・・『Migratory Bards』に関する記憶を封印する。」
「記憶を・・・封印?」
『管理人』は、
二人の空間を壊さないように言葉を紡ぐ。
「私は『記憶(心)を連鎖する力』を用いて、
『この世界』を成り立たせる管理の役目を担う。
著しく『この世界』の規律を乱す者は、厳正に問う。
『この世界』に関する記憶(心)を眠らせ、白紙の状態にする。
それが、『管理』の意味を知らない者たちの間で、
命を消す事として噂された。
・・・命を脅かすという事ではない。
・・・命ある限り、形は変えても
記憶(心)は生き続ける。
ずっと繋がっていくのだ。」
『管理人』は『結女衣』の頭に手を伸ばそうとする。
彼女は『瞬』の押さえつけから逃れようと頭を振った。
「やめろ!!・・・放せ!!・・・くそっ!!」
『瞬』は暴れる『結女衣』に言い放つ。
「もうこれ以上、命を弄ぶな!!
これ以上、自分を傷つけるな!!
・・・お前の痛みは、俺が抱え込んでやるからっ・・・
だからっ・・・もう・・・・・・」
歯を食いしばって言う彼の目から、光るものが零れた。
それは彼女の頬に落ちた。
『結女衣』は、彼を見上げる。
深い、藍色の闇。
その中に光る、一粒。
二粒・・・・・・
沢山の煌めきが、彼女の目に映る。
「・・・・・・もう、いいから・・・・・・
俺を許さなくていいから・・・・・・
ごめんな、一人にして・・・・・・
・・・・・・由梨・・・・・・」
慟哭する少年。
その姿を見て、彼女の心に深く重い痛みが蘇る。
― 痛い。
この痛みは何?
私じゃない。
・・・誰だ?
・・・【もう、いいよ。】
・・・・・・誰だ、お前?
・・・【ありがとう。】
・・・ありがとう?
何もしてないけど。
・・・【もう、いいの。】
・・・何がいいのよ?
何も遂げられていないじゃないか。
・・・【おにいちゃんに、あえた。】
・・・それが、そんなに嬉しいの?
・・・【うん。】
・・・どいつもこいつも。
おめでたいね。
・・・【あなたも、あえたでしょ?】
・・・・・・
・・・【とても、すてきなひとに。】
・・・・・・素敵かどうかは分からないけど。
・・・【うれしい?】
・・・・・・さぁ、ねぇ・・・・・・
固まったまま動かなくなった『結女衣』と、
慟哭する『瞬』を、
静かに見守る『管理人』と『小百合』。
二人は、その時を迎え入れる。
悲しい時間が、終わる時。
『管理人』は温もりのある手を、『結女衣』の頭に置いた。
≪・・・『結女衣』。汝の名前を封印する。≫
彼の言霊が、彼女の耳に届く。
その瞬間、
ことん、と頭を床に落とし、まぶたが閉じられた。
その顔は、
さっきまで暴れていた人物とは思えないほど安らかである。
彼の涙が、溢れて止まらない。
その涙は
全て彼女の上に落ちる。
深い想いが籠められた煌めき。
浄化するように、染み込んでいく。
「・・・さぁ、二人とも。
彼女を『医者』の所に連れて行ってくれないか。
行き方は『烏』が教えてくれる。」
しゃくり上げる『瞬』の肩に、そっと手を置く『小百合』。
彼女の頬にも、止めなく涙が伝っている。
互いに涙で視界がぼやけていたが、顔を見合わせた。
「・・・・・・行こう、『瞬』。」
その促す言葉を、彼は静かに受け入れた。
穏やかな寝息を立てる自分の妹の身体を背負い、
ゆっくり歩き出す。
その後を、『小百合』は付いていく。
彼は思い出した。
遠い記憶。
遊び疲れてうとうとしている妹をおんぶして、
布団に運んだこと。
とても小さくて、可愛くて、やわらかい。
ずっと、時間を忘れて見つめていた。
自分よりも小さい存在。
自分の小さなその手を、さらに小さい彼女が握る。
しっかりした力で。
瑞々しい生命力に溢れた、自分の妹。
護りたい。
大事にしたい。
その時、強くそう思った。
「・・・・・・」
瞳に浮かぶ光。
少女を背負って歩く彼の目に灯る、その明かり。
その光を、『小百合』は見つめる。
彼の意思。
それが、未来を見据える彼女の心に届く。
ゆりは小さく頷いた。
それでいい、と。
*
財団法人『Lotus』解散。
中心人物『緒方 裕史』逮捕。
長年に亘る人体実験実施と臓器売買ルート斡旋、事実の黒幕。
突如出されたその報道は、世界を震撼させる。
少なくとも彼らの恩恵を受けていた事業や国民は、
その重い現実を突きつけられる事となった。
情報は一部を伏せて公開される。
その内容の重さと非人道的な行いの数々は、
情報を受け取る者たちを奈落の底に突き落とした。
中でも、親から見放された児童たちを引き取り、
人体実験の犠牲にされた多くの子どもたちがいるという事実。
非情に痛ましく、悲しい現実があったという衝撃。
追悼の声と祈りが、世界中を埋め尽くした。
そしてこの報道によって、多くの者たちが
親と子の関係と命の尊さを考え直す。
心の在り方。
それ一つで、世界は変わる。
その真理も、根付くことになる。
重い現実があろうとも、
心の在り方で
人は動くことが出来るし、考えられる。
かけがえのない力が、心には宿るということを。
*
厚生労働省、厚生労働大臣『橋口 東生』。63歳。
彼は隠密に『Lotus』を追跡していた。
元警視総監『木下 貴司』と連携し、
国の隠密組織として非合法の元活動する
『Migratory Bards』の協力を得て、
主要人物『佐倉井 要』の行いを封じる事。
それを、協力者以外に決して漏らさず、秘密裏に進めてきた。
副大臣『多岐川 秀仁』ですら、
『Lotus』に寝返ってしまったからだ。
それだけ、『佐倉井 要』に賛同する者は多かった。
国に関わる者たちまで、その影響は浸透していたのだ。
― 周りに信頼できる人間はごく僅かの中で、
ようやく制圧できる時が来た。
それに辿り着けたのは、強い繋がり。
自分に賛同してくれた、協力者たちの存在。
犠牲になった、一人の警察官。
その意志を受け継ぐ、若い警察官の不屈の精神。
そして、自分の養女。
彼女は私の誇りだ。
心底不憫な思いをして生きてきた、かけがえのない娘。
里親である私を、本当の父親と思って慕ってくれた。
彼女なりの恩を返すつもりで、
私の為に働いてくれていた。
・・・これからは、光ある人生を歩いてほしい。
彼は心から深く感謝していた。
真相解明に導いてくれた協力者たちと、
関わって犠牲になった多くの者たちに。
― これからの、
残された課題は山積みだ。
それを一つずつ、解決していく。
その一歩をようやく踏み出した。
礎となる、尊い子どもたちが
大きく羽ばたいていけるように。
何年、何十年、何百年・・・・・・
繋がっていく大きな志を実現する為に。
*
三日後。
夏の蒸し暑さが残る晴天の日差しは、
燦々と樹海の木々たちに降り注いでいる。
『Migratory Bards』施設内の片隅に存在する、白い建物。
規模は約500平方メートルで、
樹海の深い緑に囲まれた白亜のコンクリートは、
太陽の光を帯びて清潔さを増していた。
その建物の内部にある
白色で統一された無機質の廊下には、人気が無い。
静けさが漂う真っ白な空間に、
横開きのドアが四枚設けられていた。
その廊下に、足音が近づいてくる。
ぺたぺた、ぺたぺたと歩幅が狭い。
姿を現したのは、白衣を纏った一人の男性看護師。
黒縁の眼鏡を掛け、さらさらマッシュボブヘア。
その黒髪の頭上には、
キューティクルが整っている証である
綺麗な艶の輪が出来ている。
白衣を着た中学生。
そう思える程童顔である。
背は高いが、体格はもやしのように細い。
強い風が吹けば飛んでいきそうだ。
そんな彼の表情には、屈託ない笑顔があった。
絶えない陽だまりのように、和やかな空気を作っている。
彼はぺたぺたと内股で廊下を歩き、とあるドアの前で立ち止まった。
控えめに、小さく三回ノックをする。
「『ジーン』先生。往診の時間ですぅ。」
なよなよした声で、言葉を掛ける。
ドアの厚さで跳ね返りそうだったが、
中にいる人物の耳には届いていた。
しばらく間を置いて、ドアが開く。
顔を出した人物の羽織る物は、男性と同じ白衣。
その下には、Tシャツにジーンズというカジュアルな服装だった。
見た目40代半ばの女性である。
化粧気が無く、背中まで伸びた黒髪はうなじの所で束ねている。
背丈は男性の肩くらいで、無駄のない体つき。
雰囲気は穏やかだが、彼女の目に宿る光は強い。
「すぐ行きます。準備をよろしく。」
落ち着いたその声は、優しい響きを持っていた。
女性の申し出に、男性は快く返事をする。
「はい!
・・・あっ、そうだ、『ジーン』先生!
今日のパウンドケーキはとても美味しく出来ましたよぉ。
後で持って行きますねぇ。」
「ありがと~。今日は何ケーキ?」
「チョコとオレンジですぅ。」
「わっ。いいね~。往診が終わったら頂くわね。
美味しい紅茶も一緒に付けてもらえると有難いな~。」
「はぁい!了解しましたぁ!」
男性は絶えない笑顔をさらに上乗せして、にぱぁ、と笑う。
ぺこっ、とお辞儀をして幸せそうに去っていく姿を、
女性は温かい眼差しで見送った。
『Migratory Bards』の住人、『医者』。
女性の名前は、『ジーン』という。
男性は、『看護師』の『ラッヘン』。
『ジーン』は『ラッヘン』の詳しい事情を知らない。
そして、『ラッヘン』も同じである。
二人は『Migratory Bards』で知り合い、
助力関係を築く間柄である。
『ここ』で『医者』と『看護師』を名乗るには、
厳しい適性のクリアと、
『管理人』、『番人』の許可が必要である。
なぜなら、国の隠密として働く為のプロセス。
自由に水面下で動き、支える者になる為である。
『ジーン』はその誇りを持って、
日々世間から隔たれた世界で生きている。
『ラッヘン』は、
性格的な事情と外見で世間から冷たい扱いをされ、
ここに辿り着いた。
自分の取り柄を認め、大事にしてくれる『この世界』。
『ジーン』と出逢い、彼はさらに飛躍の場を得た。
二人は立場環境違うが、
志と自分の力に誇りを持つ同士として手を取り合っている。
互いに認め合い、信頼しているからこそ
この仕事は成り立っていくのだ。
特別医局室には、四人の『医者』がいる。
『ジーン』はその一人で、自分の部屋のように使うその医局室には
自前のデスクと簡易ベッド、
そして木製のテーブルと椅子が置かれていた。
生活感のない、白い壁で覆われた部屋。
他の『医者』たちは、医局室を思い思いのインテリアを置いて
完全に自分の部屋化している。
あえて『ジーン』は物を置くことをしていない。
名前の由来の通り彼女の『力』に関係する為、
物の情報を極力抑えたいのだ。
デスクの上にある、開いてあったカルテを閉じて、
『ジーン』は医局室から出ようとドアに向かう。
【御免。今手隙か?】
その時、頭の中に少女の声が響いた。
彼女は足を止め、驚く様子もなくその声に応答する。
「・・・どうも、姫君。大丈夫ですよ。」
【・・・先日は、本当に悪かったな。】
「一気に三人運ばれてきた時には、拷問かと思いました。」
【すまない。
忙しい身で診てもらうのは心苦しいと思ったが・・・・・・】
「ふふ、冗談ですよ。問題ないから気にしないでくださいな。」
【・・・経過はどうだ?】
目に落ちてきた横髪を耳にかけ、
『ジーン』は淡々と言葉を述べる。
「姫君の情報通り、
『佐川 陽一郎』の脳内には特殊なチップが埋め込まれています。
容易には取り出せない程、定着していますね。
無理矢理剥がすのは『医者』全員が反対しているので、
今睡眠状態にさせ、ラボに収容しています。
『佐倉井 要』本人に聞くのが一番早いとは思いますが・・・・・・
一筋縄ではいかないようです。
だから、
『佐川 陽一郎』の犠牲は、大いに意義がある。
私たちに証拠と軌跡を残してくれた。
・・・追々解明されると思います。」
【・・・・・・そうか。】
「あとの二人は『剥奪者』なので、
身体的な異常は見受けられません。ですが・・・」
【・・・どうした?】
「『結女衣』に関しては異例だと思います。
記憶が7歳のまま止まっている・・・
適応するのは、難しいかもしれません。」
【・・・・・・】
「『道頓堀』は問題ないでしょう。
彼は『Migratory Bards』での活動期間が短いから・・・
すぐに適応すると思います。
・・・噂に聞いていましたが、彼の『力』はとても興味深い。
『医者』全員が同意しています。
ですから、例の件を勧めてみようと思います。」
【・・・いろいろと、かたじけない。】
「・・・ふふっ。その言葉遣いを聞くと、
和むのはなぜでしょうね・・・
姫君、後でいつもの薬を『ラッヘン』に届けさせます。」
【・・・本当に、かたじけない。】
「・・・どうしました?
いつもの威勢がありませんね・・・
あっ、そうそう。
貴女の歯を作りたいと思っていまして。
今度こちらに来てください。」
【うっ・・・・・・そ、そうか。分かった。】
少女の反応に、『ジーン』は噴き出す。
「あははっ。嫌そう。
相変わらずこちらが苦手のようですね。」
【に、苦手だと?!儂を誰だと思っているのだ。
苦手なものなど存在せんぞ!】
「それでは今度、是非いらしてくださいな。」
【・・・分かった。行ってやる!】
「ふふっ。約束ですよ。
・・・それでは姫君。往診の時間なので失礼します。」
【・・・ああ。よろしく頼むぞ。】
『ジーン』は微笑む。
背伸びをした後、息を整えるとドアノブに手を掛けた。
『ジーン』が担当する病床エリアの一つ、『剥奪者』。
『剥奪者』とは、『管理人』から
『Migratory Bards』に関する記憶を封印された者たちを指す。
強制的に記憶(心)を抑える為、環境、状況に適応するか。
このエリアでは、適応するまでのアフターケアを行っている。
病床エリアのドアは全て、特殊な電子ロックが掛けられている。
病室からは開けられず、外から『医者』が認証しなければ外せない。
『ジーン』は、とある病室のドアをノックした。
彼女の後ろには、笑顔を湛えた『ラッヘン』が控えている。
「ど~ぞ~。」
気の抜けた返事が、ドアの向こう側から聞こえた。
『ジーン』は『医者』だけが持つICカードで、
ドアのすぐ横の壁に設置されている電子ロックを外す。
ドアをスライドして開け、
『ジーン』はまるで友人に会うように明るく声を掛けた。
「おはよ~、悠生くん。」
二人は、部屋にあるベッドのすぐ傍で腕立て伏せをしている、
患者服を着た男を目の当たりにした。
程よく額に汗をかき、男は『ジーン』に笑い掛ける。
「おはよう、センセー!俺は見ての通り元気や~!
俺ってどこが悪いんか~?
身体を動かしたくてたまらへんのや~!」
その光景を、『ラッヘン』は笑顔を絶やさず見つめている。
いつもと変わらない笑顔だったが、
『ジーン』は彼が明らかに困惑しているのを感じ取る。
彼女は男の傍に歩いていき、優しく語り掛ける。
「筋トレ中悪いけど、少しだけベッドに戻ってもらおうかしら。
『ラッヘン』が困り果てているわよ。」
「ああ、せやな!堪忍や~看護師の兄ちゃん!」
男は素直に腕立て伏せを止め、
ふーっと息を吐きながらベッドに座る。
気を取り直すように、
『ラッヘン』は白衣のポケットから
ハンドタオルを取り出して男に差し出す。
「良かったら使ってくださぁい。」
「おおきに!兄ちゃん気が利くなぁ!」
男は差し出されたハンドタオルを躊躇なく受け取り、
各所に吹き出た汗をごしごし拭き取る。
そのタオルを返そうとした男に、
『ラッヘン』は、やんわり断る。
「そのタオルあげますぅ。
しばらく落ち着いてから血圧測りますねぇ。」
「もろうてええんか?困らへんの?」
「大丈夫ですぅ。」
「ふふ、じゃあ落ち着く間、少しお話しましょうか。」
助け舟を出すように言葉を掛けると、
『ジーン』は部屋の壁に立て掛けてあった
パイプ椅子を組み立てる。
その椅子を男と向き合うように置き、ゆっくり腰を下ろした。
男は彼女を見据えて言う。
「センセー。俺、こんな所で寝とる場合やないんや。
バイト掛け持ちしとんねん。
弟が病気で入院しとってな。その医療費稼がなあかんねん。」
茶化す様子はなく、真面目に訴えかける。
その男の言い分を、『ジーン』は小さく頷きながら聞いた。
そして、穏やかに言葉を返す。
「退院させたいのは山々だけど、事情があってね・・・
あなたはここから出られないの。」
「・・・へ?出られへんのか?」
「ええ。・・・今のあなたは記憶喪失で、
自分の犯した罪を忘れているの。」
「記憶・・・喪失?」
「人の命を脅かしてしまうという罪を、ね。」
男は、思いもよらない告知に目を見開く。
明るかった表情が、その告知によって陰りを帯びた。
「・・・・・・俺、全く覚えてへん。」
「・・・・・・そうね。」
「・・・・・・バイトしとる場合ちゃうな。」
「・・・・・・」
「俺、どうなるんや?
・・・どうもこうもないわ・・・・・・
・・・警察・・・行かなあかんな・・・・・・」
「・・・・・・そうね。」
「・・・・・・はぁ・・・・・・」
男の肩が落ちる。
威圧を感じさせる雰囲気は、全くない。
「・・・・・・そんな大事起こして、覚えてへんって・・・・・・
どうしようもないわ・・・・・・
俺、何やっとんねん・・・・・」
『ジーン』が告げた事実を、男は疑う様子もなかった。
告げられた言葉を受け入れ、噛み砕いている。
逃げずに、現実を受け入れようとしている証拠だった。
その事を、彼女は把握する。
「・・・センセー。俺には一応親友がおってな。
そいつに連絡出来たらええねんけど・・・・・・」
「・・・・・・それも、出来ないわね。」
「・・・やっぱり、せやろなぁ・・・・・・」
「ねぇ、悠生くん。」
すっかり落ち込んでしまった男に対し、
『ジーン』は穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「提案があるのだけど、いい?」
「・・・提案?」
「あなたには秘密があるわね。
『隔離する力』という、素晴らしい『力』を持っている事。」
「・・・・・・何でセンセー、俺の秘密を知っとんのや?」
「私も、秘密にしている『力』があるの。
・・・信じてもらえるかしら?」
「・・・勿論や。センセーなら信じる。」
「ありがとう。
私の『力』はね、『本質を見る力』。
隠れているもの、隠しているもの・・・それが分かっちゃう『力』。
「・・・センセーも、ゲームみたいな『力』があるんか。」
「ふふ。そうね。
それに悩まされる時期が、勿論あった。
思春期なら尚更ね。
・・・でも、この『力』を受け入れて、私はここで働いている。」
「・・・へぇ。センセーはすごいなぁ。」
「私は何も。
私を受け入れてくれて、活躍する場を与えてくれた方々のお陰。
出逢いがなければ、
私は今でも・・・『力』を隠して生きていたでしょうね。」
「・・・・・・」
「話が逸れてごめんなさい。
単刀直入に言うと、あなたがもし良ければ
条件付きだけどここで働いてみない?
あなたの『力』は、医療に大きな可能性を秘めているの。」
『ジーン』の言葉に、『ラッヘン』は驚愕する。
彼女の提案は、彼にも聞かされていない事だった。
「俺の・・・『力』が?」
「そう。あなたがここで働いて稼いだ分を、弟さんの医療費に全額充てる。
そしたら一石二鳥・・・いや、三鳥じゃない?」
願ってもない『ジーン』の申し出に、
男は戸惑いの色をみせる。
「せ、せやけど・・・・・・」
「普通なら、あなたの身柄は警察に引き渡される。
そして裁きを受け、服役するのが筋。
・・・でも、それだとあなたは埋もれてしまう。
私は・・・いえ、私たちはあなたの存在意義を認めたいの。
・・・あなたの犯した罪は消えない。
だけど、これからそれを償う為に生きる事は、できるはず。
あなたの『力』も、あなた自身も、生かされる。
誰の目にも触れられず、隔たれた世界だけど・・・
居心地は悪くないと思うわ。」
「『ジーン』先生・・・・・・」
『ラッヘン』は笑顔のままだが、困り果てている。
『ジーン』は、そんな彼に片目を瞑る。
「・・・・・・センセーに、そんな権限あるんか?」
男は素直に、疑問に思った事を尋ねた。
彼女は微笑んで、それに答える。
「ないけど、私が推薦したの。強~く、ね。
もうお墨付きをもらっているのよ。
あとは、あなたが承諾したらこの話は進む。」
力強いその言葉で、
陰りを帯びていた男の表情に光が差す。
「・・・・・・ほんまに?」
「ええ。ただし、言った通り条件付きよ。」
「・・・条件って?」
「弟さんに決して会えない。
あなたの親友に決して会えない。
この場所から外に決して出られない。
あなたの『力』を最大限に発揮してもらう。
そして、それを私たちに見せる事。
この条件を受け入れて、ここで生活してもらう。
・・・それが出来るのなら。」
彼女が紡いだ一言一句を
しっかり頭に入れ、男は決意を固めた顔で強く頷いた。
「・・・・・・それでええ。充分や。
こんな俺を必要としてもらえるんやったら、なんぼでも働く。
いや、働かせてください。」
そう言って、深く頭を下げる。
彼女の表情は穏やかだったが、彼を見据えるその目は
射貫くように鋭い。
「・・・相当の覚悟が必要よ。」
男はそれに対し、屈託のない笑みを浮かべた。
「大丈夫や、センセー。
俺がなんぼ記憶喪失でも、今まで甘い人生歩いてきてへん事は
身に染みて憶えとる。
死ぬ気で働くわ。
機会を与えてくれたセンセーの為に、俺は頑張るで。
・・・ほんまに、おおきに。」
力強い宣言と意思。
それを受け止め、彼女はようやく笑みを浮かべた。
「・・・それじゃあ、話を進めておくわね。
あなたには、とりあえず『ラッヘン』の仕事を
手伝ってもらうおうと考えているわ。」
「えっ。」
『ジーン』の言葉に、『ラッヘン』は固まる。
男は『ラッヘン』に向かって、深く頭を下げた。
「看護師の兄ちゃん。・・・いや、センパイやな。
よろしゅうたのんます。
迷惑かけるかもしれへんけど。」
思いもよらない展開で、
普段笑みを崩さない彼も少し眉が下がって困り顔になる。
『ジーン』はそんな彼に、限りなく温かい眼差しを向ける。
「教える立場になって、さらに成長する良い機会よ。
彼をよろしく頼むわね。『ラッヘン』先輩。」
彼女にそう言われてしまったら、
彼は断る事が出来なかった。
『ラッヘン』は必死に笑顔を作り、男に言い放つ。
「うぅ・・・この仕事は楽じゃありませんからねぇ。
覚悟してくださぁい。」
男は『ラッヘン』を見据え、真剣に言葉を返す。
「俺はこの仕事に関わるあんさんたちを、心から尊敬しとる。
甘くないのも知っとるで。厳しくいってもらってええ。」
彼は、男の迫力に怯む。
目を潤ませ、猫背になり、胸元でグーにした両手を合わせる。
「厳しく・・・は、ちょっと無理ですぅ・・・」
「ほな、ぼちぼち。」
「ぼちぼち・・・・・・なら、いいですぅ・・・・・・」
「ほな、よろしゅうたのんます!」
男は立ち上がり、『ラッヘン』に向かって再び深々と頭を下げた。
彼はどうしていいか分からず、おろおろしている。
『ジーン』は笑みを湛えて、彼らを温かく見守った。
命の灯火。
生きている限り、それは輝き続ける。
どんなに暗闇が支配する空間でも・・・
繋がっていくのだ。
『剥奪者』病床エリアの部屋には窓がない為、
緻密な空調設備が整う。
そしてLEDシーリングライトの照明灯の光がなければ、
そこは真っ暗だった。
シャワールーム、洗面台、トイレ完備。
かろうじてデジタル時計が壁に取り付けてある為、
時間の経過は感じられる。
ベッドのすぐ傍には食膳専用口があり、
1日3回、定期的にその扉が開いて食事が提供されていた。
その病室に入れるのは、原則ICカードを持つ『医者』と
『医者』から許可を得た『看護師』だけである。
とある病室のベッドに、立て膝をして座る女。
俯いて向かい合う先には、スケッチブック。
握るようにして持つクレヨンを、その一面に塗りつけている。
クレヨンの色は、青色。
それ以外の彩りは見当たらない。
白い部分を、その色で埋め尽くそうといている。
病室に入ってきた『ジーン』と『ラッヘン』に、
女は全く気づく様子もない。
ひたすら、スケッチブックに向き合っている。
二人は、しばらくその様子を見守った。
女の、スケッチブックを映すその目は虚ろである。
“えが、かきたい。”
昨日の往診時、女は『ジーン』にそう告げた。
彼女は、要望通りの物を女に与える。
その時から他のものに目もくれず、
スケッチブックに向かっていた。
ずっと、同じ色を使って。
青。
青。
一面青だった。
『ジーン』は、その絵をじっと窺う。
「・・・・・・『ラッヘン』。」
「・・・はい。」
「『瞬』が面会を希望しているらしいわね。」
「はい。今日も申請がありました。そして・・・・・・」
「・・・・・・ええ。聞いた。」
『ジーン』は、ため息をつく。
その表情は、憂いの色に染まっていた。
「・・・決断に迷うわね。」
「・・・そうですねぇ・・・・・・」
女の目に映る、深い闇。
そして、青を彩る一面の絵。
その深い青の闇を、『ジーン』は真っ直ぐ見据える。
『ジーン』は、三日前に初めて出逢った女性の顔を思い浮かべた。
― 『管理人』の『易者』。
彼女の『力』は、
自分の『力』に、よく似ている。
『読む力』。
『見る力』。
私の『力』は、個人の深い所を見る事が出来るのに対し、
彼女の『力』は、人と人の繋がりを読んで
起こりうる事象を把握する。
だから彼女の中には、途轍もない情報が一気に流れ込む。
私の比じゃない。
見た時、彼女が深い悲しみを秘めているのが分かった。
あの若さで。
とても強い心を保っている。
流石は、『玉玲』の孫娘ね。
凛とした存在感。
とてもよく似ている。
・・・これから彼女は、
どれだけの悲しみを胸に秘めていくのだろうか。
でも、彼女の目は闇に埋もれていなかった。
そこが、『玉玲』と違うところかもしれない。
深くて濃い霧の中を、
とても優しくて強い光を灯し・・・・・・
真っ直ぐに見通している。
“・・・どうか、よろしくお願いします。”
そう、自分に言い残した。
この一言は、とても重い。
言われた時・・・
彼女の、決して枯渇しない溢れる愛を感じた。
それは、自分すらも包み込んだ。
・・・・・・
・・・・・・
・・・腹を括るしかない、か。
彼女の指し示す道に、踏み出してみるか。
機会があれば・・・
彼女とゆっくり話したいわね。
・・・・・・似た者同士として。
その日の夜。
佐川ときの家では、いつものように夕飯の時間が流れていた。
しかし三人は、
それがいつもとは違う時間だと感じていた。
三日前。
三人はあの後『医者』に託し、
『Migratory Bards』を去ってこの家に帰ってきた。
『医者』が勧告した事。
託した者たちとの面会謝絶。
厳守するべきである、と。
その勧告は、三人の心にわだかまりとして残った。
食卓に並ぶ料理は、一向に減らない。
明太子を乗せた御飯を少量箸にとって口に運ぶ、ゆり。
里芋の煮物に箸をつける、俊太郎。
すでに箸を置き、湯呑みに注がれた煎茶をすする、とき。
居間の液晶テレビは電源が切られ、その画面には何も映っていない。
静かな時間が流れている。
その中、切り出すようにぽつりと言葉が漏れた。
「・・・・・・俺、学校を辞めるよ。」
ゆりとときは、俊太郎に顔を向ける。
その言葉の意味。
二人は、すでに理解していた。
「もう充分だ。戸籍を詐称しているのもあるし・・・
いずれ、けじめをつけなければと思っていた。
・・・今まで、本当に二人には世話になって・・・・・・
そのお陰で、俺は平和に生き、成長できた。
その恩は、一生かかっても返せない。
二人とも、本当にありがとうな。
・・・この感じている気持ちを、俺はあいつに分けたい。
・・・・・・由梨の傍にいようと思う。
もう、あいつを一人にさせたくないんだ。」
二人は静かに、
その言葉に籠められた想いを受け止める。
「・・・俺は、わがままかな・・・?」
ゆりは首を横に振る。
「・・・ううん。わがままなんて言わんで。」
それに同意するように
ときも頷き、言葉を告げる。
「俊太郎の想いは、とてもよく分かるよ。
私もね・・・陽一郎さんの傍にいたいと思っているんだ。」
「・・・おばあちゃん・・・・・・」
「余生を、ともにありたい。
私の場合は・・・現実として難しいが、ね・・・
せめて、いつでも駆けつけられる距離にいたいと思うんだよ。」
二人の強い意思。
ゆりはそれを尊重しようと、未来を見通していた。
彼らが踏み出す道を、自分がしっかり支えようと。
「・・・私は・・・・・・」
三人が出した決断。
この日の食卓は、
皆が顔を合わせて食事をする最後の晩餐となった。
それぞれの岐路。
“みんなが渡れる、光の道が出来ますように・・・”
彼女の想いが、これからの事象を温かく包み込んでいく。
エピローグ
1
深い眠りにつく、一人の紳士。
彼は隔離された白い部屋にいた。
酸素マスクを装着し、身体には各所ルートが確保されている。
規則正しく、行われる呼吸。
彼は、確かに生きている。
だがその姿を特殊ガラス越しで見つめる淑女の目には、
そう映っていない。
彼女が知る彼は、もういない。
追憶のように・・・
ともに重ねた時間を思い浮かべながら、見守り続ける。
淑女がいる部屋のドアが、スライドして開く。
ある男性が静かに現れ、彼女の近くに歩いていった。
白髪は七三で整えられ、麻のジャケットを羽織っている。
年齢は淑女と変わらないように見えるが、
がっちりした体格と強い光が灯る眼力には、
若かりし頃から培ってきた鍛錬が窺えた。
「・・・お久しぶりです、ときさん。」
優しく掛けられたその声で、ときは現実に戻る。
彼女はその男性に目を向けると、顔を綻ばせた。
「ああ・・・
木下さん・・・・・・
大変ご無沙汰しておりました・・・・・・」
頭を深々と下げるときに、
男性― 『木下 貴司』は柔らかく微笑む。
「こちらこそ、貴女に再会できて良かった。」
紡がれたその言葉に、
頭を上げたときは申し訳なさそうに言葉を返す。
「いろいろと・・・・・・飛び回っておりました。
お伺いせずに勝手に行動してしまった事、
深くお詫びを申し上げます。」
「いいえ、そんな・・・
私こそ、何も出来ず申し訳ありません。
ただ待つしか出来なかった事、深くお詫び致します。」
木下も、ときに向かって深々と頭を下げる。
彼女はかぶりを振った。
「何を仰いますか・・・・・・頭をお上げください。
貴方が主人を信じ、秘密裏で捜査して頂いていた事・・・
私はいつも心に留めながら動いて参りました。
だから、こうしてこの時を迎えられたのです。
言葉に出来ない程・・・・・・深く感謝しておりました。」
二人は目を合わせた後、
ガラス越しの向こうで眠る紳士に目を向ける。
しばらくその時間を共有した後、
木下はジャケットの胸ポケットから何かを取り出す。
そしてそれを、ときに差し出した。
「・・・これは、佐川の手帳です。
貴女にお返ししたいのですが、重要な証拠なのでそれができません。
ですから、この場で拝見して頂く形なら、と・・・
今日持参しました。」
ときは、差し出されたその手帳を見つめる。
色褪せた、手のひらサイズの手帳。
それは、彼女の記憶の片隅に欠片として残っていた。
“捜査した時に思った事、分かった事、
すぐにメモができるように・・・・・・“
そう言って陽一郎は、罫線が入っただけの
このサイズの手帳をよく買っていた。
それを思い出し、彼女は懐かしい気持ちになる。
「これに書かれていた放火事件の実録と、
佐川が入手したSDカード。
それが揃った時、私は正直鳥肌が立ちました。
彼の執念が・・・結びつけたのだと思います。」
「・・・・・・」
「・・・どうぞ、御覧になってください。」
促されるまま、ときはその手帳に手を伸ばす。
それに触れ、手にした瞬間
彼の風が彼女に吹き抜ける。
彼の深い想い。
温かさ。
心を抱き締めるように、それは彼女を包み込んだ。
彼女自身の想いが、涙となって溢れ出す。
「・・・陽一郎さん・・・・・・」
ときは、手帳を胸元で抱き締める。
そんな彼女を、木下は静かに見守った。
しばらくの間、彼女の嗚咽だけが部屋に響く。
その時間に心行くまで身を任せた後、
ときは包み込むように手帳を両手で持ち、そっと開いた。
彼の字が、隙間なく並んでいる。
最初の記された内容は、
放火事件とは結びつかない無縁のものだった。
別の捜査もこの手帳に書き留めていたのだろうと、
彼女は彼の文字を懐かしく思いながら、一字一字拾っていく。
次第にその内容は、『佐倉井 要』の追跡記録になっていった。
『Lotus』が『佐倉井 要』の研究をバックアップし始めた頃。
『佐倉井 要』はその当時の主要人物、
『緒方 裕史』と関わっていく。
児童養護施設『れんげ』の院長はその『緒方 裕史』で、
彼は『佐倉井 要』から児童の提供を求められていたようだ。
実験体として。
流石に彼はその要求を受け入れる程、悪魔ではなかった。
『佐倉井 要』の研究がどこに向かうのか・・・
それに恐怖を覚えた彼は、
『佐倉井 要』を追う自分にコンタクトを取ってきた。
研究の一部である、SDカードを提供したいという。
ある日、自分は詳しく話を聞こうと『れんげ』の施設に足を運んだ。
しかしそれが、悲劇の始まりだった。
『緒方 裕史』の行動を、
『佐倉井 要』は見逃していなかったのだ。
SDカードと『緒方 裕史』、そして自分。
証拠を持つ自分たちと、その場を消す為に
罪もない児童たちまで巻き込んで・・・・・・あの事故が起こった。
自分がかろうじて無事だったのは、奇跡に近い。
『緒方 裕史』は虫の息だった。
最後の力を振り絞って、彼は自分にSDカードを託した。
火の手はとても速く、児童たちを避難させる間もなかった。
・・・いや、あの爆発が起こった時点で、
児童たちは、もう・・・・・・
出火元が食堂だったようで、そこに行こうとしたが
倒壊していて行く事が出来なかった。
本当に、心残りだった。
まだ息のある児童がいたかもしれない。
・・・ここで死ぬわけにはいかなかった。
この証拠を、消してはならない。
『佐倉井 要』の手に、戻してはならない。
その思いだけで、自分は火事の中逃げ出した。
外に出ると、少年たちに会った。
正直・・・彼らに会う事ができて、自分は救われた。
彼らの、真っ直ぐな目を見て思った。
自分が生き残ったと知られたら、必ず追手が来る。
自分と、このSDカードを消そうとするだろう。
・・・・・・彼らに、託してみよう、と。
そう思ったのはなぜか、自分でも分からない。
気が動転していたのかもしれない。
だが、その時自分はそうするしか方法がなかった。
・・・長田に託そう。
彼は『佐倉井 要』の目に触れていない。
彼なら、自分の意志を必ず繋げてくれる。
家族にも、手が伸びるかもしれない。
家に戻るわけにはいかなかった。
すまない。とき。
君には苦労をかけてしまうだろう。
名前が記された文字を目にして、
ときの胸は締め付けられた。
これから自分は潜入捜査をする。
命がないかもしれない。
だから、だ。
この手帳は、木下に託す。
彼なら自分の思考を尊重してくれるだろう。
今、自分がやろうとしている事を。
・・・『佐倉井 要』のやっている事は、
自分たちの想像を遥かに超える非人道的な行いだ。
人を、人として扱わない、
自分本位の世界を目指している。
あいつは天才かもしれないが、
やり方を間違えている。
証拠を残すのは、至難の業だろう。
だが、不可能ではない。
最も有力な可能性は、自分の身体を差し出す事だ。
これなら、決定的な証拠が残る。
・・・解決してくれる事を願う。
木下。長田。よろしく頼む。
そして、出逢った子どもたち。
君たちが・・・無事でありますように。
SDカードは最悪、長田の手元にいかなくてもいい。
ただ、君たちと出逢った事は・・・・・・
自分にとって希望になった。
だから、その希望を君たちに託す。
とき。
家族を頼む。
すまない。
もし、君がこの手帳に触れるという奇跡が起こったら・・・・・・
その時の為に、言葉を残しておく。
愛している。
どんな時も。
永遠に。
最後の方は、涙で視界が遮られた。
溢れて止まらなかった。
ときは嗚咽を繰り返す。
彼の想いが籠った言葉に、
彼女の心はまるごと包み込まれていた。
長年抱えてきた喪失感、悲壮感。
ずっと彼の影を追って、追って、追い求めて・・・・・・
ようやく辿り着いた、この時。
この言葉。想い。
やっと、彼女は解放された。
重く、暗闇を這うような時間が・・・・・・
終わりを告げる。
エピローグ
2
― 疲れた。
いや、本当に疲れた。
この疲労は尋常じゃない・・・・・・
『Lotus』解散報道が出て、二週間が経つ。
重要参考人たちの事情聴取、事後処理・・・
彼は一心不乱に明け暮れ、
そしてようやく一息つける時間を迎え入れた。
時刻は深夜の1時頃。
長田 真は自宅のベッドに倒れ込み、うつ伏せたまま目を閉じる。
身体が鉛のように重かった。
ベッドに沈んでいくような眠気に襲われ、寝落ちしそうだったが、
着替えないまま寝るのはどうかと思い直す。
気力を振り絞って起き上がると、
彼は頭を掻きながら重いまぶたを必死で開けた。
ベッドに腰掛けるように座った後、
目に入ったのは自分のスマホ。
足が短い木製のテーブルに置いていた。
そのスマホを、しばらく眺める。
彼は大きな欠伸をして、涙目になりながら立ち上がる。
そっとスマホを手に取り、待受画面を見つめた。
頭の中に、浮かぶ女性。
さっき仕事場で別れたばかりだった。
彼は電話しようか、迷う。
その時。
プルルルル・・・・
着信音が響いた。
彼は、びくっとして目を見開く。
あれだけ重かったまぶたが、軽く開けられた。
プルルルル・・・・
画面に映る相手の名前を目に入れ、
さらに大きく見開く。
それと同時に、大きく跳ね上がる鼓動。
彼は、自分自身を疑った。
― ・・・おいおい。
年甲斐もなく・・・・・・
青春真っ只中かよ・・・・・・
自分にツッコミを入れる。
さっきまでの尋常じゃない疲労感が、跡形もなく消え去っていた。
彼女の名前を見ただけで、この浮き立つ感じ。
彼は、にやけそうになる顔を必死で堪えて、深呼吸する。
5回程着信音が鳴った後、
画面に映る通話マークをスワイプさせた。
そして、スマホを耳に宛がう。
「・・・どうした?」
やけに、声が低くなった。
しまった、と彼は思う。
《・・・・・・すみません。もしかして寝ていましたか?》
電話を通じてだが、彼はその声を耳にするだけで、
とても幸せな気持ちになった。
「・・・いや、寝ていなかった。大丈夫だ。」
《・・・・・・》
「・・・・・・」
《・・・・・・えっと、あの・・・・・・》
通話の相手は口ごもる。
彼は首を傾げた。
「・・・?」
《今日も、大変お疲れ様でした。》
「・・・ああ。お疲れ様。」
《・・・・・・それだけです。》
「・・・え?」
《だから、その・・・・・・それだけ、です。》
しばらくの、沈黙。
その間の重さが、彼の動悸の波を激しくさせる要因となる。
「・・・・・・それだけ。」
《それだけ・・・です。》
「・・・・・・そうか。実は・・・俺も、だ。」
《・・・え?》
一瞬、言うのを躊躇った。
しかし今は、勤務中ではない。
それが追い風になる。
「・・・・・・お前の声が、聞きたいと思った。」
《・・・・・・》
相手の顔は見えない。
だがその間は、彼の気持ちと同じである事を示している。
「・・・ありがとう。電話を掛けてくれて。
疲れが吹っ飛んだよ。」
《・・・・・・そう言ってもらえて、嬉しいです。》
「・・・・・・」
《・・・・・・》
互いに、胸の高鳴りを覚えた。
「・・・・・・橋口。」
《・・・・・・はい。》
「本当にいろいろ、ありがとう。
これからお前がどんな境遇でも、
俺は今まで通り変わらず接するつもりだ。」
《・・・・・・》
「だから、これからもよろ・・・」
《何ですか、それ。》
しかし彼の言葉で、彼女は機嫌を損ねてしまう。
《もっともらしい発言ですね。私から離れる口実ですか?》
「え?いや、俺は別に・・・」
彼女の急な言葉に、彼は戸惑う。
堰を切って出す言葉は、止まらない。
《確かに私は隠密として動く身でもありますし、
これから警部補の期間も終わって、
長田さんと同じ立場の警部になりますが。
そうですね。こんな女、可愛くありませんよね。》
「・・・・・・はぁ?」
《だからって、女として見ない方向はやめてもらえます?
『潜入屋』っていう肩書きで疑わしいと思いますが。
父の存在が大き過ぎて、後ずさりする人もいますが。
同じ人間ですよ?私だって・・・・・・》
「・・・おい!」
止まらなくなった彼女を、彼は一声で制した。
「何なんだ、一体・・・・・・
いきなり訳の分からないこと言い出して・・・
俺はお前の事をそんな風に見ていないし、
思ってもいないが。」
《・・・・・・》
彼の耳に、彼女の漏らした吐息が届く。
《・・・・・だって、今まで通り
変わらず、って言うから・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
・・・じゃあ、
長田さんは私の事をどう思っていますか?》
その問い掛けに、彼はどきっとする。
「・・・・・・」
《・・・伝えてもらってもいいですか?》
「・・・・・・」
《・・・お願いします。》
「・・・・・・」
《・・・・・・》
「・・・・・・聞きたいのか?」
《・・・はい。》
「・・・・・・どうしても?」
《・・・意地悪ですね。》
「・・・それを、お前が言うのか?」
《言ったら負け、みたいな空気やめてください。》
「・・・ははっ。言ったら負け、か。」
《負けず嫌いですよね、長田さんって。》
「・・・負けって何だ?」
《・・・ふふっ・・・》
「・・・・・・好きだ。」
《・・・っ!》
「橋口 七海が好きだ。大好きだ。
もうほんと好きだ。
だからこれからも、一緒にいたい。」
1ミリも気持ちを隠していない言葉は、
彼女の心に深く突き刺さった。
伝えた彼は、微笑みながら返事を待つ。
《・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・ずるい。》
「え?」
《ずるい!!
何よ・・・それ・・・・・・もう・・・バカ!!》
「・・・・・・」
《・・・ばか・・・・・・》
「・・・・・・」
《・・・・・・すきです。わたしも。
長田 真さんが、だいすきです・・・・・・
・・・一緒に、いたいです・・・・・・》
完全にノックアウトされた彼女は、小さく言葉を返した。
部屋の中は静かなので、その返事は充分彼の耳に届く。
互いに、俯いて、噛み締めた。
「・・・・・・」
《・・・・・・》
「・・・明日も忙しくなりそうだな。出来る限りゆっくり休めよ。」
《・・・はい。長田さんも。
では・・・この辺で。》
「ああ。」
《・・・おやすみなさい。》
「・・・おやすみ。」
互いにそう告げたが、
互いに通話を切ろうとしなかった。
しばらく、沈黙する時間が流れる。
《・・・・・・あの・・・》
「・・・ん?」
《・・・真さんって、呼んでもいいですか?》
この上ない申し出に、彼は笑顔になる。
「呼び捨てでもいいぞ。」
《・・・そ、それはちょっと・・・・・・》
「あと、二人の時は敬語禁止。
・・・俺は、七海って呼ぶからな。」
名前を言われて、彼女は頬を赤く染める。
《・・・はい・・・・・・》
「・・・じゃあ・・・・・・おやすみ。七海。」
《・・・おやすみなさい・・・・・・真さん。》
互いに名前を呼び合える幸せを噛み締め、通話を切る。
この二人に流れる時間は、ゆっくりだ。
ゆっくりと、育まれていく。
エピローグ
3
某大学病院のICU(特別集中治療室)。
その一室で深い眠りにつく少年がいた。
彼は一時期重い心臓疾患の為
CCU(冠状動脈集中治療室)に入っていたが、
段階を踏んで回復し、現在この治療室に移されている。
その少年の様子と具合を窺う為、
紀野 篤は毎日欠かさず病院に足を運んでいた。
訪れる時間は、仕事が終わって帰路につく深夜3時頃。
特別に随時面会の許可をもらっている。
今夜も彼は眠っている少年の顔を窺った後、自宅に帰ろうと
病院の駐車場に停めている自分の車に歩いていく。
駐車場の電灯は、あまり明るくなかった。
しかも今夜は新月で、月の光もない。
自分の車に、人の影。
紀野は条件反射で身構える。
「ごきげんよう。」
優しく紡がれる言の葉。
声の主は、車のフロントドア付近に背中を預けている。
黒のキャプリーヌハットを深く被り、
膝丈まである黒いロングジャケットを羽織っている。
深夜の闇に溶け込みそうな出で立ちの女性に、
彼は胸を撫で下ろす。
「・・・『ことり』か。」
女性が浮かべる微笑は、優雅で気品があった。
「どうも、紀野 篤さま。」
「・・・今日は何の“伝達”だ?」
女性― 『ことり』は彼の方に向き直ると、丁寧に会釈をする。
「主、『管理人』さまからの“伝達”になります。」
「・・・!」
その名前を聞き入れ、紀野は身を引き締めた。
彼女は『伝達者』である。
『Migratory Bards』と“請負人”を繋ぐ役割を担い、
請け負う者の依頼の報酬、伝達を潤滑に行う。
『管理人』、『番人』と同じく、
『伝達者』を名乗る者は一人しかいない。
『ことり』は、すぅ、と息を吸い、言葉を紡いだ。
「【君が請け負う『道頓堀』は『剥奪者』となった。
規則により、今後彼に関する情報は一切教えられない。
だが、彼の希望を叶えるものとして
現在入院中である、彼の弟の医療費を全額負担する。
そして君は、今日限りで“請負人”を解雇する。】」
紡がれた彼女の声は、
先程までの優しい響きとは違って男性のように低い。
それはまるで、“『管理人』の声”そのものだった。
彼女は一部の者たちから、“言霊使い”と呼ばれている。
その内容を聞き、紀野の表情は険しくなった。
「あいつが・・・『剥奪者』?!一体何があった?!」
『ことり』の胸ぐらを掴みそうな勢いで、彼は詰め寄る。
彼女はそれに動ずることなく、なだめるような目を彼に向けた。
「貴方のお気持ちは察しますが・・・何も答えられません。
“伝達”は以上です。」
「ちょっと待て・・・!それだけか!?」
「はい。」
彼は彼女を睨み付ける。
「・・・・・・連絡も出来ないのか。」
「御承知の通りでございます。」
「・・・くそっ!!!」
彼は怒りを露わにして、どんっ!と車のボンネットを叩いた。
彼女は、頭を項垂れる彼を優しい眼差しで見守る。
「・・・・・・あいつは、生きているのか?」
小さく問い掛ける声。
彼女はそれを、穏やかに拾う。
「・・・御随意に。」
納得できる答えは、返ってこない。
彼は怒りを鎮めるように、天を仰ぐ。
すると星屑たちの輝きが目に入り、少しだけ気持ちが和らいだ。
「・・・悠生・・・・・・」
― お前はいつも・・・・・・自分勝手だな。
・・・樹の医療費を全額負担・・・・・・
一体何があった?
最近の騒がしい報道と関係あるのか?
・・・もう、確かな答えは聞けない。
・・・・・・
“今後一切の情報は教えられない”・・・
じゃあ、生きているんだよな?
お前がくたばるはずがない・・・よな。
・・・全く。
・・・本当に、
お前はとんでもない野郎だな。
彼が気づいた時には、『ことり』の姿は見当たらなかった。
ため息をつき、再び夜空を見上げる。
― ・・・樹の事はまかせろ、悠生。
お前はもう少し、自分の事に目を向けるべきだ。
生きているなら・・・・・・
いつか必ず会いに来い。
元気になった樹と・・・待っているからな。
*
悠生がこの病床エリアで働くようになって、約1ヶ月が経った。
『看護師』― 『ラッヘン』の下で仕事を手伝い、
この施設で生活する環境は、
彼にとって貴重で充実した時間になっていた。
個性的なヘアスタイルの面影はなく、
綺麗に短く刈られて坊主頭になっている。
片耳に鎮座していた大黒天のピアスも、今は席を外していた。
仕事を手伝うとはいっても医療に携わるものではなく、
病床のベッドメイキングや部屋の掃除である。
最近一人で任されるようになり、
『医者』の『ジーン』から病床に入る許可をもらった。
外に出られない、
親しい人に会えないという制限はあるが、
なぜかそれは苦にならなかった。
彼にとって、仕事が出来て普通に生活出来る事が
とても有難かったのだ。
そして、
その稼いだお金が弟の医療費になっている。
それが彼の心を大きく支えていた。
『剥奪者』の病床エリアは今まで立ち入り禁止だったが、
今日初めて『ジーン』から許可をもらい、
悠生は一部屋ずつ訪問する。
このエリアにいる者たちは、
他の病床エリアにいる者たちと様子が違っていた。
自分もそのエリアにいたわけだが、
彼は『剥奪者』の意味が分からず疑問に思う。
― ・・・『剥奪者』って何や?
・・・精神病とはちゃうの?
しかし彼は、深いところまで考えないようにした。
― ・・・ま、ええか。
みんな訳アリっちゅうことやろ。
俺もそうやし。
ベッドメイキングに使用する新しいシーツと掃除道具を
専用のワゴンで運び、
彼はとある部屋の前に行く。
電子ロックの解除は、『医者』の持つICカードと
許可を得た『看護師』の指紋認証である。
彼の場合、『ジーン』から特別な許可をもらっている為、
『看護師』ではないが指紋登録されている。
「悠生と申します~。ベッドシーツの取り換えと、
部屋を掃除しに来ました~。」
電子ロックのすぐ横にあるインターホン越しから
元気よく声を掛け、しばらく応答を待つ。
だが、返答はない。
この場合、二回声を掛けて同様なら
断りを入れて入室して良いと言われている。
「どうも~。悠生と申します~。」
同様に待つが、やはり何も返ってこなかった。
彼は、「失礼します~」と断りながら
電子ロックを解除して部屋の中に入る。
専用ワゴンを入り口付近に置き、部屋内の様子を窺う。
すると、ベッドの上に膝を立てて座る女がいた。
彼女の髪は緑に染まっていたが、生え際は黒い。
俯いて、スケッチブックに向かいクレヨンで書き殴っている。
― ・・・俺が入ってきたの、
気づかへんくらい集中しとるな・・・・・・
彼は恐る恐るその女の元へ歩いていき、声を掛ける。
「すんまへん。ベッドシーツを新しいのに換えますんで、
少しの間だけこちらに座っててもらえまへんか?」
丁寧に声を掛け、
壁に立て掛けてあったパイプ椅子を組み立てて促す。
しかしそれも聞こえていないのか、
女はスケッチブックから目を離そうとしない。
― ・・・うーん。
ここのお人は、他んとこよりだいぶん重傷やなぁ。
悠生はしばらく彼女の様子を眺めて
返事を待ったが、一向に応じる気配はない。
― ・・・どないしよ・・・・・・
悩んでいると、ふとスケッチブックが目に入った。
青色だけで塗り重ねられた、一面。
彼はそっと彼女に近づいて、それを正面から見据えた。
― ・・・何や、これ。
ただ青を塗っとるだけや。
「・・・これ、何の絵ですか?」
彼は思わず尋ねた。
しかし、返答はない。
「・・・海?・・・あ、分かった、空や!」
女の手は止まらない。
「・・・うーん、あと青色のやつって何や~?」
彼は声に出して真剣に悩んでいると、ぽつりと声が漏れた。
「・・・・・・おにいちゃん。」
「・・・・・・へ?」
やっと返ってきた言葉だったが、それで彼はまた頭を抱える。
― お兄ちゃん?・・・これが?
青が好きやったんか?
・・・う~ん。
ますます分からへんわ・・・
答えが返ってくるか分からなかったが、
思い切って聞いてみる事にした。
「・・・何で青しか使わへんの?」
「・・・・・・」
「・・・他の色も使うたらええのに・・・何で使わへんの?」
「・・・・・・」
「兄ちゃんの好きな色なんか?」
「・・・・・・」
― ・・・・・・あかん。
永遠に終わらんわ。
「とりあえず、掃除だけでも済まそうか・・・・・・」
彼は返事を諦めて、専用ワゴンに向かおうとした。
「・・・・・・おにいちゃんに、あいたい。」
再びぽつりと、声が漏れる。
その言葉で
彼はようやく、ぴんときた。
「・・・そうかぁ。あんさん、兄ちゃんに会いたいんやな?」
その質問で、女は小さく頷いた。
俯いたまま、その青の一面から目を逸らさない。
彼女は外見大人の女性だが、
彼にはなぜか子どものように見えた。
言葉を選び、悠生は言い聞かせるように声を掛ける。
「兄ちゃんに会いたかったら、元気にならんといかんで。
他の色も使うてみい。
兄ちゃんに会うた時、それを見せるんや。
・・・そうやなぁ、兄ちゃんに見せる為に絵を描くんや。
上手な絵を見せたら、兄ちゃんごっつぅ喜ぶで~!」
女は、そこで初めて
スケッチブックから目を逸らす。
その目は、彼に向けられた。
真っ直ぐに、見つめる。
その瞳に吸い込まれそうな感覚に陥り、悠生はなぜか戸惑う。
― ・・・なんや?
急にこっち見て・・・・・・
・・・・・・意外と、べっぴんさん。
彼は、その彼女から目を逸らせなかった。
囚われたように、固まる。
女は再びスケッチブックに目を落とした。
手に持っていた青のクレヨンを置く。
スケッチブックの傍にあった
様々な色のクレヨンは、新品同様だった。
彼女は黄色のクレヨンを手に取る。
全面青だった一面をめくり、
新しい一面を広げた。
それから黙々と、描き始める。
悠生は、スケッチブックに描かれていく模様ではなく、
真摯に向かう彼女の姿に目を奪われた。
先程とは全く違う雰囲気を纏い、
とても美麗で惹きつける。
この時間だけ、彼は現実を忘れた。
完成を待たないといけないような、そんな気がした。
だから、その絵が完成するまで
彼女を見つめていた。
女はクレヨンを置き、
完成した絵の一面をスケッチブックから切り離す。
そしてそれを、悠生に差し出した。
「・・・あなたは、ひまわりね。」
そう言って女は微笑んだ。
その笑顔は、とても明るい。
絵を描いている最中の彼女は、もう消え去っていた。
彼はその笑顔で、彼女の呪縛から解放されたかのように、
差し出されたその絵を受け取る。
彼は目を見張った。
顔を向けた一輪の向日葵。
画面いっぱいに広がっている。
黄色い花びらが、鮮やかに浮かんで見えた。
一目見て彼は『向日葵』だと理解する。
先程の、青の一面を描いていた人物と同じとは思えなかった。
女は微笑みながら悠生に目を向けている。
それに気づき、彼は笑みを浮かべた。
「・・・俺にくれるんか?おおきに。
何や、上手な絵描けるんやなぁ。
・・・・・・向日葵ねぇ。
言われたことないなぁ・・・」
彼女は笑みを湛えながら、彼を見つめ続けている。
絵を描いている時の彼女とは様子が違うが、
強烈な印象が残っていた為
悠生は鼓動を早めた。
それを紛らせるように、彼は明るく言葉を紡ぐ。
「兄ちゃんにも、こんな絵を描いてやりい。
早く会えるとええなぁ。」
女は彼の言葉で、嬉しそうに頷いた。
この二人に眠る心。
そして芽生えるもの。
世界の片隅で道は築かれ、踏み出していく。
エピローグ
4
海星高校文化祭。
学生たちはこの日の為に準備を進め、
思い思いの時間を重ねてきた。
彼らもまた、同じである。
文化祭当日の午後2時頃。
海星高校の名物である野外講堂には、
沢山の人だかりが出来ていた。
ここで開催されるイベントは、
地元でも知名度があり、毎年恒例になっていた。
“海星祭 バンドライブ”。
一組2曲を用意してここで披露し、
観客の投票で優勝を決める。
行われるイベントの中で、最も大きな盛り上がりがあった。
今年出場するバンドは10組。
その中に、岸本 比呂が率いるバンドがいた。
約1ヶ月前、
高城 俊太郎の歌唱力を目の当たりにした
岸本 比呂― ヒロは、文化祭に間に合うと思い
急遽エントリーした。
参加する条件は、代表者が海星高校出身であること。
メンバーに他校の甲斐田 卓斗― タクと、
山崎 翔太― ショータがいても問題はなかった。
他のバンドも似たような境遇である。
その為、海星高校の文化祭は日曜日に行われる。
周知の為でもあるが、
学生たちの楽しみでもあるし活力にもなるという、
大人たちの心遣いである。
「うおぉぉっ。緊張するっ!!」
彼らの出番は最後だった。
出場バンドの控え室として設けた体育館で、
ヒロは声を上げる。
興奮と今にも心臓が口から出そうな緊張を和らげる為に、
彼はギターストラップで繋いだエレキギターを肩にかけ、
指を動かしている。
「やっべぇ・・・お腹痛ぇ。」
ショータは緊張からくる腹痛を訴える。
彼もまたドラムスティックを両手に持ち、
練習用パッドで叩き続けている。
「今のうちにトイレ行っとけよ。
・・・まさか俺らが最後になるとは思わんかった・・・」
冷静を装っているが、胸中穏やかではないタク。
ベースギターのチューニングが合っているか、
弦を弾いて何回も確かめている。
「ヒロ、お前クジ運悪すぎやん。」
「すんません。」
「最後の方がいいやん?完全燃焼できそうやもんな。」
「フォローすんません。」
「・・・まぁ、それもそうか。
みんな高城の歌声聴いたら、ばりびっくりすると思うし。」
話を振った少年に、三人は注目した。
その彼らを見て、俊太郎は笑う。
「高城を見てみろ!余裕過ぎて笑っとるし!!」
「・・・その強いハートが欲しい・・・」
「同感。」
勝手に解釈されて、彼は苦笑する。
「俺もこんなの初めてだし・・・
多少浮き立つけど・・・・・・」
「浮き立つ!浮き立つって何だ?!」
「少し落ち着け。ヒロ。」
「タクも、足がばり震えとるやん!!」
「トイレに、こもろうかな・・・」
極度の緊張で、三人とも収拾がつかない。
俊太郎は小さく息をつき、不敵な笑みを浮かべて言った。
「この時間を楽しめばいい。
一度きりだぞ?こんな貴重な時間は。
・・・俺がお前たちを引っ張る。
お前たちの実力があれば大丈夫だ。」
彼の言葉は、三人の少年たちにとても響いた。
「・・・たかぎぃ~!」
「お前が言うと、ほんとに
うまくいきそうな気がする・・・・・・」
「・・・お腹痛ぇの、治ったかも・・・」
そして、三人は顔を見合わせる。
それは一瞬だけだったが、思った事は皆同じだった。
「・・・・・・なぁ、高城。」
ヒロは真面目な顔をして、言葉を掛ける。
「・・・本当に、学校辞めると?」
彼は笑みを絶やさず、頷いた。
「・・・・・・ああ。すまない。」
強い眼差しを向け、ヒロは言う。
「必ず連絡しろよ!落ち着いたらでいいけん、ぜったいな!!」
「・・・・・・ああ。」
約一か月前、
俊太郎は退学届を学校に提出した。
しかし、この文化祭のバンドライブを終えてからという意思を、
担任の先生含めヒロたちにも伝えて。
彼は、自分に声を掛けてくれたヒロと、
温かく迎えてくれたタクとショータに、心から感謝していた。
何か形を残そうと、考えた結果である。
それと、妹の由梨の傍にいる為。
『医者』の『ジーン』は、ある提案を俊太郎に持ち掛けた。
【『剥奪者』との面会は止めているの。
本来の理由としては、
『管理人』の力は“絶対”ではないから。
彼も、私たちも、あなたも・・・同じ人間なの。
“何が起こるか分からない”。
心とは、そういうものよ。
何かの衝撃で在り方を変え、影響を及ぼす可能性がある。
・・・逆もまた然り、ね。
だから、私は話を進めてみようと思う。
あなたの『記憶の力』は、
一度記憶した人の所や場所に行くことが出来るという、破格の力。
だから、身体に負担が大きい。
物理の根拠も理論も捻じ曲げちゃうくらい、
未知の領域だからね・・・・・・
姫君の『力』と似ているから、
私が傍で診ておかないと
いつかあなたは壊れてしまう。
それを前提にしたいのが、本音。
・・・大事な人を、悲しませたくないでしょ?
今から言う条件を受け入れるなら、
妹さんと会う事を認めるわ。
私の元で学び、仕事を手伝う事。
『医者』としての素質が、あなたには大いにある。
・・・でも、それは今あなたがいる
『現実』から身を引く事になる。
・・・あなたは、本当に素敵な彼女と出逢ったわね。
彼女があなたの事を、とてもよく考えていてくれたのは
分かっているわね?
それに敬意を表して、身の回りの整理をしなさい。
きちんと、お世話になった『現実』にお別れをしてから
こちらに来る事。
・・・・・・どうかしら?
受け入れられる?】
学校を辞める本当の理由は勿論言えないので、
俊太郎は
“東京の実家を継ぐために、働くことになった”、と
彼らに伝えたのだ。
「爪痕を残そうぜ。」
ヒロは俊太郎の肩に手を置き、力強く告げる。
「優勝で見送る!それしかないやろ!」
重い空気を吹き飛ばすように、ヒロは明るく笑った。
その笑顔につられて、俊太郎も笑う。
「俺たちのレジェンドは、今日から始まるぞ!!」
ヒロに便乗したタクの言葉に、ショータはおおっ、と声を上げる。
「レジェンド!やべぇな!」
ヒロは皆の顔を見合わせて、声を張り上げた。
「四人でぶちかますぞ!!」
「おーーっ!!!」
少年たちは大きく手を振り上げ、気合を入れる。
一回限りのバンドライブ。
彼らの伝説は・・・
この日この場にいた観客の、
心と身体に刻まれることになる。
海星祭バンドライブは、終盤に差し掛かろうとしていた。
野外講堂は熱気に包まれ、
観客は完成していない彼らの
ありのままの音を受け入れて楽しんでいる。
その渦の中、佐川 ゆりは
彼らの出番を心待ちにしていた。
赤縁眼鏡を掛け、背中まで伸びた真っ直ぐな黒髪は
ゆるふわに結い上げている。
身に纏う茶色と白のロングシャツワンピースは、
この日の為に用意したものである。
彼らを応援する気持ちとともに、
彼女はこの時間をとても大事に過ごしていた。
9組目が終わり、ついに彼らの出番が訪れる。
≪名残惜しいと思いますが、次のバンドで最後になります!
『Four leaf clover』で、
『Easter Card』の『一縷の光』、『GREATEST』です!≫
ステージに彼らが登場すると、観客は大きく声援を送る。
ライブの最後を飾るバンドということもあり、
ボルテージは最高潮に上がっていた。
エレキギター、エレキベース、ドラム、
それぞれ指定された配置場所に、少年たちは向かう。
その後から、真ん中に置いてあるマイクスタンドに向かう少年。
その姿を背伸びして確認し、ゆりは浮き立った。
ヒロ、タク、ショータは自ら担当する楽器の調整を行う。
その間、俊太郎は
彼らの準備が終わるまでまぶたを閉じ、
静かに待っていた。
歓声。
熱気。
この場にある空気は、彼にとって初めて味わうものだった。
観客全ての視線が、自分たちに注がれている。
そんな中、彼は
温かくて優しい光を見つけた。
ゆっくりまぶたを開け、その光の方向に目を向ける。
視界に、彼女の姿が飛び込んだ。
彼はその存在を確かめ、微笑む。
彼女は感じ取る。
彼の目が、自分を捉えている事を。
それがとても嬉しくて、笑って思わず手を振った。
楽器の調整を終え、ヒロが俊太郎に目で合図を送る。
彼がマイクに手を掛けると、
観客は、しん、と静まり返った。
10分間という、
彼らのステージを迎え入れる儀式のように。
『一縷の光』は、『Easter Card』のデビュー曲である。
『GREATEST』で爆発的に人気が出た彼らだが、
この曲が『Easter Card』の神髄だと語るファンが多い。
この曲を選んだのは俊太郎だった。
今抱く気持ちと、深い想いを・・・
歌という形で彼女に届けたかったのだ。
愛のバラードである。
『一縷の光』
出逢った、想った、繋いだ、
断ち切った・・・・・・
あなただったから できたこと
全てが零れ落ちた今 その時間が
どんなに尊いものだったか 思い知る
分かっているよ
この世界は 真実が
全部正しいわけじゃないって
だけど 決めつけてしまうだろ?
『運命』だったということを・・・・・・
今でも僕は あなたが大好きです
一縷の光が
いつか差し込む日を待っている
人は僕の事を “重い”という
「気持ちに
“軽い”も“重い”も ないだろ・・・・・・」
笑った、怒った、泣いた、
楽しんだ・・・・・・
あなたといたから できたこと
全てが輝いて見えた あの時間が
どんなに大事なものだったか 思い知る
叫んでいるよ
この心は 虚偽が
全部間違っていなかったって
だけど 思い込んでしまうだろ?
『正解』だったということを・・・・・・
今でも僕は あなたが大好きです
一縷の光は もう差さないかもしれない
人は僕の事を“怖い”という
「心に
“平気”も“怖い”ないだろ・・・・・・」
僕はあなたがいるだけで
この世界に “ありがとう”と言える
証はいらない 君の幸せを願う
この“想い”は尊い
誰も 触れることはできない・・・・・・
今でも僕は あなたが大好きです
一縷の光が いつか差し込む日を待っている
人は僕の事を “重い”という
「気持ちに
“軽い”も“重いも” ないだろ・・・・・・」
彼らの音色が、観客の心と身体に響き渡った。
一気にその世界に引き込まれ、聴き入っている。
ゆりは涙が溢れて止まらなくなった。
まるで、自分に向けて歌っているかのように・・・
その歌声は、彼女の心に差し込む。
一縷の光となって。
海星高校文化祭は、無事に幕を閉じた。
その帰路。
空には羊雲が並ぶように広がっている。
ゆりと俊太郎は街路を並んで歩いていた。
二人は楽しそうに語りながら、博多駅に向かっている。
「大勢の人前で歌うのって、気持ちいいな~。
すごく楽しかったよ。」
「ふふっ・・・ほんとすごかった。
優勝しちゃうんやもん。」
「あいつらの実力だよ。俺はそれを引っ張っただけ。
・・・この1ヶ月、よく練習してたもんな。
だから俺は、気持ちよく歌えた。
・・・あいつらはすごいよ。」
博多駅周辺まで行くと、
休日を楽しむ人の行き交う姿が多くなっていく。
「・・・・・・『一縷の光』は、ゆりに向けて歌ったんだ。」
ぽつりと呟き、俊太郎は微笑んだ。
― 分かっていたけど・・・・・・
改めて言われると、嬉しいもんやね。
ゆりも微笑み、相槌を打つ。
「でもさ・・・『一縷の光』程、俺は絶望してないけどな。」
「あはは。」
「そうだろ?」
「そうやね。」
互いに笑い合う。
「俊。本当に、ヒロくんたちと打ち上げせんで良かったと?
みんなとても残念そうやったけど・・・」
ゆりがそう尋ねると、俊太郎は小さく頷く。
「ああ。・・・少しでも、ゆりと一緒にいたかったし。」
そう言われて、彼女は小さく笑って俯く。
嬉しい言葉だったが、
それは彼女にとって
これからの事象を確認させるような響きを持っていた。
祖母のときは、あの後すぐに
祖父の元へ行ってしまった。
だから約1ヶ月間、彼女は俊太郎と二人だけの生活を送った。
何気ない、穏やかな時間を。
ゆりは噛みしめながら、一日一日を過ごしてきた。
とても貴重で、とても幸せな時間。
この時間は、ときがくれた宝物だと・・・互いに感じながら。
「ゆり。これから一緒に
行きたい所があるんだけど・・・」
「え?・・・どこに?」
「ひみつ~。」
「えっ・・・・・・こわい。」
「・・・怖いってなんだよ?」
ゆりの反応が不本意なのか、
俊太郎は思わず聞き直す。
彼女は、すぐに噴き出して笑った。
「ごめん。うん。いいよ。」
「何だ、それ。」
「ふふっ」
「・・・あ。まさか、いかがわしい所に
行くとか思ったのか?」
「何それ!」
思わぬ言葉に、ゆりは顔を真っ赤にする。
「そんなわけないやろ!?」
「ほんとか~?」
俊太郎は、にやにやしている。
ゆりはそんな彼に、強く抗議した。
「俊が行こうとしてる所なんて、お見通しなんやけんね!
普通の女子みたいな反応をしてみたかっただけ!」
「はいはい。普通の女子ねぇ・・・」
「信じてないやろ?」
「信じてるよ~。当たり前だろ?」
「・・・・・・」
「・・・なるほど。進路変更するって手もあるな・・・・・・」
「行きません!」
「ははっ」
顔をこの上なく真っ赤にして一生懸命抗議するゆりを、
俊太郎は微笑ましく見守る。
「そんなに必死に否定しなくても・・・
可愛いのは充分、分かったから。」
「・・・・・・」
ゆりは、じとっと俊太郎を睨む。
だが、“可愛い”と言われて
機嫌が直らない女子はいない。
「・・・・・・今から行くんよね?」
「ああ。今から行ったら、丁度見頃だと思う。」
俊太郎は自然な流れで、ゆりの手を取る。
その繋いだ手を引き、彼は明るく声を掛けた。
「バスで行くぞ。普通のカップルらしくな。」
俊太郎にリードされて、ゆりは歩き出す。
手に伝わる温かさを感じ、鼓動が高鳴る。
二人の足は軽い。
彼らが行こうとしている場所。
それは、日本の海浜で一番高いランドマークタワーである。
時刻は午後7時を過ぎた頃。
ゆりと俊太郎はバスを使ってその近くまで行くと、
徒歩でゆっくりそこに向かう。
このランドマークタワーは夜、
四季折々状況に合わせたイルミネーションが点る。
展望室では湾岸と街の夜景が一望でき、
観光客に限らず地元の者たちも訪れる場所である。
二人は入場チケットを購入し、スカイポートに向かう。
自分たちのように展望室に上がる
カップルや観光客が多数見受けられた。
エレベーターで展望フロアに上がると、
パノラマに広がる夜景を目の当たりにした。
「わぁ・・・・・・」
散りばめられた宝石が輝くような夜景に、
思わず声を上げるゆり。
彼女がここに訪れたのは、とても久しぶりだった。
学生の頃、友人たちと行ったきりである。
特定の異性とこの場所に行くことは勿論、今までにない。
「綺麗だな・・・・・・」
俊太郎も感嘆の声を上げた。
二人は窓際まで歩いていき、美しい夜景を眺める。
「綺麗やね・・・」
しばらく二人はその夜景に釘付けになり、
言葉を発さなかった。
互いに流れる時間は、とても穏やかだった。
観光客や他のカップルが賑わっているが、
それがBGMのように聞こえる。
「・・・ゆり。」
「・・・ん?」
「例えばの話だけどさ・・・・・・してもいいか?」
「・・・なぁに?」
「ゆりが他の男を選んで、結婚して、家庭を作る・・・・・・
そんな未来もあると思うんだ。」
「・・・・・・」
ゆりは、俊太郎を見なかった。
彼は言葉を続ける。
「やっぱり俺は、ゆりの幸せを考えてしまう。」
「・・・・・・」
「俺はこれから完全に、『あちら側』の人間になる。
普通の幸せを、叶えてやる事は難しい。
・・・・・・だから・・・」
語る彼の言葉を遮るように、彼女は告げる。
「私ね。今、こうして、俊とここにいれて。
これって、幸せなんよ。
私にとって、とっても、とっても。
・・・・・・だから、例え話でも・・・・・・言わないで。」
涙が出そうになった。
どれだけ気丈に振る舞っても、彼女はつらかった。
俊太郎はゆりに目を向け、口をつぐむ。
「・・・・・・ごめん。」
泣きたいのを我慢している、彼女の顔。
その表情を見て、思わず彼女の手を握る。
「・・・ごめん。」
「・・・謝るなら、最初からしないでよ・・・・・・」
「・・・・・・」
「二度と、会えないわけじゃないやん。
私も『あちら側』の人間だし。
会おうと思えば、会えるやろ?」
「・・・ああ。」
「なのに、どうして離れると?」
「・・・・・・」
「普通の幸せが、私の幸せと決めつけないで。」
その言葉は強かった。
強がりともとれる言葉だったが、
彼にはそれが彼女の本音だと、痛い程感じる。
「私、あの家にずっといるから。
おばあちゃんと俊が、いつでも帰ってこられるように。
あの場所を・・・・・・護るから。」
彼女が出した答え。
佐川の家に留まり、
今まで通り日常生活を送る事。
ときを陽一郎の元へ行かせ、
俊太郎を妹の由梨の元へ送り出す事。
彼女が“光ある道”を見据えた結果である。
「・・・会いたかったら・・・・・・
私から会いに行くもん。」
ゆりは、鼻をすする。
一生懸命泣くのを我慢している彼女を、
俊太郎は堪らず自分の懐に引き寄せ、抱き締める。
「俺から会いに行くって。」
「・・・駄目やろうもん。
『お医者様』から言われてるやん。」
「いや、会いに行く。いつか必ず。」
二人の世界を、周りにいる者たちが眺めている。
それを気にせず、彼は慰めるように彼女の頭を優しく撫でる。
「・・・ゆりのカレー、食べに行くからな。」
抱き留められ、涙が溢れて止まらなくなったゆり。
人目が気になりつつも、彼女は彼に抱きついた。
「・・・怒られても、知らんけんね。」
「いいさ。それでも。」
「・・・俊らしいけど・・・駄目やけんね。」
「駄目じゃない。何とかする。
・・・その時はカレー作ってくれ。」
俊太郎のカレー愛に、
ゆりは笑わずにはいられなかった。
「・・・ふふっ・・・・・・ちょっと良い肉のカレー?」
「ちょっと?すっっっごく良い肉のやつだ。」
「煮込んじゃうの、もったいないやん・・・」
「細かい事知らねーってば。
食べてみたいから言ってるのに。」
「・・・・・・分かった。」
「よしっ!やった!これで頑張れる!」
「・・・ふふっ・・・・・・」
二人は笑う。
互いに、心に言い聞かせていた。
再び会える事を誓って。
強い想いを抱いての、“別れ”。
指し示す道は、どこに延びているのか。
これから二人は、
分かつ道を一歩一歩踏み締めて、歩いていく。
エピローグ
5
三年後。
世間を混沌に陥れた出来事も、
押し寄せる現実の波に流されて
記憶の引き出しに閉じ込められていった。
今、それを思い出す者といえば・・・・・・
当事者たちと事件に関わる一部の者たちだけである。
*
博多駅周辺に建つ、
大手家電量販店の中に併設している一角。
そこには、『あかい堂』という書店がある。
今の時刻は閉店間際ということもあり、客足は少ない。
店のバックヤードで、書籍の整理をする女性店員がいる。
さらさらの綺麗な黒髪は、肩よりも上の長さで、
顎のラインに沿って丸みを帯びたボブである。
つり目できつい印象があるが、
目に灯る光は優しい。
少しずれた赤縁眼鏡を白い指で持ち、掛け直す。
「お疲れ様。」
労う言葉が、女性に掛けられる。
その声音は、心地よい響きを持っていた。
「店長。お疲れ様です。」
声を掛けた男性に向かって
女性― 佐川 ゆりは会釈をし、微笑む。
「今日も疲れましたね~。」
男性― 蔵野 恵吾も、笑みを浮かべる。
「そうだね。
・・・・・・僕は最近疲れが取れなくて。
もう歳かな・・・」
「ちゃんと息抜きしてますか?しないと駄目ですよ。」
その意見に、彼は小さく息をついて彼女に目を向ける。
「・・・君こそ息抜きしているか?
最近また痩せた気がするが・・・」
そう指摘をされ、ゆりは驚いて自分の頬に手を置く。
「えっ。・・・そうですか?」
「顔色も優れないようだ。」
「・・・寝てないのも、あるかもしれません・・・・・・」
声を小さくしていくゆりを見据えて
蔵野はしばらく考えていたが、
意を決したかのように申し出る。
「・・・よし、佐川さん。
仕事終わったら、何か食べに行こう。」
「え?」
「駅近くの居酒屋で、焼き鳥が美味しくて評判な所があってね。
行ってみたいと思っていたのだが・・・・・・
良ければ、一緒に。」
ゆりは返事に迷った。
それを察しているかのように、彼は言葉を付け加える。
「これは、日頃頑張っている君への労いとして誘っている。
『こちら』でも、『あちら』でも
仕事の仲間として、いつも君の事を心配しているよ。
・・・気軽に、君と話が出来る機会が欲しくてね。」
「・・・・・・」
そう言われて、ゆりは苦笑する。
― ・・・あれから、仕事に打ち込んできた。
書店の仕事も、『易者』の仕事も。
そうしないと、かなり落ち込みそうやったし・・・・・・
何もしない時間が、とても怖かった。
「・・・頼む。少しでも息抜きしてくれ。」
そう言われて、彼女は恥ずかしい気持ちになった。
―・・・・・・蔵野さんはそんな私を、
何も言わずに見守ってきてくれた。
彼に向かって、ゆりは深々と頭を下げる。
「・・・すみません。
心配させてしまって・・・・・・」
「頑張り過ぎるのは身体に毒だ。
・・・・・・互いにね。」
「・・・・・・はい。」
彼女は頭を上げて、笑みを浮かべた。
「焼き鳥食べたいです。・・・行きます。」
その返事を聞いて、蔵野は安心したかのように顔を綻ばせる。
「良かった。断られるかと思ったよ。」
「・・・蔵野さんにそこまで言わせて、
断れないです。」
彼女に向ける彼の眼差しは、とても優しい。
「君が倒れてしまったら、彼に申し訳が立たないからね。」
“彼”という言葉に、ゆりは俯く。
― 【他の男を選んで結婚して、家庭を作る・・・・・・
そんな未来もあると思うんだ。】
俊が言っていた“他の男”とは、蔵野さんのことだろう。
・・・あれから、彼とは会っていない。
『Migratory Bards』の『医者』は、
特別な規律を設けている。
なぜなら、国の機密に関わる職業だからだ。
門外不出。
よほどの事情がない限り、『医者』は他者との関わりを持たない。
蔵野さんもその規律に従い、『医者』の事情を口外しない。
そのせいやろうか・・・・・・
彼の“流れ”が掴めない。
『力』が働かないのは、
もどかしいけど・・・・・・幸いなのかもしれない。
・・・会いたいな・・・・・・
ゆりと蔵野は、
大手家電量販店のすぐ傍にある居酒屋に足を運んだ。
この居酒屋は焼き鳥と日本酒が美味しいと評判で、
連日いつも満席だった。
平日の夜は、仕事帰りのサラリーマンが大半を占めている。
今夜も店内は、明るい雰囲気で賑わっていた。
「いらっしゃいませ!!」
一声上がると、店内にいる従業員たちが
迎え入れるように続いて発声した。
店員の一人が、ゆりと蔵野に尋ねる。
「お二人様ですか?」
「はい。」
「お二人様ご来店です!!」
「ようこそ~!!」
元気よく従業員たちの声が上がる。
かろうじてカウンターの二席が空いているとの事で、
二人はそこに座ると
とりあえずビールを注文した。
テーブルに用意されていた袋入りの除菌ウェットティッシュで、
二人は手を拭く。
カウンター越しにいる大将らしき男性が会釈をして、
小鉢に盛られたお通しを二人の前に置いた。
すぐに、良く冷えたグラスのジョッキに注がれたビールが、
二人の所にやってくる。
「お疲れ様の乾杯。」
蔵野はビールジョッキを片手に持ち、ゆりの方に向けて軽く上げる。
「お疲れ様です。」
ゆりはビールジョッキを両手に持ち、
蔵野に向けて上げた。
互いに、一口。
泡の滑らかな舌触りと
ホップのほろ苦さが、広がる。
「んーっ、うまい!」
「美味しいっ!」
二人はビールの美味しさに、思わず声を上げた。
ゆりは、その味わいに驚いている。
「ビールって、こんなに美味しかったかな・・・?」
その様子を見て、蔵野は笑いながら言う。
「ははっ。この店の管理が良いのもあるが・・・
君がビールを味わえるようになったからだろうな。」
「・・・飲み会で、
いつもみんな最初ビールを頼むから、
付き合いで飲んでいましたけど・・・・・・
今まで正直美味しいとは思わなかったです。
びっくりしました。」
「成長したね。」
「・・・歳を重ねたという事ですよね?」
「そうだね。」
互いに、可笑しそうに笑う。
「私も、もうベテランですね。
『あかい堂』で働いて・・・・・・もう7年ですよ。」
「そうそう。
最初来た頃の君は、もう本当に初々しくて可愛かったよ。」
その発言に、ゆりは含んでいたビールを噴き出しそうになる。
「・・・蔵野さん。その発言、どういう意味ですか?」
審議の視線を感じ、彼は慌てて弁解する。
「いや、ほら・・・何ていうのかな。
お父さん目線というか。店長だしね。つい。
・・・・・・口説こうとはしていないから。」
彼女は小さく笑って、頭を下げる。
「・・・最初は、本当にご迷惑をおかけしました。
私は社会の右左も分からない、
生意気な子どもだったと思います。」
「ははっ。そんな事はないよ。
君はとても真面目に頑張っていたよ。今でもね。
だから、誇らしく思ってくれ。」
「・・・・・・ふふっ。
はい。ありがとうございます。
そう仰って頂けて嬉しいです。」
蔵野は微笑み、相槌を打つ。
店員に一通りの料理を注文すると、
彼はお通しの酢もつを箸で摘みながら話を切り出す。
「・・・君はまだ、『こちら』で占いを続けているのか?」
ゆりは小さく頷く。
「はい。祖母の残した店ですし・・・・・・
彼女を訪ねていらっしゃるお客様が
絶えない限りは、続けようと思います。」
「・・・・・・そうか。」
佐川 とき― 『劉 玉玲』も、
あれからあの家に戻ってくる事はなかった。
だが、彼女からゆり宛てに手紙が時々届いている。
祖父、『佐川 陽一郎』の脳内に埋め込まれたもの。
その解明と研究が進んではいるが、
脳内から取り除く事は未だに難しいという。
しかし、生前の意識を保ち
会話をすることが可能になったという。
それは、
『連鎖の力』を持つ『管理人』― 蔵野 恵吾の『力』が作用している。
ときは今、穏やかな時間を
陽一郎とともに過ごしているという。
それを手紙で知り、
ゆりは心から蔵野に感謝していた。
― ・・・この人は、
いつも他者を優先する。
『管理人』という立場からなのか。
その『力』を、決して自分の為に使おうとしない。
・・・・・・『記憶(心)を連鎖する力』。
「お待たせしました~!!」
注文した山芋の鉄板焼きと明太子を包んだ卵焼きが、
二人の前のテーブルに置かれる。
ゆりは取り皿を蔵野の前に差し出した。
「あれから・・・『彼ら』はどうしていますか?」
『剥奪者』の彼ら。
ゆりは何となく聞いてみた。
「・・・よく頑張っているよ。」
差し出された取り皿に、
蔵野は山芋をスプーンですくって取り分ける。
「『彼』の働きぶりは、目を見張るよ。
『彼女』も、『瞬』が来た事で劇的に変わった。
・・・・・・君が築いた道は、光ある方向へ進んでいるよ。」
彼の言葉は、彼女の心に深く響いた。
自分の指し示した道は、本当に正しかったのか。
それをこの三年間悶々と自問自答し、
日々過ごしてきた。
ようやく、彼女の心に安らぎの風が吹く。
蔵野のビールジョッキが空いているのを見て、
彼女は笑顔で尋ねる。
「次は何を飲みますか?」
「そうだな・・・やっぱり日本酒だね。」
彼女の笑顔につられ、彼も笑みを浮かべながら答えた。
「すみません。」
ゆりは店員を呼び、
この店で一番おすすめの日本酒を1合頼んだ。
「酒が美味いなぁ・・・」
山芋を口に運びながら、蔵野はぽつりと呟く。
ゆりは明太子を包んだ卵焼きを一切取って、口に入れる。
「・・・わっ。この卵焼き美味しい・・・・・・
普段飲みます?」
「ああ。飲むね。・・・今夜は格別に美味い。」
「私も今日、お酒を美味しいと感じられて
とても嬉しいです。
・・・すごく良い息抜きになりました。」
「ははっ。それは良かった。」
「ふふっ。
本当にありがとうございます。蔵野さん。」
「・・・こちらこそ。いつもありがとう。」
蔵野は微笑み、優しい眼差しをゆりに向けた。
「大変お待たせしました!
串盛り10点と、
今月おすすめの純米大吟醸でございます!!」
焼き鳥が盛られた大皿と、
よく冷えた清酒が入った味わい深い徳利とお猪口二つを
盆に乗せて、店員が二人の所にやってくる。
それぞれがテーブルに置かれるのを見届けた後、
ゆりはその徳利を、丁寧に両手で持つ。
「どうぞ。」
蔵野はその心遣いを快く受け入れ、お猪口を両手に持つ。
「ありがとう。」
透明の、清らかな酒がお猪口に注がれる。
注ぎ終わると、ゆりは徳利をテーブルにそっと置く。
蔵野は清酒が注がれたお猪口を
口に運ばずその場に置き、徳利に手を伸ばした。
「君も一口どうぞ。」
「え?」
「少し含むだけでも。
・・・きっと美味いと思う。」
促され、ゆりは躊躇いながらもお猪口を両手に持つ。
「・・・・・・はい。」
互いに注がれた、清らかなお酒。
「これからもよろしく。」
「はい。よろしくお願いします。」
酌み交わす清酒は、二人の中に染み渡っていく。
心で繋がる絆。
それは異性という枠を超え、
立ち向かう力を秘めている。
困難に打ち勝つ、心の絆。
二人は、水面下で世界を支える戦友である。
「ありがとうございました~!!」
店を後にする二人を送り出すように、
気持ちよく声が掛けられる。
外に出ると、10月の肌寒い夜風が取り巻いた。
しかし酒のお陰で身体は温まっているので、
二人にとっては心地よく感じられた。
「美味しかったですね!」
その風を味わうように、
ゆりは背筋を伸ばすように両腕を広げる。
「ああ。全部美味しかったね。」
蔵野も顔の火照りを冷ますように、夜風を堪能する。
「・・・お言葉に甘えて、御馳走になりました。」
満面の笑みを浮かべ、ゆりは蔵野に頭を下げた。
彼も微笑みながら言う。
「日頃のお礼もしたかったしね。
たくさん食べてくれて良かった。」
「・・・美味しすぎて
食べ過ぎちゃいました。
蔵野さんは、たくさん飲みましたね。」
「いや~。こんなに飲んだのは久しぶりだよ。
少し飲み過ぎたね。」
「帰り、気をつけてくださいよ。」
「ああ。・・・それだが、迎えの車を呼んでいる。
君も一緒に乗らないか?家まで送るよ。」
「え?」
その申し出に、ゆりは戸惑う。
この事象は、彼女の『力』で感知していなかった。
それと同時に、
『力』を中心に考える自分がいる事に気づき、
小さくため息をつく。
― ・・・・・・私は、いつの間にか・・・
『力』で先を見ないと、
踏み出せなくなっているんやね・・・・・・
それが、今の彼女にとって悲しかった。
「・・・・・・はい。お言葉に甘えます。
本当に、ありがとうございます。」
「良かった。」
蔵野は顔を綻ばせる。
「これこそ、断られるかと思ったよ。」
「・・・ごめんなさい。」
「・・・?なぜ謝る?」
「・・・・・・いえ。何でもありません。」
ゆりは俯いた。
その表情に陰りがあるのを、蔵野は一目見て悟る。
彼女を見据えて、彼は言霊を紡いだ。
「・・・・・・君は、
真っ直ぐ見つめていればいい。」
その、想いの籠った言葉に彼女は顔を上げた。
自分に向けられた、真摯な目。
「晴れ渡る時が来る。必ず。」
その言霊は、寄り添うように彼女の心に触れる。
考えないようにして、仕事に没頭してきた三年間。
それでも忘れられなかった、彼への想い。
― 会いたい。
こんなにも会いたいと、思っているなんて。
狂おしかった。
自分の本音を自覚した途端、
今まで抑えてきた気持ちが、溢れて止まらない。
「・・・・・・」
― 会いたい。
会いたいよ、俊。
胸が苦しくなる。
涙が溢れそうになったが、必死で堪えた。
そうしなければ、
立ち直る事なんて出来そうになかった。
そんな彼女の姿を、
彼は限りなく優しい微笑みを浮かべて見守っている。
彼の言霊は、彼女が抑えてきた想いを解放したのだ。
「・・・迎えの車が来たよ。」
いつの間にか、二人の傍に控えるように
シャープなキャラクターラインが施された
黒い乗用車が停まっている。
蔵野は後部座席のドアを開け、ゆりを促すように視線を送る。
言葉を出すと
泣いてしまいそうだったので、
ゆりは会釈をして促された後部座席に乗り込む。
それを確認してドアを静かに閉めると、
彼も反対側から後部座席に乗り込んだ。
「・・・初めまして。『小百合』さま。」
優しく紡がれる声音が、ゆりを出迎える。
彼女は運転座席に目を向けた。
背中の辺りまで波打つ、綺麗な黒髪。
顔は見られないが、
後ろ姿だけで優雅な雰囲気を感じ取れる。
バックミラーに映るその双眸は、
火を灯すキャンドルのように、優しい。
「私は、『伝達者』の『ことり』と申します。
・・・車を出しますね。」
優しい声掛けの後、車は静かに走り出す。
―・・・『伝達者』・・・・・・?
ゆりは、隣に座る蔵野に目を向けた。
彼は座席の背もたれに身体を預け、目を閉じている。
「運転しながらで申し訳ございませんが・・・・・・
とある方から“伝達”を預かっております。
この場でお届け致します事を、ご了承ください。」
「・・・・・・“伝達”・・・?」
「“伝言”でございます。」
“伝言”。
ゆりはそのフレーズを耳に入れた途端、
鼓動が跳ね上がるのを感じた。
―・・・まさか・・・・・・
彼女は前のめりになる。
その“伝言”を預けた人物は誰なのか。
「・・・よろしくお願いします。」
呼吸を整える。
『ことり』と名乗る女性が言葉を紡ぐのを、
ゆりは待ち構えた。
「【・・・ゆり。元気か?】」
その声に驚愕する。
彼そのもの。
低くて響きの良い声音。
「【まずは・・・謝らなくてはな。
俺はゆりに知らせないように、皆に口止めしていた事がある。
俺の戸籍の事だ。
三年前、実はどうなっているか
『アヤメ』に調べてもらっていたんだ。
そしたら俺は行方不明として扱われていて、
生存が確認できれば戸籍を復活できるという事。
そしてもう一つ、
『ジーン』先生と約束した事。
『医者』として名乗る事が出来るまで、
それを口外しない事、ゆりとは会わない事。
・・・ずっと果たせなければ、
ゆりは俺に縛られたまま未来を閉ざしてしまう。
ゆりに寂しい思いをさせてしまう。
それを『ジーン』先生は懸念して、
別れを告げろと言った。
・・・だから、『管理人』に頼んだ。
ゆりが『力』を使って俺の“流れ”を追わないように。
・・・・・・ゆりを想う『管理人』なら、
支えてくれると思ったから。
ゆりが彼を選んでも、俺はそれでいいと思ったから。
・・・『管理人』は快く引き受けてくれた。
だから、彼を悪く思わないでくれ。】」
両手で口を押え、頬に涙が伝う。
涙を止めることが、もう出来なかった。
ゆりは再度蔵野に目を向ける。
彼は変わることなく、眠るように目を閉じていた。
― ・・・蔵野さん。
・・・全てを知っていて。
ずっと、見守ってくれていたんだ。
感謝してもし尽せない思いが、涙とともに溢れる。
「【この“伝言”を頼んだのは・・・
俺が『医者』と名乗る事が出来たからだ。
異例の早さだって、『ジーン』先生は褒めてくれた。
・・・もし、三年経った今でも
ゆりが俺を待ってくれているなら・・・・・・
『ことり』に返事を預けてくれ。
一週間後の夜、ばあさんの家に会いに行くよ。
・・・あ、そうだ。
『医者』は門外不出だって言ったけど・・・・・・
ごめんな。半分口実だ。
きちんと『管理人』の許可をもらえば大丈夫だってさ。
戸籍も復活させたから、正々堂々と会いに行けるよ。
三年前の約束、憶えているか?
俺はずっとこれを励みに頑張ったんだ~!
・・・ゆり。
大好きだ。ずっと、これからも。
俺は本当に・・・・・・ゆりと出逢えて良かった。】」
まるで、この場に彼がいるかのようだった。
ゆりは嗚咽し、その一言一句を噛み締める。
「“伝達”は、以上でございます。
・・・・・・“伝言”なさいますか?」
優しい声音に戻った『ことり』に、
ゆりは涙ながらに頷いた。
「はい・・・
是非、よろしくお願いします・・・・・・」
この日の夜。
彼女は久しぶりに熟睡する事ができた。
彼を会えるのを待つことができる、
かけがえのない時間。
寂しさも、憂いも、
遠い記憶のように思えた。
・・・・・・晴れ渡る時が来る。
*
一週間後。
彼女にとって、特別な日である。
なぜか未だに、彼に関しての事象が掴めずにいた。
『力』で先読みすることが出来ないのだ。
しかし、彼女はそれが嬉しかった。
物心ついた頃から、
自然に身近な繋がりを持つ者の事象を
知るようになっていた為だ。
彼と会える時間を、考えることができる喜び。
今、彼女はそれを味わっている。
仕事を定時で終わらせ、
ゆりは博多駅と併設する
大手デパートの地下フロアに足を運ぶ。
彩り豊かな総菜や、
行き交う者たちの目を楽しませるパティスリーが並んでいて、
ラッシュアワーの今は活気づいていた。
その中彼女は芸術的なケーキには目もくれず、
スフレチーズケーキを1ホール購入する。
これは約束の品に入っていないが、
彼が喜ぶ顔を想像して揃えようと考えた。
続いて目的の牛肉を購入する為、ゆりは精肉店に向かう。
普段決して手にすることのない、最高級の黒毛和牛。
焼いて食べたいと、彼女は一瞬思う。
だが、カレーに使用する分だけ購入し、
このフロアを後にする。
後の食材は、もう事前に準備していた。
電車に乗り、最寄りの駅で降りると
ゆりは足早に家へ歩いていく。
早く家に帰りたいと思うのは、あの時以来だった。
彼を迎え入れる準備をしなければ。
その逸る気持ちも、愛おしい。
鼻歌まで出そうだった。
彼が来る時間は知らない。
もしかしたら、もう家にいるかもしれない。
そんな期待もあって、笑みがこぼれる。
― 待ち望むって、こんな感じなんやね。
今全部が、愛おしい。
「【約束のものを
作って待っとるけんね。
私も俊が大好きです。
ずっと。これからも。
あなたと出逢えて・・・
本当に良かった。】」
End
完結です。
最後まで読んで頂き、心から深く感謝致します。
この後に続く道は、幾重にもあります。
謎を残したまま終わった部分も含めて、
みなさまの中で道が開けたら幸いです。
この物語にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。




