第4話 夫婦喧嘩の理由・アベル
ひとりの乳児が、隣りに寝かされたもう1人の乳児にそっと手を伸ばす。
触れた手を握り返してくる。
彼女はその温もりを感じながら思考を巡らす。
乳児の身体だと動けない。
長い年月の末にようやく会えたマスターを守る術がないのだ。
いや、正確には身体を成長させる事は出来るが、親などの周囲の人間に自身が普通でない事がバレてしまう。
マスターの記憶を戻さない以上、出来るだけ自分自身も普通の人間を演じる方が良い。
そう結論づけた彼女は、男の子の迎えが来るであろう数時間後まで、手に伝わる温もりを堪能しつつ、眠りに落ちていった。
◇
日も暮れて夜の闇が周囲を覆う中……
毎夜の如く彼女は不愉快な気分になっていた。
「なんで誰の子かわからないガキを育てなきゃならないんだ」
「浮気なんかしてないって何度も言っているじゃないか!」
まだ言葉はわからないと思っているのか、それとも聞かれても構わないと思っているのか、彼女……リリィと名付けられた彼女のすぐ側で、両親がいつもの言い争いをしていた。
言い争いの原因は彼女自身だ。
この辺りでは珍しい黒髪に日本人っぽい薄い顔立ち……少なくとも欧米人に近い彫りの深い顔立ちが多い中では、両親と似ていなかった。
決定的だったのは、彼女の両親は長い間夫婦の夜の営みが無かったらしい。
(その辺りはあまり気にしていなかったからなぁ)
マスターの傍に居ることを優先して、自身の生い立ち等を配慮していなかったことを思い出す。
その様な行為が無く、容姿も両親とは似ていない子供をいきなり妊娠した……となれば、揉め事の一つや二つ起きてもおかしくはない。
ただ仮に気にしたとしても、選択は変わらなかったとも同時に思う。
彼女が愛する人と共に居るのであれば、同じ時期に産まれるのが1番都合が良いのだから。
事実、忙しい時間帯は同じ年頃の子供を持つ為、預けられる事も多々あり、共に過ごす時間が持てているのだ。
彼女にとって人の姿で産まれたことは手段であり、周囲の環境や両親の心情は特に重要事項では無かったから。
だが、行動が制限される幼児の状況で毎夜繰り返される不毛な言い争いを聞かされるのは、生産性が無いようにしか思えずうんざりした気分になっていた。
(こんな事なら旅人でも装ってある程度行動出来る年齢の人間になれば良かったかな?)
マスターにバレない為に幼児を演じているが、少なくともある程度の年齢までは続くと思われる環境に、ふと別の選択に思い至るが、年齢が大きく離れるよりは同年代の方が傍に居やすいと何度目かの結論を出す。
「しかし気味が悪い……」
父親……本人はそう思っていないのだろうが……から、そんな言葉を投げ掛けられる。
(手間が掛からないようにしているつもりなんだけどね)
彼女は驚く程少食だった。
いや基本的に食事そのものが必須では無い。
だが全く食事をしないのも周りから怪しすぎるし、何より食堂を営むマスターが、彼女の両親に預けられている時間帯に、マスターがぐずり出す頃合を見計らって食事の催促をする必要があった。
だが夜中はマスターは居ない。
それもあり夜になると食事から排泄やぐずりなど、乳児らしさが一切無くなるのだ。
昼間の彼女を見ている母親はともかく、父親からすると全く子供らしさが無いのも愛情が湧かない理由だろう。
「まぁ、お隣さんの事があるから仕方ないけどよ」
結局、言い争いはいつもの形に落ち着く。
彼女の家は雑貨屋を営み、隣りにあるマスターの生家である宿屋は大切な顧客であった。
また同じ歳の彼女がいる為にマスターを忙しい時間帯に預かっている代わりに、幾ばくかの手間賃も貰っている。
娘の存在を不愉快に感じながらも、結局は金銭的な打算から現状を受け入れているのだ。
彼女からすれば利益があり結論が出ているのであれば、言い争い自体が不毛にしか思えない。
(自分で行動出来る年齢になったら何とかした方が良いのかな)
やっと寝返りがうてる程度で片言しか話さない年齢では特に出来ることも無い。
そう思いながら、翌日マスターが預けられる時間を心待ちにしつつ、彼女は酒瓶を持ち部屋を出ていく父親を見送るのであった。
◇
ロタール王国の東の国境付近にガランと言う町があった。周囲を3メートル程の木の壁に囲まれた人口300人ほどの町だ。
町の周囲には畑なども多少はあるが、基本的に住民が生活するのは壁の内側だ。
だが、壁に囲まれているのは特にガランだけではなかった。
世界には体長10数メートルの爬虫類や、強靭な爪や牙を持つ獣、人間を忌み嫌う亜人が存在してる世界で、戦う力の無い人間は大抵が壁に囲まれた町や都市を作り、その中で生活をするのは、自然な事であった。
そんな世界でも壁の外で生きる者達もいる。
一つは王国の騎士団。
選ばれた者が集う騎士団は、町と町を繋ぐ街道を巡回しており、その為、街道周辺は比較的安全であった。
もう一つが冒険者。
壁に囲まれた町だけでは資源が足りなくなる為、町周辺の危険な生物の討伐、採取や鉱石などの発掘の護衛など、様々な依頼を受けて町の外で活動する者達が冒険者と呼ばれていた。
そして、そんな冒険者をしていた男と女が、冒険者を引退した後に始めた宿屋にひとりの男の子が産まれた。
その男の子は、アベルと名付けられた。
かつて管理者と呼ばれた最高たるデザインベイビーと同一の遺伝子情報を持つ少年だが……先天性の才能も使わなければ開花する事も無い。
その為、今の段階では比較的普通の男の子であった。
◇
◆
◇
「アベル。井戸から水を汲んできてくれるか?」
宿屋の1階は酒場兼食堂になっていた。
木製のカウンターの内側で何かの作業をしていた黒髪の男が、テーブルを拭いていた5歳くらいの男の子に声を掛ける。
男は逞しい身体をしていたが、左腕が失われていた。
「うん、わかった」
そう言うと男の子はカウンターの横に置かれた自分の身長ほどもある陶器の瓶を軽々と持ち上げた。
「アベルが力持ちで助かるわ」
そう言いながら、穏やかな笑顔を浮かべた女性が二階の部屋を掃除していたのか、大量のシーツを抱えて階段を降りてくる。
男の子は、女性の言葉に喜んでいるような照れているような表情を浮かべた後、瓶を抱えたまま宿の外に出ていった。
井戸は町の数カ所に共同で作られているだけだったので、町に住む人はそれぞれの家で使う水を、毎日汲みに行かなければならなかったのだ。
アベルが出て行くと、男が口を開いた。
「なぁ、ミーシャ……アベルは、力が強過ぎないか?」
5歳の男の子が自分の身長程の陶器の瓶を持ち上げる。
それだけでも普通では無いのに、帰りは水を入れてふらつきもせず平気な顔で帰ってくるのだ。
「ん〜でも、あの子が私達の様に冒険者になるかも知れないし……きっと神様がくれた贈り物なのよ」
笑顔で女性が応える。
男の名はカインと言った。カインとミーシャは、冒険者として共に働いていたが、事故でカインが左腕を失ったのをきっかけに、今まで貯めたお金を元に宿屋を始めたのだ。
ちなみにアベルと言う名は、二人と共に冒険者をしていたが、その途中で命を落としてしまったカインの弟の名前でもあった。
「アベルじゃないか。今日も手伝いかい?偉いね」
井戸の周囲には水汲みをする人が集まっていた。
滑車を使い桶で水を汲み上げるのは、それなりに時間が掛かるので、どうしても混み合う時間は混んでしまうのだ。
「おはよう、おばちゃん。代わりに汲むよ」
そう言うと女性とはいえ、大人が必死に引き揚げていた縄を軽々と引っ張り上げる。
「相変わらずすげぇなぁ」
列の次に並んでいた10代前半位の男の子が少し呆れた顔で呟く。
「そう?まぁ、早く手伝い終わらせたいしね」
井戸の水汲みは基本順番なのだが、アベルは自分の前に居る人の分を毎日手伝っていた。
本人はその方が早く順番が回ってくると思ってやっているのだが、アベルが来るであろう時間に合わせると、代わりに水汲みをして貰えると、日を追うごとに同じ時間帯に人が集中する事になっていた。
水汲みの回数が増えるのだが、それ以上に筋力の発達が上回っているので、結果として掛かる時間は伸びたりしていない。
「ガランの水汲み少年」は、知る人ぞ知るちょっとした名物になりつつあった。




