6 父が恐れた赤い瞳
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エマとルーカスの契約が解除された、その瞬間だった。
「――ッ!」
エリアス伯爵の喉から、押し殺したような声が漏れた。
次の瞬間。
「ゴホッ……!」
真っ赤な血が口元から溢れ、机の上の羊皮紙を赤く染めた。
彼は体を後ろに反らせ、椅子の脚が床を擦る甲高い音を立てた。その瞳には恐怖と嫌悪が満ちていた。
「……どうしたの!?」
書斎の扉が勢いよく開いた。
エマの継母――今のエリアス夫人エルフラが血相を変えて飛び込んでくる。
「封印が……解けた……」
エリアス伯爵は息を呑み、指は肘掛けを必死に握りしめていた。
「エマの封印が……解けた!」
「そんな……ありえない!」
エリアス夫人の顔色は一瞬で変わった。
「あれは、あれはあなたが自らの手でかけた封印でしょう……!?」
言葉を言い終える前に、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「お父様! お母様!」
エミリーは走って書斎に飛び込んできた。金色の髪が大きく揺れ、顔には焦りと心配の色を浮かべていた。
「今、連絡が……!」
肩で息をしながら言う。
「ルーカス……ルーカスがお姉様と召喚契約を解除したそうです!」
「エマはルーカスをあんなに好きだったのに、どうして突然契約を解除したの?」
エリアス夫人の声が突然鋭くなった。
エミリーは困惑したように瞬きをし、すぐに唇を噛んだ。
「……え? それは……」
何か、おかしい。
契約を解除したのなら、母は喜ぶはずではないのか?
書斎の空気は一瞬にして凍りついた。
「なるほど、封印が解けたわけだ……」
エリアス伯爵が低く呟く。
「封印は召喚契約の中に組み込まれていた……契約が切れた以上、封印も当然……」
その目が細くなって、声に怒気が混ざった。
「このルーカスめ!役に立たないばかりか、かえって邪魔ばかりする!」
エミリーは小さく首を傾げた。
封印……?
深夜。
エリアス邸はようやく静けさを取り戻していた。
けれど、一階の書斎だけはまだ灯りが残っていた。
エリアス伯爵は机の前に座ったまま、長いこと動かなかった。
「……十年も封じたはずだった……それなのに、あの子は召喚士になった」
エリアス伯爵が俯いたまま、乾いた笑いが漏れた。
「しかも学校での魔力ランクはアデルハイム家の子と並ぶほどだ……」
彼の目の前の机にある一枚の古い肖像画をジーと見つめている。
あの肖像画の端は擦り切れ、色も褪せて、黄ばんだ肖像画が広げられていた。
けれど画の中の女性だけは、今も不気味なほど鮮明だった。
彼女は美しく、その際立った赤い瞳は薄暗い灯りの下で、こちらを見返しているように見えた。
伯爵の指先がわずかに震える。
「……なぜだ?
なぜ……まだ俺につきまとう……」
彼は画の中の人から目を逸らせなかった。
「何年経ったと思っている……
死んだくせに……まだ、その目で俺を睨みつけてくるのか……」
肖像画の下には、真赤な古びた文字が一行記されていた――
「赤い瞳・空間召喚魔法士・エリアスの恥」
それはエリアス伯爵自身の筆跡だった。
かつて彼が一画一画、自らの手で書き記したものだった。
恥。
そうだ。
あの女は彼の恥だった。彼の人生の汚点だった。
……そう思っていた。
なのに死んだあとまで……娘まで残していった。
――同じ赤い瞳を持ち、同じ血を流し、そして同じ才能を受け継いだ娘だ。
「あの子を……あんなふうにしてはいけない……」
不意に声がした。
エリアス伯爵ははっと顔を上げた。
いつの間にか、エリアス夫人が書斎の玄関に立っていた。
「あの子は、あの女とそっくりよ」
彼女はゆっくり部屋へ入ってくる。
「同じ赤い瞳、同じ空間召喚士」
彼女は言葉を切り、わざと声を潜めた。
「……また始める?あなたの悪夢――」
「黙れ!」
エリアス伯爵は肖像画の縁を強く握りしめた。
「私はあなたを助けているのよ。 忘れたの?」
エリアス夫人はまるで気にした様子もなかった。ゆっくりエリアス伯爵の背後へ歩み寄り、その肖像画に視線を落とし、目に嫌悪の色が走った。
「契約もなしに召喚獣を引き寄せて……誰にも縛られず……好き勝手に力を振るったあの女」
「このまま育てれば、あの子もいずれ――」
そこで言葉を止めた。
しばらく沈黙が落ちる。
エリアス伯爵の瞳がわずかに見開かれた。
「十年だ……十年も封じていた……それなのに……彼女が傷一つ負わずに破るなんて……しかも反動が私に返ってきた……それは……それは……」
彼は呟くように繰り返した。
「そうでしょう」
エリアス夫人の声はさらに小さくなった。
「もう、エリアス家の庇護の下に置いてはいけないわ。
この先、あの子はもっともっと強くなる。 ……誰よりもね」
一歩近づく。
「それに召喚獣との契約を、勝手に解除したそうじゃない。
父親にも何の相談もなく」
エリアス夫人の唇がわずかに吊り上がった。
「召喚獣は一度秘境を出れば、簡単には戻れない。 それを知りながら、平然と切り捨てたなんて、エリアス家の名に傷がつくわ」
目を細め、口元が歪む。
「父親として、正しく導く責任があるでしょう?」
長い沈黙が落ちた。
エリアス伯爵は肖像画の赤い瞳をじっと見つめ、まるで今はその亡きその女と、向き合っているかのように。
やがて、彼はゆっくりと肖像画を裏返した。
明かりの下から、赤い瞳が消える。
代わりに視界へ残ったのは――『エリアスの恥』、かつて自分の手で刻んだ文字だけだった。
「……君の言う通りだ」
彼の声は低く、自分自身を説得しているかのようだった。
「彼女を……あんなふうにしてはならない」
エリアス夫人の口元が、わずかに緩んだ。
彼女はそれ以上何も言わず、ただエリアス伯爵の肩を軽く叩き、そのまま書斎を後にする。
背後で扉が静かに閉まった。
廊下へ出たところで、エリアス夫人は足を止め振り返ると、閉ざされた扉をしばらく見つめた。
「……赤い瞳、ね」
ぽつり、と呟いた。
そして静かに笑った。
廊下には、誰もいなかった。
だからその笑みを見る者も、気づく者もいない。
……一人を除いて。
「そういうことだったのね……」
母が去った後、隅に隠れていたエミリーが姿を現した。
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