10 一年の道のり
誤字や不自然な表現などがありましたら、教えていただけると助かります。
あの夜の花火が消え去った後、エマはヴェルニスを離れなかった。
彼女は町の海辺に近い路地で、ある古いアパートの一室を借りた。
窓を開けると、潮の匂いをまとった海風が部屋へ流れ込んだ。机の上の古いスタンドライトがゆらゆら揺れる。
エマは窓辺へ近づいた。
一冊のノートをそっと置いて、ページの間にはすでに乾いた黄色い花が挟まれていた。
そして、彼女は勉強を始めた。
ディヴァーン大学は聖国でもトップ3に入る名門校で、入試はとても難しい。だから毎日机に向かった。
エマは以前、筆記試験の理論科目の成績は常に学校一だったが、魔力の実技は少し苦手だった。
不思議なことに、ルーカスとの契約を解除して以来、魔力の巡りが格段にスムーズになった。
それが封印の解けたことに由来することだとは知らなかった。ただ、自分の運が良くなっただけだと思っていた。
昼間は町の薬草店でアルバイトをしていた。
店主は四十代半ばの無口な女性で、足を引きずっており、歩くたびに杖が床をトントンと鳴らしていた。
初めて面接へ行った日、エマは仮面をつけていた。
店主はちらりと見ただけだった。
「薬草を干したり、荷物は運んだりできる?」
「はい」
「明日から来て」
それで終わった。
ある日、エマは乾燥させた日光花の箱を落としてしまった。
ばさっ、と床いっぱいに散らばる。
高価な薬草だった。
エマの顔から血の気が引いて、慌ててしゃがみ込む。
拾って、拾って、拾いながら頭の中では計算をしていた。
貯金はいくらあるだろう?
足りるだろうか?
弁償できるだろうか?
その時、トン、トン、杖の音が近づいてきた。
店主が隣にしゃがみ込み、何も言わず、一緒に拾い始めた。
拾い終わると、一言言った。
「日光花は湿気に弱い、次は窓を閉めること」
それだけだった。
怒られなくて、給料も引かれなかった。
その日の夜、エマは部屋へ戻った。
机に突っ伏したまま、しばらく動かなかった。
……
そういうことも、あるんだ。
間違えても、必ずしも叱られるわけではないのだ。
窓の外では波の音がしていた。
エマは黙ったまま枕の下へ手を入れる。
小さな黄色い花、入学案内、そんなものばかりだった。
少しだけ苦しい夜は、なぜかそれを確かめたくなった。
夜になると、彼女はランプに火を灯し、古本屋で見つけた中古の教科書をめくった。
『魔力学原理』から『魔法契約図解』まで、ページを一つ一つ丹念に読み進めた。
分からない数式に出くわすと、指が痛くなるまで何度も書き写し、うまく機能しない魔法陣には、インクがなくなるまで紙に何度も描き直した。
ある夜、目を覚ますと、顔が冷たかった。
いつの間にか机に突っ伏して眠っていたらしい。頬には本の角の跡がついていた。
エマはぼんやり顔を上げ、窓の外には夜の海を見た。
真っ黒な水面の向こうに、小さな漁火がぽつぽつ浮かんでいて、まるで星が落ちたみたいだった。
きれい。
静かな夜だった。
――こんな日々は、以前よりずっと良い。
不思議だった。前は何でもあった。
お金も家も、そしてルーカスも、すべてを持っていた。
でも今は違う。
机の上の本、擦り切れたノートと窓から入る海風、どれも大したものじゃないのに、なぜか全部、自分のものだと思えて、ずっと息がしやすかった。
分からない問題にぶつかると、彼女はディヴァーン大学の公開講義へ行く。
最後列に座り、帽子と仮面を着用し、質問する勇気はなく、ただ必死にノートを取る。ノートは三冊使い切り、どのページもびっしりと書き込まれ、端は丸まり、インクの香りが染みついている。
そしてある日、空間魔法陣の問題で止まった。
三日間も考えたが、どうしても解けなかったのだ。
講義が終わって学生たちが帰っていく。
エマは勇気を振り絞って、白髪交じりの教授の後を追った。
教授は講義資料を挟んでのんびり歩いていた。
「あの、すみません……」
彼女の声はほとんど聞こえないほど小さかった。
しかし、教授はすぐに足を止め、振り返った。
「あ、質問かな?」
エマはノートを差し出し、赤丸で囲んだ数式を指さして、震える声で尋ねた。
「ここ……なぜ空間ノードがずれてしまうのでしょうか?」
教授は彼女を一瞥し、ノートを受け取った。
ページを見て、しばらく黙る。
それから何も言わず、空いたページを開いた。
さらさら、とペンが走る。
明快な魔法陣の分解図を描き、その横に三行の導出式を書き連ねた。
「基礎はしっかりしているな。お上手」
彼はノートを彼女に返した。
「来年の試験、頑張れ」
「……あ、ありがとう……ございます」
エマが初めて、見知らぬ人から「認められた」瞬間だった。胸の奥が少しだけ熱かった。
その日の夜、エマはページを丁寧に折った。
黄色い花を挟んでいるノートの間へ、静かにそこへしまった。
一年後。
春の入試結果発表の日、エマは学校へ結果を見に行かなかった。
彼女は部屋で、指先が冷たくなるほど固まり、机の上のランプをぼんやりと見つめていた。
行く勇気がなかった。
もし落ちていたら、もし駄目だったら、もし――
コンコン。
突然、扉が鳴った。
「エマちゃん?」
大家のおばあさんだった。ぽっちゃりとした方で、笑うと目尻がくしゃっとなる。
その手には、ディヴァーン大学の封蝋が押された手紙が握られていた。
「郵便屋さんが今届けたばかりよ。 あなた宛てよね?」
エマは手紙を受け取ったが、指が震えて封を開けることができなかった。
おばあさんはため息をついた。
「もう貸しなさい」
エプロンのポケットから小さなハサミを取り出した。
ぱちん。
封が切れた。
紙が開かれる。
少しだけ間。
「あら、すごいじゃない!」
エマは顔を上げた。
【エマ・エリアス様
ディヴァーン大学召喚契約学院への入学を許可します。
実技試験三位
筆記試験一位】
……
エマはその手紙をもらって、合格の一行を長い間見つめていた。
ぽたり。
紙に小さな染みが落ちた。
そしてまた一粒、もう一粒とこぼれ落ち、手紙に落ちるとインクが滲んでいった。
彼女は口を押さえ、子供のように泣きじゃくった。
おばあさんは何も言わず、ただぎこちなく彼女の肩をポンと叩き、ティッシュの箱を机の上に置いて、そっと部屋を出て行った。
扉が静かに閉まる。
……
泣き止んだ後、エマは冷水で顔を洗い、街角の菓子屋で一番高い詰め合わせの菓子を買って、おばあさんの家のドアをノックした。
「この一年、お世話になりました」
おばあさんはお菓子箱を受け取ると、何度もエマの顔を見る。
そして突然、笑った。
「やっぱりねぇ。 凄い子だと思ってたわ」
エマは目を瞬かせた。
「……え?」
「だってあなた。 目が違うもの」
エマの身体が止まって、喉の奥が固くなる。
「……目?」
「そうそう」
おばあさんは笑う。
「赤くて綺麗じゃない、宝石みたいで」
……
時間が止まったみたいだった。
エマは何も言えなかった。
ただ見つめる。
おばあさんは首を傾げた。
「ん? どうしたの?」
でもエマは答えなかった。
答えられなかった。
頭を振ってそのまま部屋へ戻った。
「赤い瞳の魔物」とか「不気味」とかではなかった。
「宝石のようだ」と言われたのだ。
エマは自分の部屋に戻り、ドアを閉め、顔を枕に埋めて、また泣いた。
しかし今回は、泣き終わった後、エマはゆっくり顔を上げた。
部屋の鏡が赤い瞳が映っていた。
……
しばらく見つめる。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
評価や感想、ブックマークなどいただけると、とても励みになります!
明日も更新予定ですので、また読みに来ていただけると嬉しいです!




