【1章 王宮追放】◇5
◇5
家を飛び出すとき、靴すらもらえなかった。王宮侍女では靴は与えられていたから靴を持っていなかった。そしてその全てを失ってしまった。誰にも評価されず身一つで、何もない場所へ追い出された。だから今の私は裸足で歩いている。
川に沿った小道を歩きながら日が沈んでいくのを眺めつつ、これまでのことを、わたしは考えた。泣きながら考えた。吐く息が白い。きっと鼻は真っ赤だ。
川辺の道は水辺で冷え切った冷気で足が刺すように冷たくて痛い。悲しい。
その惨めさで、どんどん昔のことを思い出していく。
思えば幼い頃、姉たちに連れられて湖畔にピクニックに何度か行った時は本当に楽しかったなとか、父の事業が上手くいっていた頃は家族みんなで夕食が当たり前で、立派なドレスこそ着ていなかったが、衣服にも不自由しなかった。
(昔は、綺麗なサンダルの靴を買ってもらっていたなあ。どうして今の私は裸足で歩いているんだろう。裸足だと、石畳が刺すように冷たいわ)
あの頃は、この真っ黒な「作業着」になってしまった穴の開いたぼろぼろのワンピースだって、真っ白な麻布だったから着心地が良かった。
わたしは、真っ白な麻布のワンピースを着て、古代語の勉強のために街の本屋さんから買った1冊の専門書を木陰で読むのが何よりの楽しみだった。
そんなことを思い出して、鉛色の空を見上げる。今はその全てが過去のもので何もない。今の私はカラッポだ。両手を見つめる。ひび割れた爪のついた傷だらけの両手には何もない。私はカラッポの女だ。
わたしカリナは一代限りの名誉男爵ファリーナ家の三女だ。
6歳になる弟ジェスコは王立学校に通っている。爵位をえるため騎士になるのが夢らしい。なんて希望に満ちあふれているんだろう。きっとなれるに違いない。
そして父パガニエルと母アウルは酒癖が悪くて、いつもお酒に入り浸っている。
両親は癇癪を起こすと、飲んでいる酒を私に頭からかけることが何度もあった。姉たちには「早く嫁に行け」と言うのにわたしには「生活費を稼ぐ気がないのか」といつも厳しくあたってきた。なぜわたしだけそんな目に遭わされるのかは今も昔も分からない。
そのせいだろうか、要領と容姿だけは飛び抜けて良かった姉二人は早々に子爵家に嫁いでしまった。そして、多額の持参金を姉たちが二人して持っていってしまった。だから家の金庫はカラッポだ。今のわたしとおなじカラッポの家。
それでも、ほんの数年前までは父はミスリル鉱山を見つけた鉱夫頭で、お金回りが良かったのだ。ただ、今は詳しいことは分からないけど、落盤などで採石が止まっており再開まで数年かかるらしい。
わたしは「うまくいくことは長くは続かない」と思う怖がりな性格だ。
王宮で女王の身代わりのような人前に出て演技をできる性格ではないのだ。
だから、まだ父が他の貴族や王族からチヤホヤされている間に、せめて自分の生活費だけでも工面するために必死に努力し、ツテを使ってなんとか王宮の侍女という職に就いていた、それなのに……!
(あの夜の身代わりの魔法は悪い夢で、いまもわたしは眠っていたりして……なんて、そんなはずないよね)
思わず今のすべてを忘れて空想の世界に現実逃避したくなる。
でも破れた服と裸足の足、割れた手の爪は、どうにもならない現実で、凍てつくように寒い空も、寒さで白い息を吐くこの気温も、すべてが本物だ。
(空想は空腹と身一つの今のわたしを救ってはくれない。でもわたしはもう今の現実から逃げたい……これからどうすればいいの?)
そう言えば、王宮の上級侍女たちは「あんな子が女王のお側なんて」とか「名誉男爵のような最下級貴族の子が王宮勤めなんて生意気ね」や「名誉男爵娘の分際で侍女の真似事などせず、メイドと一緒に掃除でもしてなさい」と毎日のように言ってきた。
(わたし、メイドじゃないのに、女王側付き侍女だったのに、ずっとメイドらしいことばかりやらされていたなぁ……どうせわたしなんて……)
メイド以上にメイドのような扱いを受けていたわたしは、誰も見ていない裏階段をずっと掃除をさせられたり、汚れた暖炉を灰まみれで掃除させられたりと、まるでメイドのように扱われていた。それを思い出すと悔しいし、悲しくなって、気分が憂鬱になる。
(そんなわたしを主である女王様は見て笑うだけだった……)
それでも、なぜか女王側付きの侍女になれて、そのことがずっと不思議だったけど、まさか『身代わりのため』に雇われていたなんて。
でも、父が名誉男爵という貴族の中でも最底辺だったということを考えれば、こうなることは当然のこととして予測できたのかも知れない。
生きることに精一杯なわたしには予想もつかない恐ろしいことだけど、わたしはあまりに都合の良い反撃のできない弱者だったのだろう。
(普通の貴族出身の侍女を身代わりにしたら親が黙っているはずがないわ。一代限りの名誉貴族という弱い立場の父につけこんで、わたしはいいように利用されて、王宮からも家族からも不要品として捨てられてしまったのね)
王宮の侍女時代、お休みをもらって実家に帰ることもあった。
すると、母は吐き捨てるように「あなたは器量の悪い田舎娘だからせめて家族の邪魔にもならないように、その体を小さく丸めて生きなさい」と言われたなあ。
そして、父は「侍女でも、王宮に出入りする子爵貴族の妾にでもなればどうとでもなる」と真っ赤にできあがった顔で言われたなあ。
でも、その全ては過去のもので、擦り切れて、ぼろぼろで破れて真っ黒に染まってしまった服しか今は手元にない。本もない。今のわたしには何もない。裸足で歩くカラッポのわたし。
(お腹空いた……帰る場所がないけど、どこかへ帰りたい……でも、どこに行けばいいの?)
わたしは橋のたもとにある、一輪の青白い月桂樹の花を見つけた。萎れかけている。
(王宮内の噴水前にも、青白い月桂樹が咲いていて不思議と枯れることがなくて、わたしはこっそり水やりしていたよね)
その時のことを思い出したので、川の水を手ですくい、王宮勤め時代の頃にやっていた水やりの時のように、古代語で囁いた。
「さあ、お願い。『再び蘇って……その命が続く限り』」
古代語の専門書に書かれていた、古代に伝わる古い習わしの、慈愛の言葉だ。
愛する家族や大切な人への呼びかけに使われたという失われた言葉。
その言葉を、わたしに言ってくださったのは、唯一、ウラカン閣下だけだったなあ。
(こう呼びかけては、王宮内の青白い月桂樹に水をふりかけていたよね。なつかしいなあ。いつも庭師にはナイショでやってたなあ)
そう思いながら花を見ていると花が白く輝き、みるみる萎れていた蕾が再生してぱあっと開花した。
(えっ!? すごい……こんなの、初めて見た……何これ……)
青白い月桂樹の光に引き寄せられた人でもいたのだろうか、橋の向こうから人影が見える。
ああ、良かった、誰か助けてもらえる――
「どうされましたか、何かお困りですか」
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