【6章 再会】◇4
◇4
気が付くと、わたしは両手両足を太い縄で固く縛られ、口には汚い布を固く結びつけられた状態で、実家の薄暗い部屋に閉じ込められていた。
抵抗することも、声を出すことすらできないわたしの目の前の床に、バサリと一枚の紙が投げ捨てられる。
それは、両親がウラカン様に送ったという手紙の写しだった。内容を読んだわたしは、そのあまりの厚顔無恥さに戦慄した。
『ウラカン・ウィンターガルド閣下、貴殿による我が娘カリナの拉致・側室化は、貴族の慣習に反する言語道断の暴挙です。
娘を側室に望むならば、対価として貴殿の財産の半分を当家へ譲渡することを要求します。
これを拒むならば、誘拐罪および「異世界の聖女」という国家を欺く誇大妄想的な嘘を告発し、多額の賠償を求めて訴訟を提起いたします。これは交渉ではなく取引です』
後ろ手に縛られた指先がガタガタと震え、冷たい床を掻きむしるように力が入る。
(お父様、お母様……本当に、本当にこの手紙を送ったのですか!? こんなことをしたら、どうなるか分かってないの!?)
口を塞がれたわたしの悲痛な叫びは声にならず、ただのくぐもった嗚咽として響く。父は鼻で笑うと、床に落ちていた手紙を乱暴に拾い上げ、くしゃくしゃに丸めて放り投げた。
「黙れ! 娘が父親に反抗的な目をしてるんじゃない! この親の脛かじりが!」
父は、安物のウイスキーの瓶を乱暴に開けると、母の持つグラスに注ぎ、これ見よがしに乾杯して見せた。
「だいたい、お前が王宮を追放されなければ、こんな面倒な話し合いなんて必要なかったんだ!」
「そうだよ! あのウラカンとかいう男が、財産の半分も持ってくるはずなんてないんだからね!」
母が嘲笑と共に、縛られて動けないわたしの肩を無慈悲に突き飛ばす。よろけて床に倒れ込んだ拍子に、父が手にしたグラスを傾けた。
「まったくだ! あの男はどうせ、お前をすぐに捨てるさ。 ここに来る勇気すら、どうせありはしない。 泣きっ面で『訴訟をしないでくれ』と弁護士を寄越すのが関の山だ!」
バシャッ、と、汚い色の酒がわたしの頭からかけられた。
鼻を突くきついアルコールの匂い。頬を伝い、服を濡らしていく液体。かつて味わったあの惨めさが、全身を駆け巡る。
「あんたごときに、そこまで伯爵貴族が本気になるわけがないだろ! お前は騙されているんだよ!」
抵抗できないわたしを見下ろし、母の鋭い平手打ちが頬を打つ。
「せいぜい、金貨百枚もらえたらいいところだね。それであたしたちの老後の資金にするんだよ。それくらいの役には立ってみせなさい!」
両親の醜悪な笑い声が、薄暗い部屋の中に響き渡る。
わたしは床に這いつくばったまま、ただ奥歯を噛みしめて耐えるしかなかった。
(お願い、ウラカン様……来ないで。こんな人たちのところに、来ちゃダメです……!)
涙で滲む視線の先で、窓の外に輝くあの一筋の青白い光を、ただじっと見つめ続けていた。
……コンコン。
その時、静寂を破るノックの音が響いた。
「失礼、呼び出しに応じて財産の半分を譲渡する契約書を持ってきた。バレンシア辺境伯ウラカン・ウィンターガルドだ。彼女の無事を確かめたい。彼女に会わせてくれ」
重厚なドアの向こうから、聞き間違えるはずのない、あの低く凛とした声がする。
(……ああ、おしまいだわ。全部、わたしのせいだ)
頭の中に、泥のように重く暗い思考が次から次へと溢れ出してくる。
自白剤の毒は、わたしの心の奥底に隠していた醜い臆病さを引きずり出し、鋭いナイフのように自分自身を切り刻み続けていた。
視界が歪み、父が投げ捨てた酒の嫌な匂いと、絶望的な孤独感が混ざり合って息が詰まる。
「カリナはいるのか?」
「いたとしても、あんたに会わせる義理はないね!」
(どうして、わたしなんかのために……。財産の半分だなんて、そんなこと、あっていいはずがないわ)
ウラカン様が積み上げてきたウィンターガルド家の歴史、大運河、多くの人々の生活……。
それらすべてを、ただの「王宮を追放された、何もない女」であるわたしのせいで、半分も失わせてしまう。
わたしの命に、そんな価値なんて一欠片もないのに。
金貨百枚どころか、一平民のメイドとしての一生分だって稼げないような、何の役にも立たない、ただ頭から酒をかけられて床を這い回ることしかできない無力な存在なのに。
「カリナ、いるなら返事をしてくれ。君の声が聞きたい」
「娘はお前に会いたくないそうだ」
(ウラカン様、来ないで。お願いだから、そんな契約書なんて破り捨てて、わたしのことなんて忘れて……!)
心の中で叫んでも、口を塞ぐ布のせいで声にならない。
あんなに優しくしてくれたウラカン様に、わたしは最大の泥を塗ろうとしている。
「君を見捨てない」と言ってくれたあの言葉を、わたしが、わたしの存在そのものが呪いとなって食いつぶしていく。
わたしがいなければ、ウラカン様は今も病室で静かに回復し、立派な辺境伯として誰からも尊敬される日々を送っていたはずなのに。
「カリナ、目を閉じておけ。絶対に目を開けるな。最後の警告だ、パガニエル卿、貴殿の主張通りに財産の半分を渡す準備をしてきたのに貴殿は扉を開けない。教会の大司祭が第三者として証言者になっているが、どうお考えか?」
「うるせえ! 勝手にこの家に入ったら、娘は渡さないぞ! 交渉はなしだ、取引といこうじゃないか」
(わたしは、ウソの塊なだけじゃなくて、大切な人のすべてを奪い去る疫病神なんだわ)
かつて王宮の片隅で灰にまみれていた頃よりも、今のわたしは惨めで、醜くて、救いようがない。
あのアイスブルーの瞳を、悲しみや後悔で曇らせてしまうくらいなら、いっそこのまま消えてしまいたい。
冷たい床に額を押し付けながら、わたしは自白剤がもたらす終わりのない自己嫌悪の渦に、深く、深く沈んでいった。
「カリナ、十秒で終わらせる。そこから動くなよ。あんたたちもドアから離れておいたほうがいい。パガニエル卿、アウル婦人、貴殿らに最大限の警告はしたぞ?」
「何をしようってんだい、金を置いて出ていきな!」
「今から扉を蹴破る。開けろ。繰り返す、開けろ。開けないなら、この扉を蹴破る。衛兵も突入する。容赦はしない。カリナ、目を閉じろ。君にこの光景を見せたくない。三秒後に突入する。三、二……」
その絶対零度のような冷徹な声色に、父の顔色が一瞬にして青ざめた。
「わ、わかった! ドアを開ける! 乱暴はしないでくれ、話し合おう!」
父は慌ててドアの鍵を開けようと急ぎ足で向かった。しかし、恐怖で震える彼の手から、先ほどまで煽っていたウイスキーの瓶が滑り落ちた。
ガシャーン!
割れた瓶からこぼれた度数の高いアルコールが、床に置かれていたオイルランプに勢いよく降り注ぐ。
「ああっ!? ひ、火が!」
引火は一瞬だった。
ボワッという恐ろしい音と共に、炎が室内の絨毯やカーテンを伝い、あっという間に業火となって部屋を包み込み始めた。
「逃げるよ、あんた!」
「ひぃぃっ!」
両親は、縛られて動けないわたしを一瞥することすらなく、開けたばかりのドアから我先にと外へ逃げ出していった。
取り残されたわたしは、燃え盛る炎の中で静かに目を閉じた。
(……これで、いいわ。わたしが焼け死ねば、ウラカン様が財産を失うこともない。わたしという疫病神は、ここで消えるのが一番なんだわ)
肌を焦がすような熱気が迫る。絶望と共に自分の運命を諦めかけた、その瞬間だった。
メキョッ、ドガァァァン!!
分厚い木製のドアが、蝶番ごと吹き飛ぶほどの凄まじい蹴りで粉砕された。
舞い上がる火の粉と黒煙を引き裂くようにして、氷の騎士が業火の中へ飛び込んでくる。
「カリナ!! 君を愛している!! 好きだ!! 他の誰よりも!!」
彼はそう言うと、強い力で引き寄せられ、わたしの体は燃える床からふわりと浮き上がった。
ウラカン様は縛られたままのわたしを軽々と腕の中に抱き上げると、炎を一切恐れることなく、屋敷の外へと駆け抜けた。外の冷たい空気に触れた瞬間、激しく咳き込む。
屋敷の周囲には、すでに大勢の衛兵たちが駆けつけており、逃げ出した父と母を地面に押さえつけて拘束していた。
「ああっ、家が! 燃えているぞ! 誰か水を持て! 私は全てを見たから、証人となる! 私が証人だ!」
教会のガヤルド大司祭が、赤々と燃え上がる実家を指差して絶叫しているのが見える。
「ウラカン、様……どうして……」
どうして、見捨てなかったのですか。わたしは聖女でも何でもない、ただの身代わりの、嘘つきの女なのに。自白剤の影響で、喉の奥にはまだ「わたしなんて死ねばいい」という呪いの言葉が張り付いている。
けれど、ウラカン様は迷いなく歩み寄ってきた。
「言っただろう。君を見捨てたりはしない。愛しているよ、カリナ」
その声が鼓膜に触れた瞬間、胸の奥で何かが弾けて飛んでいった。
(愛している……ウラカン様はわたしのことを愛してくれている……)
ウラカン様はわたしの口を塞いでいた布と手足の縄を剣で素早く断ち切ると、煤で汚れたわたしを、壊れ物を扱うようにきつく、きつく抱きしめた。
伝わってくるのは、鉄の匂いと、彼が流したであろう汗の熱、そして――。
(ああ、この人は、本当に怒っている。そして、それ以上に震えている……わたしのことが本当に好きなのね、この人)
鎧越しでも分かるほど、その胸の鼓動は激しかった。冷徹な「氷の騎士」が、一人の女のために、これほどまでに必死に、なりふり構わず駆けてきてくれた。その事実が、自白剤がもたらした冷たい孤独を、内側から強引に溶かしていく。
わたしは、愛されていいのかもしれない。
――「身代わり」ではなく、「カリナ」という名の、一人の弱い女として。
「カリナ様!!」
「カリナ様、ご無事でよかった……!」
駆け寄る足音と共に、エリーゼとシロンの姿が見えた。二人は涙ぐみながら、わたしたちの元へ飛び込んでくる。
王宮では誰もわたしを名前で呼ばなかった。けれど、ここでは、このバレンシアでは、みんながわたしを求めてくれている。
燃え落ちる実家は、もう「帰る場所」ではない。
わたしをきつく抱きしめるこの腕の中こそが、わたしの、わたしたちの居場所なのだ。
視界が涙で歪み、鼻の奥がツンと痛む。
喉に張り付いていた呪いの言葉が、熱い涙と一緒に溢れ出した。もう、嘘を吐く必要なんてない。自白剤に頼らなくても、わたしの心は、最初からこの答えに決まっていた。
「わたしも、ウラカン様のことが好きです! 大好きです!」
わたしは彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。それは生まれて初めて、自分の意志で、自分の言葉で放った、真実の愛の叫びだった。
その言葉を聞いたウラカン様は、驚いたように少しだけ目を見開いた後、今までで一番優しく、そして熱を帯びた微笑みを浮かべた。
「ああ、俺も好きだよ、カリナ」
彼の手がわたしの頬を包み込み、そっと上を向かせる。そして、煤で汚れたわたしの唇に、彼自身の唇が重なった。
それは、背後で燃え盛る炎の熱さとは違う、心臓が溶けてしまいそうなほど甘くて温かい口づけだった。周囲の騒ぎも、家の崩れる音も、この瞬間だけは完全に遠のいていく。ただ、ウラカン様の確かな体温と、わたしを強く抱きしめる腕の力だけが、この世界で唯一の真実だと感じられた。
ふと唇が離れると、周囲から予期せぬ音が聞こえてきた。
パチパチパチパチ――。
気がつけば、火事の騒ぎを聞きつけて集まっていた近隣の野次馬たちが、わたしたちを取り囲むようにして温かい拍手を送っていた。
「いいぞ、騎士様!」
「お嬢さん、助かって本当によかったね!」
衛兵に捕えられ、地面に這いつくばる両親の惨めな姿とは対照的に、人々は満面の笑みでわたしたちの生還を祝福してくれている。
照れ隠しのように顔を赤くするわたしを、ウラカン様はもう一度強く抱き寄せ、群衆に向かって誇らしげに微笑み返した。
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