【6章 再会】◇3
◇3
【カリナ視点】
わたしカリナは、気づくと船の上にいた。
(痛い……ここは、どこ? 体が動かない……)
リリン、リリン……ウラカン様にいただいた銀の懐中時計がずっと震えて、鈴のような音を出し続けている。
ふと気づくと、わたしは手足を縄で固く縛られ、カビ臭い甲板の上に無造作に放り出されていた。
肌を刺す空気の冷たさ、立ち込める湿った霧。この天候はバレンシアのそれではない。
かつてわたしが追い出された、あの王都の寒い冬の気候そのものだった。
「あー!……ったく、うるさい音だな!」
甲板にいた身なりの汚い水夫が、苛立った様子でわたしの懐中時計を乱暴に奪おうとする。
「あっ、やめて!」
「ずっと鳴り止まねえ、うるさいんだよ! さっさと止めさせろ!」
どうしたら懐中時計が静かになるだろう? わたしは必死に考えて、この時計に込められた魔力に、古代語で語りかけることにした。
(懐中時計を止めないと、もっと酷いことをされるかも知れないわ……)
傍らでは、見張りの冒険者がリンゴをシャリシャリと音を立てて齧りながら、品定めするようにわたしを見ている。
「懐中時計、今はもういいの。『お願い。今は静かにして』」
リリ……。
わたしの言葉に呼応するように、銀の懐中時計がふっと鳴り止んだ。
「へっ、静かにできるんじゃねえか」
「ごめんなさい……ここは、どこですか?」
冒険者はすぐ答えず、しばらく手元の木彫りの人形を鋭いナイフで器用に彫り続けていたが、溜息をついて、諦めたように口を開いた。
「もうすぐ、王都だ。あんた、悪い奴らに騙されてるからってんで、冒険者ギルドで報酬が出てたんだよ。港であんたの優しい親父さんとお袋さんがお待ち兼ねだ。泣かせるじゃねえか」
「そんな、わたし、騙されてなんて……」
冒険者は腰の瓶から酒をごくごくと喉を鳴らして飲み、下卑た笑いを浮かべてわたしにも飲むかと勧めてきたが、わたしは青くなって首を振った。
「井戸に入れた『自白剤の薬』……。副作用で悪夢を見たり孤独感が強くなることもあるが、自分の心の本音をさらけ出すんだ。あんたはそれで自分から結界の外に出たんだ。悪い男に騙されてるんだろ?」
「そんな……わたし……」
(副作用……。あの時の絶望も、孤独感も、すべて薬のせいだったの?)
「暴れて海に入水自殺でもしかねないって思ったんで縛ってたんだが、ほら、もう外してやるよ。馬鹿な真似するんじゃねえぞ? こっちは善意でやってるんだ」
冒険者はナイフを手のひらの上で器用にジャグリングして遊びながら、縄を切った。
「あの屋敷には、異世界人の杖も置いてあって手が込んでたな。お前さんはどこまで自分が聖女だなんて信じてたんだ、あ? 親がいるのに異世界人なわけねえだろ」
「それは……」
「いいさ、黙っててやるよ。事情があるんだろ。悪い男に骨抜きにされたんだろうからよ。ま、こっちは報酬がもらえればそれでおさらばだぜ。ほら、着くぜ」
「ああっ、本当に王都……」
霧の向こうから、見覚えのある王都の港の石積みが姿を現す。船体がいななきを上げて接岸し、重々しい音を立ててタラップが押し出された。
わたしは力なく、その上を歩いていく。
――タラップの先には、父と母がいた。
わたしの隣で、冒険者が父からずっしりと重い報酬の袋を受け取り、歓喜の声を上げて船へと戻っていく。
そして船は、未練などないと言わんばかりに、即座に出航の鐘を鳴らした。
波間へと消えていく船の影を見送りながら、わたしは逃げ場を失ったことを悟る。
「親不孝な娘だよ、まったく!」
再会の喜びなどなかった。母の鋭い平手打ちが、わたしの頬を打つ。
ジンジンと痺れるような痛みの中で、父がわたしの首元を睨みつけた。
「何だ、この懐中時計は! 新婚旅行のつもりか! この馬鹿娘が!」
父がわたしの首から乱暴に懐中時計をひったくり、石畳へと叩きつけた。
その刹那――砕け散る直前の銀の時計が、わたしの網膜に強烈な残像を映し出した。
バレンシアの穏やかな潮風。並走するイルカたちの歓声。リクライニングチェアに揺られながら眺めた、あの美しすぎる流星群……。
そして、耳元で何度も繰り返された、あの低く優しい声が脳裏に響き渡る。
『――大丈夫だ。俺は、君を見捨てたりはしない』
視界が真っ白に染まった。
砕け散った懐中時計が激しく光り輝き、無数の光の粒となって天空へと昇っていく。
同時に、ガラーンゴローンと、脳髄を揺さぶるような巨大な鐘の音が鳴り響いた。
港にいた人々が一斉に悲鳴を上げ、耳を塞いで石畳にうずくまる。
さらにその衝撃波は凄まじく、港町の家々の窓ガラスが一斉に砕け散り、鋭い「ガラスの雨」となって降り注いだ。
悲鳴さえもかき消すその絶望的な響きを前にして、わたしはエリーゼの言葉を思い出していた。
『決して手放してはいけません』
あの日、彼女が真剣な瞳で告げたのは、時計の価値のことなどではなかったのだ。
それは、わたしがどんな苦境に立たされようとも、必ずウラカン様に繋ぎ止めるための「最後の一線」であり、彼女がわたしに捧げてくれた不器用で真っ直ぐな献身そのものだったのだ。
「クソ……ッ、何か仕掛けてたな、あの男め!」
叫ぶ父パガニエルの顔が、一瞬だけ恐怖に引き攣るのをわたしは見逃さなかった。
天を衝く光の柱と、街を震わせる轟音。それは単なる威嚇などではない。
名誉男爵である父の想像を絶するほど巨大で、冷徹な「ウラカン・ウィンターガルド」の力が、その場に具現化したかのようだった。
父は震える手を隠すように、わたしの腕を乱暴に掴んで突き飛ばした。
「馬車に乗れ! 早くしろ!」
「いやっ! 離してください!」
「いいから乗るんだよ!」
母が無理矢理、わたしを馬車の狭い中へと押し込む。
パガニエルは降り注ぐガラスの雨と鳴り止まぬ鐘の残響に怯える民衆へ向け、顔を紅潮させて叫び立てた。
「うちの娘は、あの男に毒を盛られて頭がおかしくなっているんです! みなさん、どうぞお気になさらずに。これから実家で保護するのです……馬車を出せ!」
父の虚勢に満ちた叫びを置き去りに、御者は怯えきった様子で馬を走らせた。
砕かれた時計から放たれた一筋の青白い光は、遠ざかる馬車の窓の外で、いつまでも雲を貫き天空へと輝き続けていた。
その光柱は、王都のどんよりとした曇り空を鋭く裂き、まるで地上の汚れを拒絶するかのように高潔な輝きを放っている。
(……ああ。あの光は、ウラカン様そのものだわ)
馬車の狭い座席に押し込められながら、わたしは空を仰いだ。
形ある絆は失われてしまったけれど、その瞬間に現れた幻想的な光は、どんな物理的な鎖よりも強く、確実に、彼がわたしを見つけ出すための道標となっていた。
(彼は助けに来てくれる。……絶対に。だって、あの人は騎士様だもの)
激しく揺れる馬車の中で、わたしは祈るように胸の前で手を組んだ。
天高く昇り、雲を灼き続ける青白い光は、絶望の淵に立たされたわたしに与えられた、最後にして最強の希望だった。
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