【5章 辺境の風土病】◇7
◇7
【シロン視点】
日が暮れて夜になった。
カリナ様は先にお屋敷に戻っている。
せっかく目覚めたウラカン様が急変して、かなり落ち込んでいたからボクは心配だ。
教会の病室は、静まり返っていた。
ベッドに横たわるウラカン様は、青白い月桂樹から抽出した治療液――花の精髄のおかげで熱こそ引いているものの、まだひどく体力が消耗している。
昼間、カリナ様を元気づけようと無理をしたせいもあるのだろう。
「元気づけようとして、逆にカリナを心配させてしまった、すまないと伝えてくれ」
掠れた声で気遣うウラカン様に、ボクは力強く頷いた。
「はい、ボクからもきちんと伝えます」
「あいつ、独りぼっちになって思い詰めて書き置き手紙とか書きそうな気がする」
ウラカン様は、ふと遠くを見るような目をした。カリナ様の不器用で臆病な性格を、誰よりも理解しているのだろう。
「書き置き手紙……そのときはどうしますか」
「俺がそんなことをするはずがない、ってお前からはっきり言ってくれ。壁の一つや二つ壊してもいいぞ」
ウラカン様の冗談めかした、けれど真剣な言葉に、ボクは胸を張って答えた。
「分かりました!執務室に変な手紙がないか見ておきます!」
ボクはウラカン様に一礼し、教会の病室を後にして伯爵邸へと急ぐことにした。
まずは公会堂で救護にあたっていたエリーゼ様と合流し、二人で飛龍専用の厩舎へ向かう。
「エリーゼ様、ボクの腰をしっかり掴んでいてください。ゆっくり飛びますから!」
「ええ。わたし、高いところは少し苦手だから、ゆっくりお願いね」
ボクは頷きながら飛龍に跨がる。
後ろでエリーゼ様がボクの腰をしっかり掴んだのを確認し、合図の口笛を吹いた。
バサバサと力強い羽音が響き、飛龍がふわりと夜空へ浮き上がる。
上空から見下ろすバレンシアの街は、結界の淡い光に包まれて静まり返っていた。飛龍は迷いなく伯爵邸の方向へと滑空していく。
だが、遠くに見えてきた屋敷の姿に、ボクは違和感を覚えた。
「おかしいな……」
「どうしたの、シロン?」
「屋敷の明かりが、ひとつも点いていません。メイドたちが出払っているとはいえ、カリナ様が先に戻られているはずなのに……」
上空から見る伯爵邸は、不自然なほど深い闇に沈んでいた。胸の奥がざわつく。ボクは飛龍の速度を少しだけ上げ、屋敷の中庭へと急降下した。
夜の帳が下りた屋敷の敷地内に降り立つと、どこか空気が重かった。
屋敷はしんと静まり返っている。
ふと、中庭の井戸のそばでガサリと物音がした。
目を凝らすと、暗がりに怪しい人影がうずくまっている。
「誰だ! そこで何をしている!」
ボクが声を張り上げると、その人影は弾かれたように立ち上がり、闇に紛れて逃げていった。泥棒だろうか? 深追いは危険だと判断し、まずは屋敷の中にいるはずのカリナ様の無事を確認することにした。
ボクは屋敷に入り、真っ先にウラカン様の執務室へ向かった。ドアを開けると、誰もいない。だが、デスクの上に一枚の紙がポツンと置かれていた。
嫌な予感がして手に取ると、それは古代語で書かれた置き手紙だった。ボクは古い文献を調べていたから、少しだけ読むことができる。
『お昼のことは、わたしの気の迷いでした……わたしは前に進む勇気が持てない臆病者です。ですから、どうか、わたしを忘れてください』
「ウラカン様の言った通りだ……!」
ボクは手紙を握りしめた。どうしてカリナ様は、こんなにも一人で抱え込んでしまうんだ。執務室を出ようとしたその時、ふらふらと廊下を歩いてくるカリナ様と鉢合わせた。
「えっ、シロン君……どうして……」
彼女の瞳はひどく怯え、焦点が合っていない。ひどい眩暈に襲われているような、まるで何かに取り憑かれているような錯乱状態だった。ボクの手に握られた手紙を見て、カリナ様の顔が青ざめる。
「執務室に、ウラカン様に頼まれた荷物を取りに来たんです! でも、カリナ様……この手紙は間違っています! ウラカン様はそんな冷たい人じゃありません!」
ボクはドンと壁を叩いて叫んだ。ウラカン様に「壁を壊してでも」と頼まれたのだ。逃げようとするカリナ様の腕を、ボクは必死に掴んだ。
「カリナ様! ウラカン様がどれほど、あなたを思っているか……!」
「放して! わたし、バレンシアにはいられないわ!」
「どうしたの、シロン!」
騒ぎを聞きつけたエリーゼ様が駆けつけてきた。カリナ様の異常な様子を見て、彼女も慌てて制止に入る。
「カリナ様、目を覚ましてください! シロンの言う通りです! ウラカン様はあなたを捨てたりしません!」
「いやっ! 二人とも放して!」
カリナ様の声は、狂気を孕んで屋敷の静寂を切り裂いた。彼女は火事場の馬鹿力のような激情で、縋りつくボクとエリーゼ様の手を力任せに振り払った。
バランスを崩したボクたちを置き去りにして、カリナ様は裸足のまま夜の闇へと飛び出していく。
「待ってください、そっちは危ない!」
結界の外は危険だ。ボクは泥を跳ね上げながら必死にその後を追ったが、カリナ様はまるで見えない恐怖から逃れるように、一線を越えて結界の外へと躍り出てしまった。
「カリナ様!」
結界を抜けた瞬間、湿り気を帯びた冷酷な夜の空気が肌を刺した。
暗闇の中、放心したように立ち尽くすカリナ様が見えた。しかし、その背後から複数の不審な黒い影が忍び寄る。
「誰だ、やめろ!」
ボクが叫んで駆け寄ろうとした瞬間、影の一つがカリナ様の口元を布で覆い、あっという間にその意識を奪い去ってしまった。
「カリナ様っ……!」
助け出そうと手を伸ばしたボクの頭部に、鈍い衝撃が走った。
背後に回り込んでいた別の影に、強く殴打されたのだ。
「……ぐっ……!」
視界がぐらりと揺れ、冷たい地面が迫ってくる。連れ去られていくカリナ様の姿と、鼻を突く嫌な薬品の匂いだけが記憶に焼きついたまま、ボクの意識は途切れた。
「シロン! シロン、しっかりして!」
どれくらい気を失っていたのだろうか。耳元で必死に叫ぶ声と、肩を激しく揺さぶる感触で、ボクはハッと目を開けた。
「……エリーゼ、様……?」
「よかった、気がついたのね! 突然あなたが倒れるから……!」
泣きそうな顔で駆け寄ってきたエリーゼ様を見て、ボクは跳ね起きようとし、後頭部の激痛に顔をしかめた。
「カリナ様は……! カリナ様が、黒い影に……!」
周囲を見渡しても、冷たい夜風が吹いているばかりで、カリナ様の姿はどこにもなかった。
ウラカン様、ごめんなさい……。
ボクは痛む頭を抱えながら、取り返しのつかない事態が起きたことを悟った。
本作を面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、いいねなどで応援いただけると嬉しいです。
今後の活動の励みにさせていただきます。よろしくお願いいたします。




