【5章 辺境の風土病】◇6
◇6
翌日、奇跡は確かな形となって現れた。
青白い月桂樹から抽出した治療液――花の精髄の効果でウラカン様の熱が収まり、彼はゆっくりと、力強く目を開いたのだ。まだ体力は完全に回復しておらず絶対安静が必要だと教会の医師に厳命されたが、短い面会だけは許可された。
「ウラカン様、良かった! わたし、もうダメかと本当に心配しました……!」
「カリナ……君が、俺を暗闇から引っ張り上げてくれたんだな」
ウラカン様は痩せ細った腕をゆっくりと伸ばし、わたしの頬にそっと触れた。その手のひらは温かく、確かな命の熱を帯びていた。これまでにない愛おしさと、彼を失わずに済んだという安堵が胸に込み上げてくる。わたしは彼の手を両手で包み込み、すり寄るように頬を押し当てた。
「ウラカン様……! はい、もう大丈夫ですよ、大丈夫なんですよ!」
「泣かないでくれ……。カリナ、俺はもう、君を手放さない。どんな障害があろうと、必ず俺の妻にする。だから……ずっとそばにいてほしい」
それは、これまでで一番甘く、力強い誓いだった。彼は上体をわずかに起こし、わたしの額にそっと口づけをした。
胸の奥から熱い思いがとめどなく溢れ出し、わたしは涙を流しながらまくしたてた。
「はい……! いつか、あなたと本当の意味で一緒になりたいって、そう思っているんです。王宮にいた頃の灰まみれのわたしじゃなくて、今のわたしとして! だから、絶対にわたしのこと、捨てたりしないでくださいよ?」
「捨てるはずがない……君は、俺の命そのものだ」
ウラカン様は優しく微笑み、さらにわたしを抱き寄せようと重い腕を動かした。たまらず、わたしから彼にすがりつくように抱きしめる。彼との熱い抱擁で、空っぽだったはずの胸が満たされていく。
「言っただろう、『君を見捨てたりはしない』と。絶対に、捨てたりしないよ」
「はい……ええ、はい!」
ぎゅっと、互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合う。
(良かった、これで、わたしたちはずっと幸せでいられる。やっと、自分の言葉で伝えられた!)
「もう、倒れたりしないでくださいよ?」
「ああ。君の前から、もう消えたりしない」
耳元で囁かれる言葉に、心が温かく溶けていきそうだった。すべてが報われた、永遠にこの温もりに包まれていたかった。
――しかし、暗転は突然だった。
「……っ、がはっ……!」
耳元で、彼が激しく咳き込む音がした。
体を離すと、ウラカン様の顔色が一瞬にして土気色に変わっていた。繋いでいた手からふっと力が抜け、彼の体がベッドに力なく崩れ落ちる。
「ウラカン様!? どうしたの、息が……!」
「兄様!? ダメ、容体が急変したわ! 先生を呼んで!」
異変に気づいたエリーゼが血相を変えて飛び込んできた。すかさず医師たちが駆け込み、ウラカン様をベッドごと取り囲む。
「聖女様、危険です! 部屋から出てください。絶対安静です!」
突き飛ばされるように病室から追い出され、わたしは冷たい廊下で呆然と立ち尽くした。
先程までの温もりが嘘のように、指先が凍りついていく。教会の医師の判断で、これ以上の滞在は処置の邪魔になるとされ、わたしは急遽、消毒の終わった伯爵邸へと戻されることになった。
「ウラカン様……また明日、来ますね」
分厚い扉の向こうへ届くはずもない言葉を残し、わたしは逃げるように屋敷へ戻った。
しかし、そこは驚くほどがらんとしていた。
メイドもシロン君もエリーゼも、感染者の対応で教会や公会堂に詰めている。風土病の特効薬は見つかっても、壊れた日常はまだ戻っていないのだ。
ウラカン様のいない執務室。シロン君のいない客間。
どこを開けても、返ってくる言葉はない。しんとした静寂だけが、わたしを嘲笑うように出迎えた。
「わたし、やっぱり、ひとりぼっちだ。どうして、あんなに舞い上がってしまったんだろう……」
ふいに、元気になったウラカン様がどこか遠くへ行ってしまうような、根拠のない胸騒ぎがした。
あのままウラカン様が二度と目覚めなかったら? あるいは、奇跡的に回復した瞬間に「あんな誓いは病の熱が言わせた間違いだ」と否定されたら?
(いけない。何を考えているの、わたし)
首を振っても、「側室でもいい」と叫んでいたクラリスという元子爵令嬢の顔が鮮明に浮かび上がる。そうだ、ウラカン様の周りには、彼を狙う洗練された女性なんていくらでもいるのだ。
わたしなんて――どうせ、わたしなんて――。
「どうしたらいいの? わたし、怖い!」
張り裂けそうな声で叫んでも、この屋敷で返事をしてくれる人は誰もいない。
わたしはその場に力なく崩れ落ち、冷たい床を濡らすほど声を上げて泣いた。幸せの絶頂にいたはずなのに、一人になった瞬間に襲ってきた孤独の毒が、わたしの心を修復不能なほどにかき乱していく。
幸せが鮮やかであればあるほど、その裏側に広がる暗い影は濃く、深くなっていく。
「ウラカン様……今、何を考えていらっしゃるの? わたしがいないところで、もっと相応しい誰かのことを思い出したりしていない?」
誰もいない廊下で膝を抱え、わたしは自問自答を繰り返す。かつて王宮の片隅で灰にまみれていた頃は、最初から何も期待していなかったから、これほど心が引き裂かれることはなかった。
けれど今は、彼の温もりを知ってしまった。額に落ちたあの口づけの熱と、優しい眼差しが、自分以外の誰かに向けられる可能性を想像するだけで、内臓を素手で掴み取られるような激痛が走るのだ。
「わたしなんて、たまたま運良くここにいただけの、身寄りのない女なのに……」
もし、弱った彼に美しい貴族令嬢たちが寄り添っていたら。もし、彼が冷静さを取り戻した時、「やはりあんな卑しい娘に誓いを立てるべきではなかった」と後悔したら。
脳裏に渦巻くのは、自分を激しく否定する醜い言葉の羅列ばかりだった。わたしは「孤独」という名の檻に、自ら進んで閉じこもっていく。
「ごめんなさい、ウラカン様。わたし、やっぱりあなたを信じるのが怖いの。信じて、また裏切られるのが……耐えられないの……!」
冷たい床を掻きむしりながら、わたしは声を殺して震え続けた。この屋敷の静寂は、もはや安らぎではなく、わたしの存在を否定し続ける冷酷な断罪の音に聞こえていた。
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