【5章 辺境の風土病】◇5
◇5
わたしはシロン君と一緒にアプタ川の上流を目指し、エレメト山の険しい山道を登っていた。
遡るにつれ周囲の断崖は切り立ち、緑の深淵はその密度を増していく。昨夜の激しい雷雨が乾いた山肌を巨大な水の通り道へと変えたのだろう。見上げるほどの高さを誇る切り立った岩壁のあちこちから、まるで山そのものが涙を流しているかのように、無数の滝が白く細い糸となって噴き出していた。
「まだ雨の後で泥水も多いですが、逆にこれはチャンスです。川が増水しても花が押し流されない安全な場所、例えば岩肌の近くなどに、多分咲いているはずです」
先を行くシロン君が、足元を確かめながら力強く言った。わたしは彼ほど身軽ではないけれど、ウラカン様を救いたい一心で、必死に彼の背中を追いかける。
「無理しないでください。ボクは青白い月桂樹を見たことがありませんし、他の人も見たことがありません。聖女様には、本物かどうかだけ見ていただくだけでいいんです」
「そうね。沢に降りて滑落して、シロン君の迷惑をかけるといけないから……。遠目でも分かるといいんだけど」
わたしはそう言って、リュックから小さな望遠鏡を取り出した。それはかつてウラカン様と一緒に流星群を見た時に借りたままになっていた、大切な思い出の品だ。
望遠鏡のレンズを覗き込み、山肌を慎重に走らせる。
視界の中では、あるものは天から降り注ぐ巨大な柱のように轟音を立て、あるものは幾重にも重なる岩肌を撫でるように滑り落ち、細かな霧となって谷底を白く染めている。水飛沫は冷たい風と共に舞い上がり、わたしの頬を濡らした。
どこを見渡しても、滝、滝、滝。
耳を塞ぎたくなるような凄まじい音圧の中でも、わたしの目は、その水飛沫の向こう側にあるはずの「青白い光」を必死に追い求めていた。
「待っていてください、ウラカン様……!」
岩肌の隙間から、まるで血管が破裂したかのように噴き出す水。大自然の生み出す光景に圧倒されそうになりながらも、わたしは望遠鏡を握る手に力を込めた。
ガサガサ……。
不意に草陰が揺れ、角が生えた黒いウサギがその赤い目をぎらつかせて姿を現した。「キィー!」と甲高い声を上げ、小さな体からは想像もつかないほど鋭い牙を剥き出しにしている。
「鈴を鳴らしてください! 雨で寝床を奪われて気が立っている魔獣です。ホーンラビットは農作物を荒らす害獣ですが、鈴の音を嫌って逃げていきますから!」
「分かったわ! こっちに来ないで!」
わたしは腰につけていた鈴を必死に、シャン、シャンと鳴らした。その澄んだ音が渓谷の轟音に混じると、魔獣は耳を震わせ、捨て台詞のような鳴き声を残して深い藪の奥へと逃げ去っていった。
「すぐに鈴を鳴らして良かったです。噛みつかれていたら大怪我でしたから」
「そんなに危険なの、あのウサギ……」
安堵で膝の力が抜け、少し休もうと近くの岩に腰を下ろそうとした、その時だった。
岩の裂け目、飛沫に濡れる湿った影の中に、見覚えのある色彩が静かに呼吸していた。
「シロン君、あったわ……! 見て、これよ!」
「これですか……! 本当だ! 本当に、青白く光っている」
それは、激しい濁流のすぐ側で、汚れひとつ知らぬように咲き誇る青白い月桂樹だった。
(……ああ、覚えているわ。これと同じ光を)
かつて、王宮の片隅や王都の川辺で、誰にも見向きされずにひっそりと咲いていた不思議な花。
どれほど季節が移ろい、周囲の草木が枯れ果てても、その花だけは決して色褪せることなく、淡い光を放ち続けていた。
灰にまみれて掃除をしていた孤独な日々、わたしの心を唯一慰めてくれた、あの「枯れない花」。
今、目の前にあるこの花も、荒れ狂う泥水や吹き荒れる嵐にさらされながら、少しの淀みもなく気高く咲いている。
かつて、孤独だったわたしを照らしたあの光が、今はウラカン様の命を繋ぐ希望の灯火として、再びわたしの前に現れてくれたのだ。
それは、何よりの希望だった。
わたしたちは泥まみれになりながらも、その花を抱えて無我夢中で山を下り、ウラカン様が待つ教会へと急いだ。
そして、アプタ教会――。
教会の奥、隔離された病室で横たわるウラカン様は、以前よりもずっと顔色が悪く、呼吸も浅くなっていた。わたしはシロン君が見つけてくれた古文書の写しを広げ、震える声でその一節を唱え始める。
「……『再び蘇って。その命が続く限り』」
その瞬間、わたしの手の中で月桂樹がふわりと白く輝き始めた。
「……『我が身を尽くして、その言葉を誓います』」
さらに誓いを重ねると、光は部屋中を満たすほどに強まり、花びらは形を失って一滴の青白い液体へと凝縮されていった。
「……『バレンシアに眠る青き花のために、眠りから目覚めよ』!」
崩れ落ちるように液状化した花の精髄を、わたしは慌てて小瓶ですくい取った。
駆けつけたエリーゼの手を借りて、祈るような心地でその雫をウラカン様の唇に流し込む。
「……っ、かはっ……!」
一瞬、ウラカン様が激しく咳き込み、ゆっくりと、本当にゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳が、ぼやけた視界の中でわたしを捉える。
「カリナ……すまない……俺は……」
掠れた声でそれだけを告げると、彼は再び深い眠りへと落ちていった。けれど、その頬には微かに赤みが差し、苦しげだった眉間の皺は消えていた。
「熱が下がり始めている……。信じられない、奇跡だわ! シロン、この薬を他の感染者たちにも分けてあげて!」
「分かりました! ボクはすぐに準備します!」
エリーゼとシロン君の喜びに満ちた声が響く中、わたしは力尽きたようにウラカン様のベッドの脇に座り込んだ。
「お願い、ウラカン様……助かって……本当に、助かって……」
彼の大きな手を握りしめ、わたしは声を上げて泣いた。
バレンシアに降り注ぐ雨の音が、今だけは祝福の声のように聞こえていた。
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