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令嬢ではない侍女ですが婚約破棄相手に溺愛されました(連載版)  作者: 灰月 琥珀
【5章 辺境の風土病】

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【5章 辺境の風土病】◇4

    ◇4


 ザーーー……。

 絶え間なく降り続く雨の音と、時折地響きのように轟く雷鳴の中で、わたしは目を覚ました。


 そこは、公会堂に急遽(きゅうきょ)用意された「バレンシア風土病の緊急避難所」だった。

 ウラカン様の屋敷は、徹底した消毒が完了するまで完全に閉鎖されることになっている。けれど、その消毒作業は晴れた日にしか行えない。雷雨に見舞われた今日、わたしには帰る場所も、寝泊まりする場所もなかった。


 感染源は、元子爵令嬢のクラリスだとエリーゼから伝えられた。彼女もまた、教会に担ぎ込まれて、生死を彷徨(さまよ)っているらしい。


 風土病に感染していないか教会の医師による厳しい診断を受け、消毒のための洗浄を終えた後、わたしはそのままこの公会堂へと連れてこられ、一晩を明かしたのだ。


 ふと隣を見ると、シロン君が難解そうな本を一冊片手に持ったまま、座った姿勢でうつらうつらと舟を()いでいた。

 昨夜、取り乱して泣き叫んでいたわたしのことを心配して、彼はここまで付き添ってくれたのだ。


「……ありがとう、シロン君」


 わたしは自分の肩にかかっていた予備の毛布をそっと手に取り、彼の細い肩にかけた。

 冷たい雨の音だけが響く避難所で、隣に誰かがいてくれることの心強さが、今のわたしの唯一の救いだった。


「聖女カリナ様も、まだ寝てください。ボクも寝ますから……」


 シロン君がまどろみながら、消え入りそうな小声で呟いた。わたしはその言葉に小さく頷き、再び硬い床の上に体を横たえて、そっと目を閉じた。


 まぶたの裏に浮かぶのは、最後に見たウラカン様の苦しそうな顔ばかりだった。

 暗い公会堂の天井を見上げていると、堪えていた涙が今にもこぼれそうになる。けれど、必死に自分を支えてくれているシロン君をこれ以上心配させたくなくて、わたしは溢れ出す熱い涙を必死にこらえた。


 激しい雷鳴が遠ざかるのを祈りながら、わたしは奥歯を噛み締め、震える体で深い闇の中へと沈んでいった。


 夢の中で、わたしは船の上にいた。

 見上げる星空には流星群が降り注ぎ、幾つもの花火が鮮やかに打ち上がっている。

 ヒュルルルル……ドォン……。ヒュルルルル……ドォン……。


 甲板から海面を見下ろすと、イルカの群れが跳ねながら歓声を上げ、その後ろでは大きなクジラが背びれを立てて豪快な水飛沫(みずしぶき)を散らしていた。


「わあ、イルカとクジラ! また会えたのね。ねえ、見て、ウラカン様! ……ウラカン様?」


 弾んだ声を上げて隣を振り返るが、そこに彼の姿はない。広い船の上には、わたしたち以外の誰もいなかった。


 気が付くと、わたしは雪の中で裸足のまま歩いていた。寒さで膝から崩れ落ちる。あまりの冷たさに感覚が麻痺していく。


「おい女、逃げるなよ。今から可愛がってやるからな」

「やだっ、お願い、もうやめてっ!」


 橋の上でわたしを襲ったあの男が、なぜここにいるのだろう。馬車に石を投げた罪で地下牢(ちかろう)に入ったはずなのに。


「魔女め! 地獄に落ちろ! この服でも着ていろ!」


 今度は父の声が響き、ぼろぼろに穴の開いた黒いワンピースを投げつけてきた。それはわたしの体に当たった瞬間に冷たい水へと変わり、バシャリと全身に降りかかる。


 痛い……寒い……怖い……。

 わたし、もう助からない……。


「……起きてください! 聖女カリナ様、起きてください!」


 シロン君の必死な呼びかけで、わたしははっと目を覚ました。

 恐ろしい悪夢にうなされていたらしく、背中まで汗でびっしょりになっていた。


「大丈夫ですか、聖女カリナ様! 顔が真っ青ですよ。このタオルを使ってください」

「あ……ごめんね、シロン君……」


 渡された冷たいタオルで顔を拭うと、少しだけ肌の熱が引いていく。


「うめき声があまりに凄かったので、心配しました」

「うん……ちょっと変な夢を見ていたの。ウラカン様が心配で……」

「それですよ! ウラカン様のことで、僕、手がかりを見つたんです。治療法の!」

「えっ!? バレンシア風土病の、治療法の手がかりを!?」


 わたしは飛び起きるようにしてシロン君に詰め寄った。


 まぶたの裏にこびりついていた悪夢が、シロン君の力強い言葉によって塗り替えられていく。「バレンシア風土病の治療法」という、今のわたしにとって何よりも欲していた希望の光に、心臓が大きく跳ね上がった。


「シロン君、それって本当なの……!?」

「はい! 公会堂の隅に、偶然、古代語で書かれたボロボロの書物があったんです。それを丁寧に読み進めると、ページの欠落が激しいのですが、『バレンシア風土病……青白い月桂樹(げっけいじゅ)……有効……滝の下に咲く』という部分がかろうじて読み取れました」


 シロン君は手慣れた手つきで、避難所にあった地図をガサリと広げた。彼は地図の上に指を置き、慣れた手つきで図面をなぞりながら説明を続ける。


「いいですか、バレンシアに川は四つありますが、滝があるほどの渓谷に繋がっている川は、このアプタ川しかないんです」

「シロン君、詳しいのね」

「ボクは山登りが趣味だから、この辺りの地形はよく知ってるんです。たぶん、このアプタ川の上流を辿(たど)れば、青白い月桂樹(げっけいじゅ)の群生地があるはずです!」

「青白い月桂樹(げっけいじゅ)……わたし、王宮の温室や王都の川辺で見たことがあるわ。ずっと枯れない、不思議な色をした花だった」

「それです! 伝説の青い花、きっと水辺に咲く性質の花なんです!」


 地図を辿(たど)る彼の横顔は、いつになく真剣で力強い。


(……シロン君、こんなにたくましい子だったのね。わたしを元気づけるためだけじゃなく、自分にできることを必死に探してくれていたんだわ)


 いつもは可愛い弟のように思っていた彼の、一人の男性としての頼もしさが心に沁みた。


「滝の下に咲く、青い花……」


 わたしは、地図の先にあるであろう険しい渓谷に思いを()せた。

 バレンシアの過酷な自然、そして未知の風土病。けれど、今は恐怖よりも、熱い決意が胸を支配している。


(待っていてください、ウラカン様。わたし、必ずその花を見つけて戻ってきます!)


 胸が高鳴り、体が熱くなるのを感じた。

 ウラカン様がわたしを絶望から救い出してくれたように、今度はわたしが、彼を死の淵から引き戻す番なのだ。

 言葉にすればするほど、自分の中に眠っていた「聖女」としての、あるいは一人の女性としての強さが目覚めていくのが分かった。


「シロン君、行きましょう。何としても花を見つけるわよ! 手伝って!」


 わたしの言葉に応えるように、シロン君が力強い足取りで駆け寄ってきた。

 その腕には、避難所の備品からかき集めてきたであろう登山用のグローブや頑丈なロープ、そして二本分の水筒が抱えられている。


「はい、ボク頑張ります! これを使ってください」


 彼は手際よく、厚手のリュックをわたしの前に差し出した。中には最低限の食料と、山歩きに必要な道具が詰め込まれている。

 わたしはそのリュックを背負い、ずっしりとした重みを肩に感じた。それは、ウラカン様の命を救うという責任の重さそのものだった。


 滑り止めのついたグローブをはめ、指先を強く握りしめる。

 昨日までの、守られるだけの非力な自分はもういない。


「行きましょう。アプタ川の上流へ!」


 わたしはシロン君と共に、雨上がりの湿った空気を切り裂くようにして、公会堂を飛び出した。

 ウラカン様が待っている。その一心で、わたしの足はかつてないほど力強く地を蹴った。



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