【4章 辺境の日々】◇3
◇3
パカポコ、パカポコ……心地よい蹄の音に揺られながら、わたしたちを乗せた乗合馬車はアプタ村の公会堂と、それに併設されたアプタ教会へと向かっていた。
「そういえば、後から来るってウラカン様は言っていたけれど、やっぱり乗合馬車なの?」
わたしが問うと、「まさか!」とエリーゼが笑い飛ばした。
「あの方は早馬に決まっています。そして、恐らく帰りは夜風を浴びながら飛龍を飛ばすおつもりですね」
「ああ、そっか。彼らは夜行性だから、明るいうちはお休みですね」
窓の外には、黄金色に輝く田園風景が広がっていた。強い日差しの下、腰を屈めて稲を植える農夫たちの姿が見える。
「ええ、バレンシアの日差しはご覧のように厳しいですから。この紫外線に無防備でいれば、わたしたちもあっという間に真っ黒に日焼けしてしまいます」
「南国の植物が綺麗な辺境……なんて、のんびりしたイメージを持っていたけれど、大変なこともあるのね」
「外を歩く時は、長袖とフード、あるいは帽子が必須ですよ」
「そうね、強過ぎる日差しには気を付けないと|危険ね」
穏やかな時間の流れる畦道を、水牛を引いてゆっくりと歩く農夫の姿が通り過ぎていく。
「ええ。この日差しで、植物の成長が早すぎて手に負えない……いわば『緑の海』という問題です」
「緑の海……? そっか、雑草や蔦がすぐに生い茂ってしまうのね」
道沿いには、太い蔓草に飲み込まれて今にも崩れそうな古い納屋が見える。バレンシアの豊かすぎる自然の勢いの前では、人の造った物は何であれ力なく屈してしまうらしい。
「はい。こればかりは、どんな奇跡も魔法も国庫も、どれだけ費やしたところでどうにもなりません。刈っても刈っても、すぐに次の新芽が吹き出します」
「……何か、わたしにできることはあるのかな」
パカポコ、パカポコ……揺れる馬車の外で、のどかな田園風景の中に、活気あふれる建設現場が見えた。
数人の農夫たちが、新しく頑丈そうな納屋を建てている真っ最中だった。
「まずは村長と話し合ってからですが、この地域の悪しき伝統……『古代語』という名の呪縛を断ち切ることです」
「悪しき伝統? 古代語は、誰も読めないの?」
その時、一人の花売りの少女が馬車に駆け寄ってきた。エリーゼが窓から手を伸ばし、鮮やかな花を受け取っておざなりに数枚の小銭を渡した。
「この地域で、今、古代語の読み書きや会話ができるのは、恐らくウラカン様とカリナ様……そしてお二人には及びませんが、上級シスターの私くらいです。古代語は失われた言語です」
さらに別の少年が、萎れかけた花を必死に差し出してきた。わたしは胸が締め付けられる思いで、手持ちの小銭をすべて手渡した。
「そっか。王宮でも、ウラカン様以外は誰も分からなかったわ」
「教会でも分かるのは一部の者だけです。他は意味も分からず呪文のように暗唱しているだけですよ」
会話を続けるエリーゼの横顔はどこまでも淡々としていた。けれど、窓の外にはさらに大勢の、泥にまみれた裸足の子供たちが、色とりどりの花を抱えて波のように集まってくる。
……かつての、雪の中を裸足で歩いた自分と、彼らの姿が重なって見えた。
(この子たち、どうやって暮らしているんだろう。今日、この花が売れなかったら、夜ご飯も食べられないんじゃないかしら……)
わたしは、もう見ていられなかった。王宮での豪華な食事や、ウラカン様の屋敷での至福のひとときが、急にひどく後ろめたいものに感じられて、呼吸が苦しくなる。
「待って! わたし、もう見てられないわ!」
わたしは叫ぶように言うと、御者が止めるのも聞かず、馬車を飛び降りた。
戸惑う子供たちに囲まれながら、わたしは荷物の中から大切に取っておいたお菓子を、一人一人に手渡し始める。
「さあ、これ。みんなで分けて食べて。……ごめんなさい、これくらいしかできなくて」
震える手でお菓子を配るわたしの背後で、エリーゼが「あっ!カリナ様!」と小さく声を上げた。
彼女はすぐさま状況を察したのか、わたしの行動を止める代わりに、手元にあった小銭を道に向かって「ザーッ」と、まるで砂利でも捨てるような仕草で大量にばらまいた。
歓声を上げて子供たちが小銭に群がり、奪い合いを始める。その隙にエリーゼがわたしの腕を強く掴んだ。
「カリナ様、馬車に戻ってください。情けをかけるのは結構ですが、今は目立ちすぎます! ここでいくらお菓子を配っても、明日や明後日の暮らしをどうするかという根本的な解決にはなりません! どうか分かってください!」
彼女に半ば引きずられるようにして、わたしは再び馬車へと押し込められた。
「では、出発しますよ!」
子供たちに手を振りながら、再び馬車へと二人で戻る。
「子供たちのこと、ありがとうございます!」
御者の威勢のよい掛け声で馬車が進み始めると、小銭を拾い集めた子供たちが、飛び跳ねたり転んだりしながら手を振って見送ってくれた。
(あんなふうに、お金をばらまかなきゃいけないなんて……。わたし、聖女だなんて呼ばれているのに、何も解決できていない……)
お菓子を配り終えた自分の手のひらを見つめる。空っぽの両手が、今のわたしの無力さを象徴しているようで、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
「ふう……あの子達は、教会から何とかしますから気にしないでください。ところで、聖女様はどうやって古代語を? 独学では限界があるでしょう?」
何事もなかったかのように質問を再開するエリーゼの冷徹さが、今のわたしには少しだけ怖かった。彼女はきっと、これがこの地の「普通」なのだと知っているのだろう。
けれど、わたしは――この胸の痛みだけは、忘れてはいけない気がしていた。
でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。会話に集中することにした。
「えっと……わたしの母方の祖母が考古学者だったの。五歳くらいまで預けられていたから、お祖母様から発音の基礎までしっかり叩き込まれたわ」
「なるほど、あの大戦を駆け抜けた『賢女スカイフォール』の家系の方だったのですね。カリナ様が聡明な方なのも納得です」
窓の外には、真っ赤なハイビスカスが咲き誇り、色鮮やかな植物の生け垣が連なる家並みが見えてくる。
「いえ、もうお祖母様は亡くなってしまったし、聖女の今は、その素性は秘密よ」
「おっと、その通りです。これは失礼。あなたも、今の話は何も聞かなかったことにしてください」
エリーゼが茶目っ気たっぷりに御者へ銀貨を手渡した。
「大丈夫ですよ! いつもは追い払うことしかできない子供たちにまで恵みをくださるなんて、あんたたちは二人とも本物の心優しい聖女様だ」
「えっ、わたしは聖女ではありません。ただのシスターです」
戸惑うエリーゼの横で、わたしは思わず微笑んでしまった。
(いいえ、エリーゼ、わたしが間違って神殿に召喚されたとき、傷だらけのわたしに治癒魔法をかけて世話をしてくれた。あなたは確かにわたしにとっての本物の聖女様よ)
わたしはニコニコしながら二人のやり取りを見守る。
「いやいや、お二人とも、本当にお優しい方たちだ。このバレンシアのことを想ってくださって、どちらも本物の聖女様ですよ!」
「いえ、だから、私はシスターで――」
「いえいえ、お二人ともが聖女様でいいんですよ!……さあ、まもなくアプタ村公会堂前ー、公会堂前ー。お降りの方はご準備をー!」
馬車が大きく角を曲がった瞬間、わたしの視界に信じられないような光景が飛び込んできた。
そこには、巨大な椰子の葉を幾重にも重ねて屋根にした、壮麗な高床式の木造建築――『アプタ公会堂』がそびえ立っていた。バレンシアの風を逃がすように作られたその威容は、まるで大地から生え出した巨木のようだった。
そしてその隣、切り立った石山に力強く穴を掘っていき、洞窟そのものを神殿に変えた『アプタ教会』が、静寂と共に鎮座していた。
剥き出しの岩肌に彫られた教会を意味する精緻な紋章が、朝の光を浴びて荘厳に輝いている。
教会の影にある巨大な飛龍の専用厩舎では、数頭の飛龍がとぐろを巻いて静かに眠りに就いていた。
その周囲には、王都から届いたばかりのような豪華な馬車がいくつも並び、反対側の普通の厩舎からは馬たちの穏やかな嘶きが聞こえてきた。
近くの井戸では、大きな水甕を抱えた婦人たちが、賑やかに笑い声を上げながらお喋りに花を咲かせていた。
「お二人の聖女様、さあ到着しましたよ」
「……ふう、では行きましょう、聖女カリナ様」
「ええ、行きましょう、聖女エリーゼ様。ふふっ」
「――っ!!」
御者の誇らしげな声に導かれ、わたしはエリーゼに手を引かれながら、未知なる「王国最大の村」アプタ村での、確かな一歩を踏み出した。
「私はこのままアプタ教会へ向かいます。お昼もそこで頂く予定ですので、じきに到着されるウラカン様と、昼食はお二人で召し上がってください」
エリーゼがテキパキと午後の予定を伝えてくれる。その気遣いが、今はとても心地よかった。
「ありがとう、エリーゼ。……道中のことも感謝しているわ。花売りの子供たちへの接し方も、わたし一人だったらきっと戸惑うばかりで、どうすればいいか分からなかったと思うから」
わたしの言葉に、エリーゼは少しだけ驚いたように目を見開いたあと、シスターらしい穏やかな微笑みを浮かべて小さく会釈した。
(それにしても、本当に強い日差しだわ。お昼の間は建物の影にいないと、熱気で倒れてしまうかもしれないわね)
見上げれば、吸い込まれそうなほどに深く、雲ひとつない真っ青な空がどこまでも広がっている。足元に敷き詰められた白い石畳は、容赦なく降り注ぐ太陽の光を跳ね返し、まるでそれ自体が発光しているかのように眩しく輝いていた。
そうしてわたしたちは、それぞれの役割を果たすべく、鮮烈な光と影が交錯する別々の建物へと向かって歩き出した。
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