【3章 旅立ち】◇5
◇5
目的地であるバレンシア港が水平線の向こうに微かに見え始めた。
すると、船は急に速度を落として停止してしまった。
「えっ、港は目の前なのに、どうして?」
わたしが戸惑いながら問いかけると、ティーゼル船長とウラカン様が顔を見合わせ、悪戯っぽく笑いながら双眼鏡を置いた。
「最後のサプライズさ。バレンシア港は小さな漁港だし、引き潮だからね」
「あの港の喫水では、エルグランド号が接岸できる深さがないのですよ、カリナ殿」
すると、あらかじめ手配されていたのだろう、潮風に晒されて今にも壊れそうな一艘のボロ小舟が、よたよたと頼りなく波に揺られながら近づいてきた。
そして、眩しいほど白いエルグランド号の舷側に、場違いな様子で横付けされる。見た感じ、今にも海の藻屑になりそうなぐらい、ボロボロだ。
「えっ、もしかして……あの船に乗り換えるのですか?」
あまりの落差に絶句するわたしを、ウラカン様が優しくなだめる。
「大丈夫、沈んだりしないよ。見た目だけだから。さあ、乗り換えよう」
「カリナ殿、あれは塗装で古く見せてあるだけです! あの小舟『プチ・エルグランド号』は当艦同様、中身は新品の最新鋭ですから。どうかご安心を!」
ティーゼル船長が胸を張って補足する。
「その通り。バレンシアには、この小さな船で波に揺られ、命からがら辿り着いた――ということにしておけば、苦労話がお好きな女王様もお喜びだろう?」
ウラカン様は、まるで悪戯を成功させた子供のような顔で、不敵にニヤリと笑った。
「「もう! またそんなウソをつくんですか!」」
わたしとエリーゼの声が見事に重なった。けれどウラカン様は、「これは旅を知らない素人の女王陛下を信じ込ませるための、極めて合理的なウソだよ」と楽しそうに笑い飛ばす。
「旦那様のおっしゃる通りです! 本当の船旅は大型船でなければ命に関わります。海の厳しさを知らぬ貴族や王族の方々は、そんな常識すら分からんのです!」
「まあ、教会としても、わざわざ不必要な危険を冒してまで報われない努力を行うことには賛成できません。行きましょう、カリナ様」
ティーゼル船長は声を張り上げて雄弁にウラカン様を擁護し、エリーゼまでもが「効率的だ」と言わんばかりに開き直っている。
……どうやら、この場にいない誰かの顔色を窺って、勝手に罪悪感を抱いているのはわたしだけのようだった。
(もしかして、わたし……誰もそんなことを強いていないのに、必要以上に真面目であろうとして、自分を追い込んで苦しくさせていたのかしら?)
この「安全なボロ船」に込められた意味を反芻してみる。
ウラカン様が用意したこのウソは、決して誰かを傷つけるための悪意ではない。むしろ、無意味な苦行からわたしを遠ざけようとする、彼なりの不器用で型破りな「慈愛」の形なのだ。
そう気づいた瞬間、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
ウラカン様は、まだ考え込んでいたわたしを羽毛のように軽々と抱え上げると、戸惑う隙も与えず、そのまま小舟の真ん中へと優しく降ろした。
本当は新品で頑丈な造りであるはずなのに、わざとらしくギシギシと頼りない音を立てる「ウソの小舟」で港に到着すると、そこには日焼けした顔の村長がニヤニヤしながらわたしたちを待っていた。
「ほう。こんな今にも沈みそうな小舟で、バレンシア沖から来訪されるとは。過酷な船旅で、聖女様も騎士様も、さぞかしお疲れでしょうなあ?」
皮肉たっぷりの村長の言葉に、ウラカン様は顔色一つ変えずに答える。
「ああ、海が荒れすぎていて、途中から何も覚えていないのだ。……これでも飲んで、君も忘れてくれないか」
そう言ってウラカン様が差し出したのは、エルグランド号に積まれていた最高級のシャンパン『海の雫』とグラスだった。
ニヤニヤしながら村長がそれを受け取ると、もじゃ髭をさすりながら、ガハハと大笑いしている。
「なるほど、何も覚えておられない! それは災難でしたなあ! 忘れちまうのが一番だ! ……ところで、あの船はどうされますか?」
「きっと、今にも沈みそうだから、もし直すことができたら、せめて漁村の皆で自由に使ってくれ。商人に売れば、相当な金になると思うよ」
ウラカン様のあまりに太っ腹なプレゼントに、村長はもう一度、お腹を抱えてガハハと上機嫌に笑い声を上げた。
その突き抜けた明るさに、先ほどまでハラハラしていたわたしもエリーゼも、思わず顔を見合わせてつられて笑ってしまった。
その後もウラカン様と村長さんが大人のやり取りをしていたので、笑いながら眺めていると、突如、空を裂くような巨大な羽音が頭上から降り注いだ。
見上げれば、夕闇の空から三頭の飛龍が、その翼を大きく広げて港の石畳へと降り立つところだった。
「ひゃっ……!?」
わたしは思わず腰を抜かしそうになり、近くにいたウラカン様の腕にしがみついた。
「日も暮れてきた。夜道の徒歩は危ない。ここからは、この飛龍に乗って屋敷まで向かうよ」
「え、ええ!?」
「高いところは平気かい、カリナ?」
「い、いえ……苦手です……無理です……!」
涙目で首を振るわたしに、ウラカン様はこれ以上なく優しい顔をして、わたしの腰をグイと引き寄せた。
「じゃあ、二人で乗ろう。俺たちの荷物は別の飛龍に任せればいい。落ちないよう、俺がしっかり支えてあげるから」
有無を言わさぬ温かい抱擁に包まれ、わたしはドキドキしながら、ウラカン様と共にワイバーンの背へと跨った。
「……あの、私も高いところが苦手なのですが。というか、そもそも生き物に乗って空を飛ぶなんて聞いていません」
声の方を見ると、エリーゼが不満そうに膨れっ面をしながら、別の飛龍の前で固まっていた。
ウラカン様は、申し訳なさそうに、けれど頼もしく彼女に声をかける。
「すまない、エリーゼ。君の乗る飛龍は、この群れの中でも一番のベテランを選んである。羽ばたきも穏やかだし、何より君の安全を最優先するように言い含めてあるから」
「エリーゼ、わたしも怖いけれど、屋敷に着いたら一番に、甘いお菓子とお茶を用意してもらうようにお願いするわ。だから、一緒に頑張りましょう?」
わたしの言葉に、エリーゼは「甘いお菓子……約束ですよ?」と少しだけ表情を緩めた。
「分かりました。……ティータイムのためなら、ちょっと頑張りましょう。今回だけですからね? 次は嫌ですよ?」
エリーゼが覚悟を決めて飛龍に跨がって首にしがみつく。エリーゼの飛龍は、後ろを振り向いて、エリーゼがしっかりしがみついたのを確認してから「クワー」と優しい咆哮を上げる。
「エリーゼ、じゃあ飛ぶぞ、大丈夫か?」
「エリーゼ、一緒に頑張りましょう!」
「はい、怖いですけど、頑張ります!」
どうやら、エリーゼも大丈夫そうだ。
ウラカン様が、口笛を吹いた。
バサバサッ……!
凄まじい風を巻き起こして三匹の飛龍が一斉に舞い上がる。
わたしの視界は一瞬で大きく揺れ動く。
「わぁ……っ!」
怖くて思わず目を閉じていたけれど、ウラカン様の腕の温もりを信じて薄目を開けると、そこには絶景が広がっていた。
眼下には夕暮れに染まる過酷な地バレンシア。
そして隣には、夕日に羽を輝かせながら編隊を組んで飛ぶ渡り鳥の群れが、わたしたちを祝福するように並走している。
視線を外洋へと向けると、漆黒の闇に沈みつつある海の上で、一際白く輝くエルグランド号が、船尾から一発の花火を打ち上げた。ヒュルルル……。
ドォーン、と音を立てて夜空に咲いたのは、わたしの髪と同じ、白銀色の美しい大輪の花火だった。
ドォーン、バチバチ!ヒュルルル……花火が次々に打ち上げられていく。
それは、王宮での偽りの日々や、雪の中を裸足で歩いたあの最悪の夜との、完全な決別の合図。
(王宮の侍女時代もウソまみれだったけど、何の救いもない悲しいウソしかなかった。ウラカン様のウソは、わたしを楽しませてくれる楽しいものばかりね)
ウラカン様の腕の中で、わたしは初めて、これから始まる新しい人生の鼓動を、力強く感じていた。
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