【3章 旅立ち】◇4
◇4
内港を抜けて運河が広がりを見せると、エルグランド号は、さらに速度を上げた。
白銀の船体は驚くほど揺れず、まるで鏡のような水面を鋭く切り裂いて進んでいく。
わたしが名残惜しそうに遠くなったウィンターガルド運河の出口を眺めていると、ウラカン様が船の反対側でわたしを手招きする。
「カリナ、こっちに来てごらん。珍しい客人が挨拶に来ているよ」
「えっ?」
ウラカン様の方にわたしは駆け寄った。
「わぁ……! イルカの群れ!」
真っ白な波飛沫を上げる船首のすぐ側で、数十頭ものイルカたちが競い合うように跳ね、エルグランド号と並走している。
太陽の光を反射しながら、濡れた背中がキラキラと輝き、彼らが上げる歓喜の声で思わずわたしは笑みが浮かぶ。
「……すごい。こんなに間近で見られるなんて。図鑑で見たことはありましたが、本物を見るのは初めてです!!」
「この船は静かに進むから、あまり海の生き物も驚かないんだよ。だからイルカたちも、エルグランド号を大きな仲間だと思って遊びに来るのさ」
事もなげに語るウラカン様。
でも、野生のイルカたちがこれほど親密に寄り添うのは、普通はあり得ないはずだ。
(これは、こっそりわたしのために、きっと船長とウラカン様で、航路を調整してくれたんだわ。なんて素晴らしいプレゼントなの!)
わたしが夢中で彼らに手を振ると、一頭の大きなイルカが空中で一回転し、まるでわたしの呼びかけに応えるように大きな歓声で鳴いた。
「わあっ! 見て、ウラカン様! 今、わたしに挨拶してくれました!」
振り返ると、そこには満足そうに目を細めるウラカン様の姿があった。
厳しい騎士の顔でも、浮世離れした富豪の顔でもない、一人の精悍な青年の顔。
そこには、わたしを愛おしそうに見つめる、穏やかな眼差しがあった。
「ああ、見ていたよ。彼らと友達になれて良かったじゃないか」
ウラカン様はそう言って、慈しむような眼差しをわたしに向けてくる。
視線の先には、太陽の反射でキラキラと輝く飛沫を上げて跳ねるイルカたちの群れ、そして深い青に染まったクロード海の向こうに霞む白亜の港町。
潮風が運ぶ自由の香りと、わたしの手に重ねられた彼の確かな温もり。
指先から伝わってくる優しい鼓動に包まれながら、わたしは「なんて楽しい船旅なんだろう」と、今、この瞬間を刻める幸せを心の底から噛み締めていた。
彼らに夢中になっていると、さらに遠くの水面が大きく盛り上がった。
ドォォォォン、と重低音の地響きのような音が響き、巨大な水柱が天高く吹き上がる。
「……っ!? ウラカン様、あれは!」
「ああ、さらに海の王様のお出ましだね。クジラだ。この海域を通る船に挨拶をしてくれるのは、よほど運が良い時だけだよ。君は運が良いね」
巨大な尾びれが海面を叩き、キラキラとした飛沫が霧のようにわたしたちの元まで降り注ぐ。太陽の光を浴びた飛沫は小さな虹を作り、甲板を彩った。
あまりのスケールの大きさに足がすくみそうになったその時、不意に背後から軽やかな音が響く。
ポンッ、と小気味良い音を立てて抜かれたのは、見事な装飾が施されたシャンパンボトルの栓だった。
「お楽しみのところ失礼いたします! 旦那様、カリナ殿! このティーゼルより、バレンシアへの門出を祝して、当艦特製シャンパン『海の雫』をどうぞ!」
いつの間にか現れたティーゼル船長が、銀のトレイに乗ったクリスタルグラスを差し出した。黄金色の液体の中で、細かな泡が星のように踊っている。
「えっ、シャンパンですか? 今日、お酒は……」
「大丈夫だよ、カリナ。今日は現地に着いても寝るだけさ。肩の力を抜いていいんだよ」
ウラカン様が先にグラスを取り、わたしに手渡してくれる。
互いのグラスをぶつけると、チリリン、と繊細で高い音が潮風に流されて、とても心地よい。
そのまま飲んでみると、濃厚な果実の甘みと、弾けるような泡の刺激がたまらなくて思わず「ぷはーーー!」と声が出てしまった。
「……美味しいですね!!こんなに華やかなシャンパン、わたし初めてです!!」
「それは良かった。バレンシアまでの短い航海だが、君にはこの海のすべてを楽しんでほしいんだ。この船旅すべてが君へのプレゼントだよ」
クジラからの噴水に虹が浮かぶ。
それを眺めながらの冷えた極上の飲み物で喉を潤す。
(海上でのシャンパンがこんなに美味しいなんて!)
クジラが跳ねて豪快に海に飛び込んだ。
その水しぶきが、空から降りかかって「きゃー!」と歓声が出てしまう。
気づけば、わたし、さっきからずっと笑いっぱなしかも知れない。
潮風がわたしの五感のすべてを特別な時間だと教えてくれている気がする。
ウラカン様も楽しそうにずっと笑っている。
(なんて最高の一時なんだろう! まさか船旅の全てがプレゼントだったなんて! 今、とっても嬉しい!)
この贅沢な時間を素直に受け取ることにした。
わたしは心の底から笑い続けた。
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