【3章 旅立ち】◇2
◇2
【カリナ視点】
翌朝、わたしカリナは天蓋のついた巨大なベッドの真ん中で目を覚ました。
わたしには、信じられない出来事や抱えきれない驚きに直面すると、つい空想の殻に閉じこもって現実逃避してしまう変な癖がある。
それが良いことであれ悪いことであれ、一晩眠ればすべては夢の中に溶け、朝には元通りの平穏な日常に戻っているのではないか――そんな淡い期待を抱かずにはいられないのだ。
王宮を追放され、野宿を繰り返しながら実家へ向かったあの三日間もそうだった。冷たい地面で木陰に身を寄せるたび、明日の朝にはいつもの侍女部屋で目が覚めるはずだと、祈るように目を閉じていたことを思い出す。
(……結局、あの日々は悪夢のまま終わらなかったけれど、今はそれ以上に信じられない現実の中にいるのよね)
ふかふかのシーツを滑り落ちるようにしてベッドを降り、ナイトキャップを外しながら天井を仰ぎ見る。
視線の先では、豪奢なシャンデリアに設えられた、大きな木の羽根がゆっくりと回転していた。
侍女頭のナターシャさんによれば、これは室内の空気を循環させ、常に清涼な心地よさを保つための異国の魔道具なのだという。
もちろん、こんなのは王宮でさえお目にかかったことがない。
ウラカン様のお屋敷はどこを見ても想像以上に豪華な美術品や魔道具が、まるで当たり前のように置いてある。
(ああ、昨日のことは……やっぱり、夢じゃなかったんだ)
回る羽根を仰いで、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。
鏡を見るまでもない。
きっと、今のわたしは、自分でも呆れるほど間抜けな顔をしているに違いない。
静寂を破ったのは、控えめながらも確かな存在感を持った三回のノック音と、扉越しに届く侍女頭の落ち着いた声だった。
「カリナ様、お目覚めでしょうか。ナターシャでございます」
「ふぇ? あ、はーい。どうぞ」
(……って、今の返事はダメすぎるわ! 「お入りなさい」って言わなきゃいけないのに!)
いけない、こんな間抜けな顔を見られたら、これから辺境の地へ向かうウソとはいえ聖女として示しがつかないわ。
わたしは弾かれたように我に返り、慌ててだらしない口元を引き締めた。
扉が音もなく左右に開くと、侍女頭を先頭に、数名の侍女たちが整然とした足取りで入室してきた。
ある者はカーテンを鮮やかに開け放ち、ある者は目覚めの香油を焚き、またある者は手際よく着替えの準備を整えていく。
(……すごい。足音ひとつ立てない完璧な所作。わたしに嫌がらせをしていた王宮の上級侍女たちに見せてあげたいくらいだわ)
王宮侍女だった頃のわたしが「いつかやってみたい」と夢見ていた、まるでお姫様のような朝の光景。それが今、かつては「仕える側」だったわたしの目の前で繰り広げられている。
「いつまで口を開けているんですか、カリナ様」
「……っ! エ、エリーゼ! いつからそこにいたの!?」
わたしは、慌てて両手で口元を隠す。
(えっ、口を閉じていたつもりだったのに!! エリーゼ、それは言わないで!)
「冗談ですよ、口は開いていませんでしたよ。フフフ」
「も、もう! エリーゼ!」
けれど、彼女がくすくすと笑いながらチリリンをベルを鳴らすと、部屋の空気が一変した。
「さて、カリナ様。いつまでも夢心地でいられては困ります。朝食を摂りながら、今後の予定を確認しますよ。……ナターシャさん、準備を」
「はい、エリーゼ様。カリナ様、そちらへお掛けください」
ナターシャさんの合図で、銀色のワゴンが運び込まれる。
湯気を立てる焼きたてのクロワッサンに、恐らく最高級のクリームチーズ。色鮮やかな季節のフルーツに、透き通ったコンソメスープ。
……それらが手際よくテーブルに並べられる横で、エリーゼは分厚い紙をバサリと広げた。
「四日後のバレンシア出発に向けて、荷詰めを進めていきます。聖女としての威厳を保つための正装も数着新調しました……聞いていますか、カリナ様?」
「あ、ええ。あの、聖女の正装って……どんなものなの?」
わたしは焼き立てのクロワッサンを一口含み、そのバターの芳醇な香りに目を丸くしながら問いかけた。
「『異世界の聖女』らしく、遠国から取り寄せた青白いシルクで縫製した特別な衣装です。仕上げに、不思議な魔力を秘めたように見える異国風の杖も手にしていただきます。ばっちり異世界人らしく決めましょう」
(……すごい。昨日まで裸足で歩いていたのが信じられないくらい、わたしの人生が猛スピードで動いているわ……)
「問題は到着してからの生活基盤ですが、ウラカン様が昨日、突貫工事で辺境伯の屋敷を建てるよう手配されました。私たちが着く頃には、真新しいお屋敷が完成しているはずですよ」
「ええっ……でも、わたし、こんな豪華で贅沢な暮らし、なんだか落ち着かないわ」
フォークを持ったまま固まるわたしに、エリーゼは待ってましたとばかりに一枚の図面を取り出した。そこには、白亜の石造りではあるものの、正方形をしたシンプルで小ぢんまりとした建物が描かれていた。
「ええ、わたしも同じことを指摘しました。するとウラカン様は即座に計画を変更され、一般的な領主が住まう程度の慎ましい屋敷にすると……ナターシャさん、ジャムはそちらを。カリナ様はベリー系がお好みですから」
エリーゼはわたしの好みを指示しながら、淀みなく旅の準備を進めていく。
美味しい朝食の香りと、現実離れした報告の数々が、わたしの頭の中で目まぐるしく交差していく。
「昨日は他所のお屋敷を犬小屋って笑っていたウラカン様が、そんな普通の建物で満足できるのかしら?」
「辺境のバレンシアは荒廃し、今は小さな村がポツンといくつかあるだけです。そこに不釣り合いな宮殿を建てるほど、あの方も無謀ではありませんよ。……あの方は、周囲を納得させるための『嘘』を仕込むのが、本当にお得意ですから」
「わざとそれらしい建物にして、周囲を欺くのね。……もう、ウラカン様ってば、嘘ついてばっかりじゃない!」
エリーゼはパンをもぐもぐ食べながら、大きく頷いた。
時間があるようで少ない。いつまでも夢心地ではいられないのだ。
バレンシアには遊びで行くのではない。たとえ偽物からのスタートでも、聖女として自分にできることを、わたしだって見つけたい。
そう考えていると、コーヒーをすすっていたエリーゼが続きを説明し始めた。
「それから、このお屋敷にいる侍女や執事もお連れにならず、私とウラカン様とカリナ様だけです。仕事が少ない地域だから、少しでも地域のためにと」
「そうか、メイドを現地の方に頼めばお給金で生活できる人が増えるものね」
「不自然なお金のバラマキは汚職や依存を引き起こすので、あくまで実力があり、現地の方々が自立して生活できるよう手に職をつけさせたいと言われていました」
わたしはコンソメスープを一口すすり、その温かさにホッとしながら答えた。
わたしはウラカン様の相変わらずの手際の良さと、それについていけるエリーゼに感心する。さすが上級シスターだ。
「ウラカン様はきちんとバレンシアの方たちのことを考えているのね」
「ええ、同情や施しでうまくいくほど辺境の地は甘くありません。ウラカン様が下手に財力だけで解決すれば、国の面子が潰れてしまいますから」
「女王陛下の顔も立てないといけないのが、一番の障壁かもしれないわね……」
わたしはベリーのジャムをたっぷりと塗ったスコーンを口に運びながら、遠いバレンシアの地に思いを馳せた。
どんな場所なのか、不安はある。
でも、ウラカン様とエリーゼが一緒ならきっと何とかなりそうな、そんな気がした。
「ああ、そう言えば。ウラカン様から伝言があります」
「え? 伝言?」
「昨日は少しやりすぎたと反省しているようです。今後はあのような派手な振る舞いは控える、とのことでしたよ」
「ええー!? いやいや、ちょっと待って! そう言っているそばから、この朝食のどこが “派手じゃない” っていうのよ!」
わたしが身を乗り出して、目の前の豪華なテーブルの品々に指をさした。
真面目な顔をしていたエリーゼも、たまらなかったようで吹き出して笑ってくれた。
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