第四話
ティリアがソンツェの邸で寝起きするようになってから、五日が過ぎた。
今日は朝から左脚が痛んだし、雲が多かったからそんな気はしていたけれど、案の定、午後からは空がどんどん暗くなり雨が降り出した。
左脚は普段から痛むわけではない。天気が悪い日や、寒い日になると、その存在を主張するように痛み出す。そのうえ、痛まずともティリアの体重を上手に支えられないから、庇って歩くしかないのだ。
怪我をしてから何年か後に診てくれた医師は、骨がずれてくっついてしまったのだろう、こういうのは直後でないとね、とため息をついていたけれど、時間を戻せるはずもない。
今でこそ、父親の商売は軌道に乗っているが、あの頃はそうではなかった。つまりは、当時あれ以上の治療を望める病院に行くだけの金が、家になかった。
幼い子供ならまだしも、ティリアはその時リリアンの記憶を取り戻していたから、大人の事情もよく理解できた。
吸血鬼狩猟者として暮らしていた頃ならばいざ知らず、商人の娘が多少足を引きずって歩いたところで、誰に迷惑がかかることもない。
なにより、十一年しか生きていなかった子供にとって、リリアンの記憶はあまりに鮮烈すぎて、そんなことを気に掛ける余地もなかった。
誰より大切だった人のことを思い出せたのだから、左脚が二度と動かなくたって惜しくない。心からそう思った。
そうは言っても、痛むものは痛む。
ティリアは厨房の竈に火を入れて湯を沸かすと、お茶を淹れた。それだけで、厨房の中も、体も温まり、痛みが和らぐ気がしてくる。
厨房の丸椅子に腰掛けたティリアが窓の外を見遣ると、先ほどよりも雨脚が強まっている。
今日はもう日差しは望めない。ならば、ソンツェはいつもより早く起きてくるだろうか。
白く煙る窓の向こう。厨房からは木に邪魔されて見えないけれど、あの向こうに離れがある。
折を見て、かつてリリアンが離れに隠した物たちを回収してしまいたい気持ちもあるけれど、二百年間あの場所で眠り続けた物を、今はもうリリアンではない自分が触ることに躊躇していた。
「今日も早いね」
「ジーナさん、おはようございます。あ、手伝います」
厨房担当のジーナが大きな荷物を抱えて入ってきたのを目にして、ティリアはすかさず腰を浮かせた。
「ああ、このくらい大丈夫だよ。ティーちゃんは座っておいで」
ジーナはこの邸の料理人だ。
長年町でレストランを任されていたそうだが、前任者の紹介でこの邸にやってきたのだという。普段は使用人たちのまかないを、邸に客がある時には相応の料理を一手に引き受けている彼の料理は、店を任されていたというだけあってとてもおいしい。
掃除などを主に請け負う使用人たちと違い、料理の仕込みなどもあるため、他の者たちよりも仕事の開始が早く、自然とティリアとは言葉を交わす機会が多かった。
「あ、今朝、卵とパンを使いました。それとオレンジをひとつ」
「はは、ティーちゃんが食べる量なんて、小鳥の餌みたいなもんだ。いつも言っているが好きにお使い」
「ありがとうございます」
ジーナが籠や冷蔵庫に食材を納めていくのを見つめながら、便利になったなと思う。
ティリアの家には、まだ冷蔵庫どころか電灯もない。だから、この邸を訪れて、部屋の中が昼間のように明るいことに随分と驚いた。そのうえ、食材を冷やしておける冷蔵庫まであるのだから、魔法のように感じてしまう。
「今日は冷えるから、夕飯は鶏を煮込んでシチューでも作るか」
「わ、嬉しい!」
いつもならそろそろ朝干した洗濯物を見に行き、乾いている物から取り込む頃合いだ。けれど今日は洗濯室に干してあるから、まだ乾いているはずもない。
邸の中でこうしてよく言葉を交わすのは、ソンツェ以外にはジーナくらいのものだ。
他の使用人たちとは、立ち回る時間帯が合わないからだ。ただ、客人とも使用人ともつかないティリアが、好んで洗濯や掃除をすることについては概ね好意的に受け入れられており、行き会うと感謝をされることもあった。
「ティーちゃん、昼は食べたのかい?」
時刻は午後二時。朝食を食べてからそれなりに時間が過ぎている。とはいえ、ティリアの家は、元々昼食を食べる習慣がない。
貧しさゆえか、それともそういう慣習か。どちらかといえば、元は前者のようにも思うけれど、それらしい食事をするのは朝と夜だけで、昼はお腹が空けばパンをかじる程度で凌ぐのが常だった。
この邸に来てからもそれは続いており、昼は気分で食べたり食べなかったりだ。
「まだですけど……あ、ジーナさん。パイを焼いてもいいですか?」
「構わんが……俺が焼こうか?」
「ふふ、パイはちょっと得意なんです。ジーナさんには敵わないでしょうけど」
ソンツェと夕食を共にして以来、それがなんだか続いている。
きっと今夜もそうなるに違いない。
せっかくだから、彼が好きだったミートパイを焼こう。そう決めて、ティリアは椅子から立ち上がる。
リリアンは料理があまり得意ではなかった。吸血鬼狩猟者一族は爵位を賜る貴族、つまり、リリアンは令嬢だった。家事などできるはずもない。
そのうえ、花嫁修業どころか、十四になってすぐ狩りに従事していたのだから、料理の腕前が上がるはずもなかった。
ある時、リリアンが焼いた不格好なパイを、ソンツェがとても褒めてくれた。それが嬉しくて、以来リリアンはよくそのパイを焼くようになり、その度に彼がおいしそうに食べてくれるのを見るのが楽しみになった。
あの頃よりは、もっと上手に焼けるはずだ。
「そりゃ楽しみだ」
「お邪魔じゃないですか?」
「オーブンは使わないし、そっちの作業台でやってくれれば大丈夫だよ」
ありふれたレシピだ。気づかれるはずもない。
ふと、気づいて欲しいんだろうか、と考える。けれど、すぐに打ち消した。
気づくはずもないし、リリアンはもう遠く二百年前にいなくなった人でしかない。
ティリアは黙々と生地を作る。
家ではよく料理をしたが、このパイはとりわけ家族にも好評だった。
「ティーちゃんは、ネジになるかもしれないな」
「ネジ?」
「ネジ巻きだ。この邸には、ネジを巻く人間が必要なのさ。オルゴールだって、ネジを巻かなきゃ、そのうち不格好に止まるしかない」
手を止めてジーナを振り返ると、彼は背を向けて、手元の鍋をかき混ぜている。
その背を見つめ、言われた意味を考えてもティリアにはよくわからない。
「俺はこの邸に勤めて十年になるが、旦那様にフルコースを振る舞うのは初めてだ」
「私に、付き合っているだけだと思います」
「まあ、そりゃそうなんだろうが、客が来ようとこれまではなかったことだからな。……年々酷くなる。息をするのも億劫そうなもんには、ネジを巻いてやる存在が必要なのさ」
「……それって、どういう意味でしょう?」
肩越しに振り返ったジーナは「さあな」と笑った。
「何百年も生きるなんざ想像もつかないが、俺ならまともでいるのは難しそうだ」
「ソンツェ様に、何かありましたか? 病気とか?」
「なあんにも。なんにもなかったからいけない。だからティーちゃん。せいぜい頑張りな。お、生地ができたんなら、フィリングを作るかい?」
「あ、はい」
「何パイだい?」
「ミートパイを、作ります」
いいねぇと、ジーナはにっこりと微笑んだ。
◇ ◇ ◇
厨房でミートパイを食べたティリアが玄関ホールに差し掛かると、ソンツェと行き会った。
彼の手には濡れた傘と、優美な彼には不似合いなバケツ。その不釣り合いさがおかしくて、つい笑みがこぼれる。
階段裏から現れたということは、庭にでも出ていたんだろうか。
ソンツェが起き出すのは、おおよそ午後五時頃だ。それよりもまだ幾分早い時刻だというのに、いつの間に外に出たのか。
「おはようございます。外に行ってらしたんですか?」
「ああ、ちょっと離れにね」
トクンと心臓が跳ねる。
慌てたように使用人が出てきて、彼から傘やバケツを預かると手巾で肩口などを手早く拭いて去って行く。
それを無言で見送っていると「君は?」と尋ねられた。
「厨房でジーナさんとお茶をしてました。パイを、焼いたので」
「へえ。それは僕もご相伴に預かれるのかな?」
「……夕食の時にお出しします」
「それは楽しみだ。部屋に戻る? 一緒に行こうか」
「はい。……あ、お先にどうぞ。私は時間がかかるので」
今日は痛みが出ているから、いつもよりも階段の上り下りに時間がかかる。
そう考えて答えた次の瞬間、玄関の扉が開いた。
入ってきた人物の胸元を見て、身構える。
吸血鬼狩猟者の証のペンダントだ。
王の──今は、そうは呼ばないらしいが、その邸宅をいきなり襲撃ということもないだろうが。
リリアンが死んだのと同じ年頃だろうか。
金髪の長い髪が美しい女だ。胸にあるペンダントの石は紅。当主の証だ。
一族はあの石を剣に変えて、吸血鬼と戦う。
こちらを見留めた女が胸元に手をやるのを見て、ティリアはすかさずソンツェの前に立とうとした。
けれど、常よりも痛む足がもつれ、そのまま転びそうになる。
「おっと。大丈夫?」
ソンツェに支えられても、女から目が離せない。こんなことなら、駄目で元々、離れに隠した石だけでも持ち出しておくべきだったかもしれない。
「ふふ、毛を逆立てた子猫みたいね」
近くまで来た女が笑みを漏らした。
「やあ、キアク。今日も綺麗だね」
「ソンツェ。もっと丁寧に褒めてくれないと」
「えー……」
「だいたい貴方、長く生きてる割には語彙が少ないのよ、語彙が」
目の前にいるのは吸血鬼狩猟者一族の当主。そして今、ティリアの体を支えているのは吸血鬼の王。そのふたりが、軽口をたたき、笑い合っている。
状況が飲み込めずにふたりの顔を交互に見ると、「ああ、ごめんね」とソンツェの腕が離された。
「その様子だと、君は彼女が何者か知ってそうだけど。彼女は……」
「奥様、ですか?」
吸血鬼狩猟者がこんな風にこの邸に気安く出入りするなど、それだけで彼女がいかに特別かなど察せられる。
よりにもよって、吸血鬼狩猟者の当主を伴侶にしたんだろうか。
「だそうだよ。会いたかったよ、ハニー」
ソンツェの甘い声音に、ああ、やっぱり、と思った途端、女は嫌そうに顔を顰めた。
「やめろ気持ち悪い。初めまして。なにがどうしてそんな誤解をされたかさっぱりわからんが、私はこいつの妻じゃない。キアク・トリオンだ」
ティリアは咄嗟に右の掌を上向きに胸に当て、吸血鬼狩猟者の当主への礼をとりかけた。誤魔化すように手を腹にあてて、そのままぺこりと頭を下げる。
「ティリア・カライアと言います。初めまして」
「……なるほど? 可愛いねぇ。朝焼けの空を織り込んだような髪に、その琥珀の瞳。さながら夜明けの女神だな」
なぜだか急に褒められて、助けを求めるようにソンツェを振り返る。
「と、このくらい言って貰わないと困る」
なぜか胸を張るキアクに「困っているのはティリアの方だよ。先に応接に行っててくれ。すぐに行く」と言ったソンツェは、ティリアを横抱きに抱き上げた。
「わっ、え? あの?」
「このほうが早い。足が痛むんだろう? 夕食も迎えに行くから部屋にいてね」
ティリアを抱いたまま軽やかに階段を上るソンツェは、そう言って片目を閉じた。




