第三話
「離れに?」
日中、ティリアの様子を監視させた人間からの報告を受け、ゾニッツが書斎を訪れた。
「掃除道具を持っていたから掃除に行ったんだろうが、随分長くいたらしい」
「あそこは何も置いてないのにね」
かつてリリアンが愛した離れの建物は、墓所になって久しい。
端から見れば普通の建物だから、そうと知らずに入ったのだろうが、金目のものなど何もない場所だ。
もっとも、それが目当てなら本邸の方がよほどたくさんの物に溢れている。日中、人の目を避けて持ち出そうと思えば、今日だけでそれも可能だったはずだ。
けれど、今日の彼女の行動はといえば、朝起きて厨房で朝ご飯を分けてもらい、そのまま洗濯。洗濯のあとは離れの掃除と、本当に使用人のような一日を過ごしたらしい。
「それで、今、彼女は? 夕食は済ませたのかな?」
窓の外はようやく薄紫のグラデーションが闇へと塗り変わり、厚いカーテンを開けようかという時刻。
吸血鬼ならば朝食、人間には夕食の頃合いだ。
「風呂に入っている。食事はその後に厨房で済ませる予定らしい」
「ふはっ、風呂って。あの子は本当に僕らを吸血鬼だと知ってここに来たのかね」
ソンツェは思わず吹き出した。
浴室は共用だ。ティリアの部屋の向かいだから近い場所ではあるものの、そこは同時にソンツェとゾニッツの部屋も近い。こちらを警戒するならば、日のあるうちに風呂は済ませておくべきだろうに。
昨夜は『生き餌ならどうですか?』などと口走っていたから、本当にそういうつもりがあるのか、それとも警戒心をどこかに置き忘れてきた娘なのか判断もつかない。
「俺が知るか。調査は放ったぞ。といってもリュセリアはさすがに遠い。それなりに時間はかかる」
「ああ、ありがとう。調査結果が出るのが先か、彼女が尻尾を出すのが先か。どっちになるかな」
歌うように言ったソンツェは、ティリアを夕食に招待するようにとゾニッツに命じた。
「そういえば、この件。キアクにも連絡しないとね」
「手配しておこう」
「この邸でキアク以外の人間と食事なんて、いつぶりだろう。あの子は好き嫌いあるのかな?」
「俺が知ってると思うか?」
だよねぇと笑うソンツェに、側近は顔を顰めると「俺は食事をしてくる」と背を向ける。
「一緒にすれば?」
「勘弁してくれ」
◇ ◇ ◇
食堂にやってきたティリアは、先に席に着いていたソンツェに気づくと、え、と小さく呟いて足を止めた。
嫌悪されている、ということはなさそうだから、単純にソンツェがいたことに驚いたのだろう。
風呂上がりだからだろうか。昨夜は丁寧に編み込まれていた髪は下ろされ、纏う服も生成りの質素なワンピースだ。彼女は自身の服装を見下ろした後に、スカートの皺を伸ばすようにさりげなく生地の上を撫でつける。
「ふふ、突然ごめんね。ドレスコードはないから安心して」
「はあ」
ソンツェは立ち上がると、長テーブルの自分の向かいの席に回り込んだ。
椅子を引いてやると、彼女は躊躇いなく腰を下ろした。
人に椅子を引いてもらうことへの慣れを感じる。電灯には驚いているように見えたけれど、商人とはいえ使用人のいるような裕福な家で育ったのか。
そんなことも、おいおいわかるはずだ。
「君もこれから食事だって聞いたからさ、僕も一緒にしようかなって思って」
「……使用人と主人が一緒に食卓を囲むなんて、聞いたことないですよ?」
そんなことを言いつつも、彼女の声色はほんの少し楽しげだ。
「ワインは飲める?」
「……いただきます」
ティリアは注がれたワインをじっと見つめてから、一緒にグラスを掲げた後に慎重に口をつける。
すぐにふわりと微笑んで「おいしい」と呟いた。
「口にあったようでよかったよ」
食事は和やかに進んだ。
ヴァルディエンまでの道のり。二ヶ月もかかったそれが、彼女の初めての長旅であったこと、それがいかに心弾むものだったかをティリアは言葉を選びながらぽつぽつと話した。
料理を口に運ぶ彼女が手を止めたのは、メインのステーキを半分ほど食べ終えた頃のことだった。
「あの……ソ、旦那様はお食事はなさらないんですか?」
「ソンツェでいいよ。……僕も食べてるじゃないか。最初からずっと」
ソンツェはティリアの言わんとすることに気づきながらも、そう返し、切り分けたステーキを口に運ぶ。
表面を炙った程度のそれをおいしいとは感じる。けれど、それだけだ。
人の食事は、吸血鬼の栄養にはならない。
「えっと……ああ! すみません!」
彼女はそう言って椅子から立ち上がる。
「どうしたの?」
「私が食事ですよね」
彼女はそう言うと襟元のボタンに手を掛けた。
どうやら自分がソンツェの食事だと考えたらしい。
昨日の『生き餌』発言は、思いのほか本気だったようだ。
「ははっ、なるほど。違うよ、ティリア。ボタンを留めて座りなよ」
おずおずと腰を下ろすティリアは、まだどこか納得がいかないようにこちらを見つめてくる。
「ねえ、ティリア。君、吸血鬼が怖くないのかい? 血を飲まれるってことはさ、その首に牙を突き刺して、したたる血を飲まれるってことだよ?」
殊更に恐ろしげな表現を選んだソンツェの前で、こてりと首を傾けたティリアは「痛くないって聞きましたよ?」と答えた。
誰に、と問う前に、彼女は言葉を続ける。
「蚊に刺されるのと一緒かなって」
ソンツェは盛大に吹き出した。
吸血鬼といえば、物語の中でも恐怖の対象だ。現実でも、人の生き血を糧とし、時には吸血鬼狩猟者に狩られる。
そんな吸血鬼が、よりにもよって蚊と同列に語られるとは思いもよらず、ソンツェはケタケタと笑い続けた。
そうして笑いながら、かつて同じように蚊になぞらえた人がいたなと思い返す。
リリアンだ。
『痛くないなんて不思議ですよねぇ。蚊と同じ仕組みでしょうか?』
心底不思議だという顔で考えていた、在りし日の彼女を想う。
「そんなに笑います?」
「いや、ふふ、うん、そうだよね。蚊ね。うん。もしかしたら、仕組みはそうかもしれないよね」
最大限の同意を示したソンツェに、ティリアは年相応の顔で唇を尖らせた。
「君はどこまで知ってるのかな。吸血鬼だって人の食べ物を食べるんだよ?」
「食べられるのと栄養になるのは別です」
なるほど、ティリアは正しく把握しているらしい。
ソンツェは「そうだね」と頷いた。
「でもさ、ティリア。僕が食事をするってことは、君の前で女性を膝にのせて、抱き寄せるってことだよ? 気まずくない?」
「……お構いなく」
目尻に滲む涙を拭ったソンツェは「僕が構うよ」と答えた。
「グラスで出して貰ったらいかがですか?」
「まあ、ほら。食事はおいしいし、僕のことはいいよ。ところで君、お酒強いね。もう四杯目だろう?」
酔っているようにも見えないが、それにしてもペースが早い。
指摘してやると、ティリアはハッとしたように固まった。
「おいしくて、数えてませんでした」
「おいしいのは何よりだけど。お酒はよく飲むの?」
「えーと。……初めて飲みました」
ソンツェは、この子はやはり警戒心をどこかに置き忘れた子なんだな、と判じながら、給仕に水も持ってくるようにと申しつけた。




