第二話
陽光降り注ぐ庭の一角に洗濯物を干していたティリアは、最後の一枚のシーツをロープに引っかけると、ほぉと息を吐いた。
十月もまもなく終わろうとしている。実家を出た時にはまだ夏の名残もあったというのに、シーツをはためかせる風は冷たく、確実に冬が近づいていることを告げていた。
それでも、こうして体を動かして日向にいるぶんには、ほんの少し指先がかじかむ程度の寒さだ。
ティリア・カライアがこの邸を訪れたのは、昨夜が初めてだ。
吸血鬼。彼らは陽光を苦手とする。苦手どころか、力のない吸血鬼ならば、即、生命を脅かすものでしかない。だから、彼らの多くは、日没とともに起床し、日の出前に眠りにつく。
昼夜逆転したこの邸で、朝日が昇って以降に立ち動く者は少ない。働いているのは人間でも、主人が寝ている日中に掃除などで動き回れば、その睡眠の邪魔になるし、用を言いつけられるのは日没以降だからだ。
洗濯とて例外ではなく、よほどでなければ夜間でも十分乾かすことは可能だが、やはりこうして日に当てた方が気持ちいいのではと思ってしまうのは、自分が夜の住人ではないからだろうか。
陽光を受ける白いシーツを見つめながら、ついそんなことを考える。
次はいよいよ離れの掃除だ。
ティリアは邸の物置から、バケツや雑巾、箒などを持ち出して、裏庭の右奥──東の端にある離れへと足を向けた。
離れは、二階建ての煉瓦作りの小さな建物だ。サンルームの併設されたそこが、洗濯を干しながらも視界に入り、ティリアは気になって仕方なかったのだ。
本邸の中の一角は立ち入りが禁じられたけれど、離れについては何も言われていない。だから、後から離れへ入ったことを咎められたら、そう言えば済む。
晩秋の花壇は、少しだけ寂しい。彩りの少ない花壇の周辺を、行儀よく整えられた針葉樹が整然と守る。庭師が丁寧に刈り込んだであろうそれらを横目に、陽光弾くサンルームを目指す。
人影もない広い庭で、ティリアは自然と早足になるのを抑えることもできず、不自由な足を必死で動かした。
離れは、白にピンクの縁取りの花弁が美しいバラに囲まれていた。
甘いバラの香りを大きく吸い込みながら、ティリアは古ぼけたドアの前に立つ。
真鍮製のドアノブだ。新品の時には金色でも、長い年月によって暗い飴色へと変わっていくそれは、この建物が建てられてから流れた時間を宿しているように見えた。
もう一度深呼吸してから、ティリアはドアノブに手をかける。
思った通り鍵はかけられておらず、扉はあっさりと開いた。
外気が遮断されたそこは、ほんの少し暖かく感じる。そっと足を踏みしめると、キシと床が鳴った。けれど、大きな窓から入る光に照らされた室内は、古さは否めなくとも、思っていたような埃っぽさもない。
ティリアは箒を握る指先に力を込めながら、部屋へと進む。
中央にテーブルと二客の椅子はあるものの、がらんとしたそこはどこか空虚で、長いこと使われていないのか、壁際の棚には、茶葉はおろかティーカップやポットもない。
ただ、その部屋の清潔さが、けして放置されているわけでもないのを物語っていた。
声が、聞こえる気がした。それだけで、ティリアの胸はぎゅっと苦しくなる。
浅い呼吸を幾度か繰り返してから、サンルームへと続くドアに手をかける。
日の光がいっぱいに差し込むその入り口で、ティリアは息を呑んで立ち尽くした。
床がなく、むき出しの地面だ。
白いバラに囲まれた、小さな石碑。
靴裏に柔らかな土の感触を感じながら、ティリアはその石碑の傍まで進むとゆっくりと膝をつく。
「なんてところに、埋めてるのよ……」
呟く声が震えても、誰にも聞き咎められはしない。
石碑に刻まれた文字を愛おしむように、そっと指先で辿る。
『最愛の妻──リリアン・モントリト ここに眠る』
それは、ソンツェのかつての妻の墓だった。
ティリアが、まだリリアンだった頃──二百年も前の。
ティリアが、かつてリリアンだったことを思い出したのは十一歳の春のことだ。
家の近くの林で、木の上で鳴く子猫を見つけたティリアは、助けてあげようと木によじ登った。
ようやくたどり着き、子猫の方へと手を伸ばすと、猫は驚いたように地面に飛び降り、あっさりと駆け去った。次の瞬間、ティリアは木から落ちた。
目を覚ますと、左足の自由と引き換えに、かつての自分の記憶を取り戻していた。
遠い昔、吸血鬼狩猟者の一族だったリリアンは、十四歳になると同時に狩りを許された。
吸血鬼狩猟者とて、無差別に吸血鬼を狩るわけではない。人に対して悪意を持つ者、我を忘れた者だけを狩る。
けれど、当時のリリアンはまだ幼く、吸血鬼の本性は、皆一様に化け物だと信じて疑わなかったのだ。
リリアンは無謀にも、吸血鬼の王──ソンツェ・モントリトを付け狙うようになった。
未熟な狩人と吸血鬼の王。ソンツェは、猛獣の親がその尾で仔をいなすように、リリアンを適度に受け流し、また時には彼女の狩りに協力もしてくれた。
秩序を乱す同胞を粛正するのも、王の役目だったからだ。
仲間の命を奪う。それがどれほど彼を傷つけるのかを目の当たりにするうちに、リリアンはソンツェと徐々に友好的な関係を築くようになった。
ふたりの関係が大きく変わったのは、リリアンが二十歳の時。
伴侶を選び、子を産むように一族に迫られた時のことだ。
『誰かのものになるならさ、僕にしとかない? 吸血鬼になってとは言わないから、僕のお嫁さんになってよ』
吸血鬼狩猟者が吸血鬼の伴侶になるなど許されることではない。
それでも、リリアンはソンツェの手を取った。彼を、愛していた。
幸せだった。一族からは追放されたけれど。親にも親族にも会えなくなっても、リリアンは誰よりも幸せだった。
けれど、それは五年で幕を閉じた。リリアンが病に倒れたのだ。
最期はよく覚えてない。ただ、弱っていく姿を見せたくなくて、見舞おうとするソンツェを遠ざけたことは覚えている。
墓碑は陽光に暖められて、ほんのりぬくもりを帯びていた。その熱を感じながら、ティリアは『最愛の妻』の文字を指先で幾度も撫でる。
この離れは、結婚した年に建てたものだ。
真冬にも日差しの中でお茶を飲みたいというリリアンの要望を汲み、サンルームが併設された。他にも、彼には内緒で小さな秘密を幾つも仕込んだのに、それらはただ秘密のまま、リリアンは生を終えてしまった。
記憶を取り戻してからの七年間。ティリアは必死でお小遣いを貯めた。
ソンツェに会いたくてたまらなかったからだ。
でも、ヴァルディエンは子供には遠すぎた。
学校にも行かず、父の仕事を手伝った。
三女であるティリアは、家を継ぐ必要はない。十八歳になったら家を出ていいという許しを得て、それを支えに日々を過ごしてきた。
十八の誕生日を祝ってもらってすぐに、家族には「いつでも戻ってきていい」と何度も言われながら、家を出た。
女の一人旅と悟られないように男装し、馬車を乗り継ぎ、汽車に乗った。
二ヶ月掛けてたどり着いたのに、どうにも決心がつかずに、呼び鈴を押すまでに四日かかった。それはソンツェにはバレていたらしいけれど。
手持ちの服で一等上質なワンピースを纏ってはきたけれど、さぞや不審人物に見えただろう。それでも、どうにか邸にいることを許された。
夜空色の髪も、金色の瞳も、記憶のままの姿だった。
改めて、彼が人でないことを思い知った。それでも、会えた喜びに息が詰まった。
会って、かつての妻だと名乗るつもりはなかった。
ただただもう一度、ソンツェに会いたかった。それだけだ。
使用人としてでも邸で働かせてもらえたら、近くにいられる。それしか考えていなかった。
夫婦の寝室。立ち入りを禁じられたそこに、彼の今の最愛がいる。きっとすぐに顔を合わすだろうに、奥様と呼びかけて、上手に挨拶できるだろうか。
奥様、初めまして。
奥様、よろしくお願いします。
奥様。奥様。奥様。
ティリアはしゃがみこんだ膝に顔を伏せる。
今度はちゃんと、同じ時間を歩ける人を選んだだろうか。
彼も私も、あの時、その決断をできなかった。
人は永遠を生きられない。体が吸血鬼に変わっても、心がその悠久には耐えきれず壊れてしまう。そんな姿を幾度も見た。幾度も、狩った。ソンツェと共に。
いつか、彼に自分を狩らせるのが怖かった。さして言葉を交わしたこともない同胞にすら心を痛める彼が、妻となった女を狩るなどどれほどの絶望だろう。
そんな痛みを味わわせるくらいなら、最初から寿命いっぱいで諦めればいいと言い聞かせながら、決断を遠ざけた。たった五年で終わってしまうとも知らずに。
ようやく会えた。
この七年間、会いたくて会いたくて、夢に見てすら足りなかった人。
ティリアはひとしきり膝に顔を埋めつづけ、やがてゆるりと立ち上がった。
陽光は、いつのまにか夕日の色をしていた。




