第一話
応接室を煌々と照らす照明を、口を開けて見上げた彼女は、「電灯が珍しい?」と声を掛けると、ハッとしたように佇まいを正した。
田舎から出てきたばかりだろうか。垢抜けているとは言いがたい。それでも、装飾のない深いモスグリーンのワンピースは仕立てが良さそうで、彼女の赤い夕陽色の髪がよく映えていた。
従者も連れず、鞄がひとつ。少なくとも貴族の娘ではなさそうだが、すっと伸びた背筋が凜とした佇まいを醸す。
左足を庇っているのか、ほんの少し足の運びがおかしい。
痛めているなら治療がいるだろうと尋ねると、「子どもの頃に木から落ちた時に」と恥じるように自身の脚を撫でた。
ソンツェは彼女にソファーを勧め、自身もテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろす。
お茶を運んできたメイドを下がらせれば、室内にはソンツェと彼女、そして壁際に立つソンツェの側近のゾニッツのみとなった。
「なんの用事か知らないけどさ、普通こんな時間に人の邸を訪ねる? ましてや事前の約束もない。ずいぶんと非常識だよね」
窓の外は闇に落ちている。
ソンツェの言葉に呼応するように、床置きの振り子時計が鐘を打ち、日付を跨いだことを告げた。
「非常識、ですか? この邸を訪ねるなら、このくらいの時刻が礼儀にかなっていると思うんですけど」
「……なるほど? 面白い礼儀を持ってるようだ。それで? 四日目にしてようやく呼び鈴を押した君は、僕に何の用?」
遠巻きに邸の周囲をうろついていたことには気付いていた。暗にそう告げると、彼女は叱られている子供のように視線を彷徨わせた後、意を決したようにこちらをまっすぐ見つめてくる。
切れ長で理知的な目だ。物怖じしない勝ち気そうな琥珀色。
当主としてだけでなく、一族の長として、女から艶めいた目で誘われることはあっても、挑むように見つめられることはそうはない。
いったい彼女は何を言い出すのか。
ソンツェが期待を込めた目で見つめ返すと、彼女は「私を雇ってください」とひどく平凡な願いを口にした。
「身上書はこれです」
鞄から取り出した封筒を、けれどソンツェは受け取らなかった。
「使用人なら間に合ってるんだ」
「でも、あなたは私を雇いたくなるはずです」
「へえ? 何か特技でもあるの?」
「あなたの秘密を知っています」
封筒を差し出す手を引っ込めることもなく、彼女はまっすぐにこちらを見つめ続ける。
こんな時間に平然とこの邸を訪ね、それが礼儀だと言い張る。そんな女が握る秘密に、ソンツェは心当たりがあった。けれど、それをおくびにも出さずカップを持ち上げて茶に口をつけた。
「秘密って?」
「あなた、吸血鬼ですよね」
「君、寝ぼけてるの? そんな作り話を信じて、こんな時間に訪ねてきたわけ?」
「作り話ではないですよ。私はあなたが吸血鬼だって、知っているんです」
迷いなくそう言った彼女は、相変わらず封筒をこちらに差し出している。
ソンツェは背もたれから身を乗り出し、彼女の手首を掴んだ。
「もしも僕が君の言う通り吸血鬼だとしたら、こんな場所にひとりで来て、ここで餌にされても文句はないね?」
狼狽えるか。それとも怯えるか。
ソンツェの予想に反し、彼女はこちらを見つめてひとつ瞬きをした後、「確かに」とまるでたった今その可能性に気付いたとばかりに頷いた。
「あ、えっと……そう! 私が戻らなかったら、別の人があなたの秘密をばらします」
「……別の人って、誰?」
手首を掴んだまま、殊更に声を落として低く尋ねても、彼女はひとつも怯えずに「別の人といったら、別の人です」と答えにもならない答えを返す。
ソンツェは手首を離すと、彼女の封筒を受け取って背もたれに寄りかかった。
「怖がってくれなくちゃ、つまらないな」
封筒の中身は身上書だけだ。普通はこんな時、身元保証書や紹介状を携えているものだが、封筒の中にはその紙一枚きりしかない。
「えーと、ティリア・カライア? リュセリア国……随分遠くから来たね。ヴァルディエンには何しに来たの?」
「……仕事を探しに」
リュセリアからヴァルディエンまでは、どう見積もっても一ヶ月以上掛かる道のりだ。
しかも、職探しなら昼の町なかで求人の貼り紙を探すとか、紹介所に頼むとかいくらでもやりようはあるはずなのに、彼女はこの邸に来た。
言葉を額面通りに受け取るならば、ティリアはこの邸で働くために、遠路はるばる訪ねてきたということになる。
「綺麗な字だね。自分で書いたの?」
「はい。読み書きも計算も出来るので、書類仕事もできます」
「ってことは、ここには書いてないけど学校には行ったんだ?」
「いえ。……父が商人をしています。その手伝いで覚えました」
読み書き計算が出来れば、職の間口は広がる。
学校を出ていないとなると、体裁を気にする家柄の邸では難しいかもしれないが、能力次第ではメイドよりいい給金の先を紹介できるかもしれない。
「うちは使用人は間に合ってるんだ。働きたいなら紹介状を書いてあげるから……」
「ここがいいんです。それに……生き餌ならどうですか? ……王」
「ふはっ、王ときたか。随分懐かしい話を知っているんだね。吸血鬼狩猟者でも、最近はその呼び名を知らない子たちも多いと思うよ……君、何者?」
王。その呼称を廃して、百五十年は経つ。
一族の人間ならいざ知らず、ただの人間が知るはずもない話だ。
ソンツェの視線の先で、ティリアはなんの気負いもなさそうな笑みを浮かべた。
「身上書にある通りです。ティリア・カライア。商人の娘です」
「なら、君にそれを教えたのは、誰?」
「秘密です。でも、知っていることはまだあります」
彼女はゆったりとカップを持ち上げて、茶に口をつけた。
そのたおやかな仕草は、平民の娘には見えない。
「他にも? たとえば?」
「手札は、いきなり全部を明かすものではないと思いませんか?」
「手札、ねぇ。……でもさ、得体の知れない人間を雇うと思う? 寝首をかく剣を隠し持っていないとも限らない」
「得体は、そこに書いてありますよ? それに、たとえ私が剣を隠し持つような人間だとしても、ただの人間の私が吸血鬼に敵うはずないじゃないですか」
こんな脚ですし、と彼女は自身の左脚をひと撫ですると眉を下げて笑った。
「ついでに言うと武器なんて持ってないですよ? あ、荷物見ます?」
ティリアはどこまでも緊張感の欠片もない。初対面の、しかも吸血鬼を前にした女とも思えない物言いに、ソンツェは軽く肩を竦めた。
「荷物はいいよ。でもなあ、本当に使用人は足りてるんだ。だからさ、客人として置いてあげるよ。その間は当然衣食住は保証する」
「……そのぶんくらいは働きます」
今の話では、衣食住以外、彼女にはひとつも儲けがない。
それに気付いているのかいないのか。それとも、この邸に滞在することが目的なのか。
いずれにしろ、住まわせてみればわかるに違いない。
そう考えて、ソンツェは「好きにすればいいよ」と頷いた。
「掃除も洗濯もします。入っちゃ駄目な場所だけ教えておいてください」
「そうだなぁ。階段を上った二階の左側エリアには入らないで。夫婦の寝室があるから」
「……はい」
「それと二階の右奥が僕の寝室だから、来てもいいけれど、その時はそういうつもりで来てね」
殊更に艶事を仄めかせて笑みを向けてみたものの、彼女は胡乱げな目で、こてりと首を傾けた。
「夫婦の寝室以外に、ソンツェ……様の寝室があるんですか? つまりは、『浮気用途』でお使いですか?」
「冗談だよ。僕はこう見えて一途だからね。部屋に案内させるから、今日はゆっくり休むといいよ」
ソンツェがテーブルベルを振ると、すぐにメイドが部屋へと入ってきた。
ティリアが客人であること、相応にもてなすことなどを伝え、二階のゾニッツが使う部屋の隣に案内するよう伝える。
ゾニッツの部屋の向かいはソンツェ個人の部屋でもあるから、比較的彼女に目が届きやすいはずだ。
「ああ、ティリア。怪しいと思ったら、すぐに邸から放り出す。そのつもりでね?」
出て行く彼女に伝えると、ティリアは丁寧に頭を下げ、メイドについて部屋を出て行く。
その扉が閉まった途端、これまで事の成り行きを黙って見ていたゾニッツが口を開いた。
「どういうつもりだ」
「どうって。我が邸にしばらく客人が滞在するねえ。ゾニはどう思う?」
壁から背を離したゾニッツは、苦虫を噛みつぶしたような顔で歩み寄ってくると、先ほどまでティリアが座っていた場所に、どかりと腰を下ろした。
「どうもこうも、怪しさしかないだろう。なぜ置く?」
「なぜって、野放しにするほうが危なくない?」
もう一度身上書に目を走らせてみても、今わかることなどたかが知れていた。
「ということでさ、身上書に不審な点がないか、それと本当は彼女が何者なのか、早急に調べて」
差し出した身上書を受け取ったゾニッツは「なんで楽しそうなんだ」と嫌そうに顔を顰めた。
「さあ……でも、ちょっと面白そうじゃない? 王なんて知ってるのは一族か吸血鬼狩猟者一族くらいのものだよ。それだって、今の吸血鬼狩猟者たちは知らなくても不思議じゃない。なら、彼女は一体何者だろうね?」
かつて王──一族の牙と呼ばれた男は、さも楽しそうに目を細めた。




